圭ちゃんが亡くなってからのマイキーは、少しの間、ぽっかりと大きな暗闇をこころに抱えていた。

 それでも数日中には立ち上がり、真っ直ぐわたしを見つめて、「ごめん」と「ありがと」と頭を下げた。抗争直後、うちでほとんど抜け殻みたいになっていたときのことを言っているのだと思う。
 うん、とうなずくしかなかった。


 圭ちゃんの愛機のゴキは千冬くんに譲られることとなった。
 わたしは恐れ多くも圭ちゃんの特攻服を受け取った。
 まだ東卍が大きくなる前の頃、圭ちゃんの特攻服を制服の上から羽織って遊んだことがある。圭ちゃんは「似合ってねンだよバァカ」と言いつつわたしの好きなようにさせてくれた。仕立てた三ツ谷くんは「ブカブカだな〜」と笑いながら写真を撮ってくれた。パーちんはその後ろで変顔をしていて、マイキーとドラケンくんは大笑いしていたっけ。


「おっきいね」

 圭ちゃんはここ二年で背が伸びたから特攻服も一回仕立て直している。
 マイキーとドラケンくんの前で羽織ってみると、相変わらず全然似合っていなくて、裾も袖も長いしブカブカだった。

「ま、お守り代わりに持っとけよ。要らんってなったらオレかマイキーが引き取るし」
「あげない。要らなくならないもん」
「なるかもよー。あきが『もう東卍のことなんて忘れたい! 不良には関わりたくない!』って思ったときとかさ」
「怒るよ。マイキー」

 マイキーは肩を竦めた。
 どうしてだろう。彼は本当に、いつかそうなると思っているみたいだ。


第二章
幾千億の夜の灯、02




 “血のハロウィン”から二週間。
 圭ちゃんを喪ったマイキーのこころは、少しずつわたしたちのもとへ戻ってきた。

 わたしは別に何ができるわけでもない。ただ時の流れるままに圭ちゃんの死を悼み、学校へ行き、マイキーが気まぐれに訪問してくるのを受け入れ、一緒におやつを食べたり、学校や塾の宿題をしたりして時間を過ごした。
 わたしの部屋にやってくるマイキーは、口数はいつもより少なく、笑顔もほとんどない。
 不意に涙を流すことはなくなったけれど、たまにぽけっと、魂がどっかいっちゃったような横顔になるのが心配だった。

 エマちゃんやドラケンくんの話を聞く限り、外ではほとんど元通りの態度だという。抗争後の後処理にも着手しはじめたらしく、最近は千冬くんと話し込んでいる姿をよく見るそうだ。


▼△▼



 部活を終えて友だちと一緒に校門をくぐると、珍しい人が待っていた。

「マイキー?」

 相変わらず頑なに袖を通さない学ランを肩に引っ掛け、制服姿なのにカバンも持っていない腐れ縁。昼間だからか、連れ添いはバブではなくてママチャリだ。
 一緒に歩いていた友だちが「誰?」と肩をつついてきた。

「あの‥‥‥」彼氏、と答えていいものかどうか。迷ったあげく「他校の幼なじみ」と答えると、彼女はとんでもない爆弾を投下した。

「ねえ、先月もこんな感じのことあったよね。本当に大丈夫なの?」
「エッ」
「ほら昼休みに他校の男の子が来てさぁ。そのあと学校帰ってこなかったじゃん、カバンとか荷物とか全部そのままにして。みんな心配したんだよ?」
「だだだだだ大丈夫!! 大丈夫だから!!」

 ガッ、と肩を掴まれる。
 女には手を上げないのが信条のマイキーにしては異例の力強さ。やばいこれ怒ってる。怒ってるときのやつ。

「あき、放課後デートしよっか」
「わ、わたし今日帰って見たいテレビがあったりなかったり」
「それってオレより大事?」
「‥‥‥‥じゃ、ナイ、です」

 ずるい、その言い方。

 首根っこ引っ掴まれてママチャリの荷台に載せられ、カバンは前カゴへ。若干涙目で友だちに手を振ると「本当に大丈夫? 先生呼ぼうか?」と念押しされた。大丈夫です‥‥‥。

「‥‥‥どこ行くの?」
「どこ行きたい?」
「放課後デートしよって言ったのマイキーじゃん」
「んー。あきと一緒にいたくなっただけだから、場所はどこでもいいんだよね」
「適当だなぁ」

 特別大柄でもないくせに、わたしを後ろに載せてもびくともせず、マイキーはすいすい自転車を漕いでいる。さすがケンカで鍛えた筋肉だるま。
 マイキーたちを見慣れているせいで、水泳の授業で見る男の子の上半身がひょろひょろすぎて心配になってしまうくらいだ。

 学ランの背中に顔を埋める。
 彼の体に回した両腕から、生きている人の体温が伝わってくる。

「‥‥‥ぃなぁ」
「うん? なんか言った?」
「このままさ、二人だけで、誰も何も知らない場所に行きたいな‥‥‥」

 キキ──、と無理な音を立てて自転車が止まった。
 予期せぬ衝撃に思いっきり鼻をぶつける。バランスを崩したので慌てて地面に足をつくと、マイキーは恨めしげな顔をしてこっちを振り向いた。

「‥‥‥なんでそういうこと言っちゃうかな、あきは」
「え、ゴメンなさい」
「いっつもそう!」
「ご、ごめんなさい」

 このやりとり、なんだか前にもした覚えがあるぞ。よくわかんないけど謝っておこう。

 でも、確かに。東卍総長のマイキーには捨てられないものが多すぎる。二人だけで、なんて図々しいこと言っちゃったかな。
 でも本当にそう思ったの。
 まだドラケンくんとも知り合う前の、東京卍會なんて存在しなかった時代の、ただの“佐野万次郎”と“成瀬あき”だった頃に戻りたいって。


 ひどい暴力も、残酷なことも、喪失も、何もかも知る前のわたしたちに戻りたいって、そう思ったの。


 気を取り直して自転車に乗り直す。
 マイキーは渋谷から遠ざかろうとしているみたいだった。

「で、先月の昼休みって、どういうこと」
「‥‥‥‥」
「あきが公園に寝かされてた日のことだろ。他校の男が来たって、何」

 いいのかなぁ、言っても。
 東卍と芭流覇羅の抗争は、ハロウィンを境にひと段落したとはいえ、圭ちゃんの死もあってまだピリピリしている状態にある。ここで迂闊なことを喋ってしまえば、マイキーとカズトラくんのために自分を刺したという、圭ちゃんの覚悟も有耶無耶になってしまいはしないだろうか。

 自慢じゃないけど、マイキーって過保護だ。圭ちゃんに負けないくらい。
 ああもう、圭ちゃん助けて。

「‥‥‥カズトラくん」
「カズトラ?」
「うん。昼休みに教室に来て、ちょっと二人でお話しようよって、校門の外に出たの。そしたら芭流覇羅のアジトにつれていかれちゃって‥‥‥」

 マイキーの後ろ姿がどんどん剣呑になっていく。

「縛られはしたけど、何もされてないから。圭ちゃんもすぐに来たし。なんか、圭ちゃんが芭流覇羅に入ることになったのを、わたしに確認させたかったんだって」

 間違ったことは言ってない。
 圭ちゃんが千冬くんを殴る音、飛び散る血、掴まれた顎、唇についた血の味。
 マイキーがわたしに隠し事をするように、わたしだって彼に言えないことがある。それだけだ。

「多分、公園まで連れ出してくれたのも、マイキーにメール送ったのも圭ちゃんだよ」
「多分ってなに。‥‥‥そんな意識失うようなことされたの?」
「されてないってば。圭ちゃんが芭流覇羅に入るなんてショックだったから、それでちょっとよく憶えてないっていうか。ね」

 マイキーは再び自転車を停めた。
 大きな川沿いの土手に差し掛かったところだった。わたしが荷台から下りると、彼は自転車を引っ張ってのり面の草原に倒す。

 柔らかな夕陽が、川の水面を橙色に染めていた。

「バイクじゃねーし、あんまり遠くに行くと帰るの大変だから今日はここまでね」
「うん」

 マイキーはころんと草の中に寝転がった。
 わたしはその横に腰を下ろす。スカートの下の素足に草が当たってちくちくと痛い。

「あのさ」
「うん?」
「今度、ケンチンがタケミっち連れて、カズトラの面会に行くんだってさ」
「‥‥‥そっか」

 頭の後ろに手を組んだマイキーは、夕焼けに染まる東京の空を見上げた。
 深淵を覗くような色をした、ふしぎな眸。

 わたしがぽけっと見惚れているのに気がつくと、マイキーは片腕を伸ばしてくる。頭で考えるより先に、その手に誘われて顔を寄せた。
 マイキーって不思議だ。見つめられたら逆らえない。

 人を撫でるより殴ることのほうが多い手は、わたしの頬を掠めて髪を掻き上げた。

「オレ、ずっとカズトラを殺したいと思ってた。そんなオレを場地が止めてた。あきも知ってるだろ」
「‥‥‥うん」

「でも、場地を喪ってまで晴らすべき恨みじゃ、なかった」
「そうかもしれないね」


「‥‥‥カズトラのこと許そうと思うんだ。オレ、間違ってるかな」


 ぱち、と瞬きをして、わたしは頬を撫でるマイキーの指先に視線を移した。

 圭ちゃんはこうなることがわかっていたのかな。
 それとも、こういう結末のために東卍を抜けたのかな。
 カズトラくんを殺したかったマイキーと、マイキーを殺したかったカズトラくん。ドラケンくんやわたしにマイキーを任せて、出所したばかりで一人ぼっちのカズトラくんに寄り添い、大好きな二人の憎み合いを一人でなんとかするために、もしかしたら。

 ‥‥‥なんて、全部終わったあとで言ったって、どうしようもないけど。

「間違ってるわけないよ。‥‥‥圭ちゃんも、そのほうが喜ぶと思う」
「そうかな?」
「うん。カズトラくんが出所してきたらさ、みんなで集まって、知り合った最初のときみたいにわいわい騒いで、その頃にはもう大人になってるだろうから、お酒も飲んで。それで、一緒に圭ちゃんのお墓参りに行こうね‥‥‥」

 ついっと髪を引っ張られる。マイキーの腕のなかに転がって、彼がやりたいように髪の毛やほっぺたをいじらせていると、「うん」と独り言みたいな返事が聞こえてきた。
 草が当たってくすぐったい。
 ふふっと笑ってマイキーの肩に顔を預ける。

「‥‥‥あきは変わんないでね」

 彼は抑揚の薄い声で零した。

「“一人ひとりが仲間のために命を張れるチームにしたい”」
「‥‥‥‥」
「場地はそう言ってたけど。でも、あきはそんなことしなくていいから」

 体を起こして反論しようとすると、グッと手に力を込められてマイキーの肩に逆戻りする。
 こういうときは何も言わせてくれないんだ。
 全部ひとりで背負い込もうとする、マイキーの悪い癖。

「オレたちのそばでも、どこか遠くでもいい。痛いことも怖いことも関係ないところで生きて、笑ってて。それだけでいい」
「マイキー」
「約束。あきは無茶しない。ね」

 なんだかわけもなく涙が出そうになった。
 カズトラくんの手で尊敬するお兄ちゃんを喪った。自分で裁きたい気持ちを必死に宥めてくれた圭ちゃんを喪った。


 もうこれ以上、なにものもマイキーから奪わせたくないな。


 そのためにはわたし、この人から離れちゃだめだ。


 いつかわたしが東卍から離れる日がくるかもしれないなんて笑う。そばでも遠くでもいいからなんて言う。全部、「そばにいて」の裏返しだ。
 この手で縛りつけていなくても自分の意思でわたしがそばにいる、それを望んでいるんだ、この人は。

「‥‥‥無茶なんてさせてくれたこともないくせに」
「そーだっけ?」

 ちょっとだけ恨み言を洩らすと、マイキーはニコっと笑った。


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