「ねぇ、あき。別れよっか」
甚兵衛のポッケに手を突っ込んだまま、マイキーはいつもの無表情でそう言った。
インターホン越しに「オレだけど」「はいはーい」といつものやり取りを経たあと、玄関の扉を開けるや否やその一言だ。
わたしはぱちぱちと瞬いて、額に指を当て、わざとらしく考え込むような素振りをした。
そして本当に考え込んだ。
とても真剣に考え込んだ。
彼と知り合い、なんだかんだと腐れ縁の続くままここまで馴れ合ってきた、十数年の短い人生を振り返りもした。
暦は七月、夏休みに入ったばかり。
庭のドングリの木に張りついた蝉が元気よく歌っている。
「別れるも何も、わたしたち、つきあってたっけ?」
「‥‥‥アレ?」
そう、一番の問題はそこである。
第一章
あなたの心臓、01
「オレらってつきあってなかったの?」
マイキーはあどけない表情で首を傾げた。
何も知らない人ならば、彼が渋谷一帯に名を轟かす暴走族『東京卍會』のトップだなんてちっとも想像できないことだろう。その事実を知っているわたしでさえいまだに違和感があるくらいだし。
確かに彼、佐野万次郎は昔から、他の子どもとは一線を画す価値観の持ち主だった。
身体能力も。そして家庭環境も、少し。
だけれど家が近所という理由でよく遊んでいたわたしに拳を振り上げたことなどなければ、殺すぞなんて凄んできたこともない。
わたしにとって彼はいつだって「万次郎」だった。自分で「マイキー様」と名乗るようになり、それにつきあって呼び方を変えた今もその認識は変わらない。
「‥‥‥待って、全然記憶にない。だってわたし、マイキーに好きなんて言われたことないし、つきあってとも言われてない。彼女になった記憶がこれっぽっちもないよ」
「エー。でもあき、みんなの中ではオレの彼女ってことになってるよ?」
「うん、それはそうなんだけどね‥‥‥?」
自分で言うのもなんだけど意味がわからないな。いやもちろん、周りが“そういう扱い”をしていること自体は知っているけど。
マイキーをはじめとする東卍の創設メンバーと一緒にいれば否が応でも狙われる。彼らの弱みだと認識されれば、拉致されて人質にされることだってあり得るし、ひどければわたし自身がリンチに遭う可能性さえ無きにしも非ず。物騒な世の中、物騒な界隈にいるもので。
そうなるともういっそのこと『マイキーの女』というポストのほうが安全なのだそうだ。
そこまでいってしまえば「死にたくなけりゃマイキーの女には手ェ出すな」という話になるらしい。
おかげさまで、こんなにも目立つうえしこたま敵の多い彼の傍にいてなお、わたしはこれまで五体満足で生きてこられたというわけだ。ドラケンくんがそうだと言うのだから多分本当にそうなのだ。
でもそれは、あくまで“そういう扱い”というだけ。
末端のメンバーや外部の不良が思い込んでいても、ドラケンくんたちが“そういう扱い”をしていても、わたしたちが「まあそういうことにしとこっか」とうなずき合っても、“そう”だという事実はない。
そのことを一番知っているはずの本人がこれである。
「んー、まあいっか」
「まあいっか、ってマイキー」
昔からちょっとズレてる子だったから、まあこの反応も無理ないかな‥‥‥で済ませてしまえる自分を慌てて奮い立たせた。
だめだめ。マイキー甘やかしたらドラケンくんに叱られちゃうんだから。
「だってあきがオレの一番近くにいる女なのは、好きとか彼女になってとか言ってなくても変わらないし、ケンチンも場地も三ツ谷もパーもエマも、みんな知ってることだろ。あきだってそうじゃん。それともオレより大事な男いる?」
「‥‥‥いないけど。今のところ」
「うん。じゃあ、あきはオレの」
マイキーはニコっと笑った。見る者ほとんどをだまくらかしてきた魔性の笑顔。
いい加減この無邪気な笑顔に騙されはしないけれど、彼の清々しいほどのジャイアニズムに組み込まれても嫌じゃないあたりわたしも大概だ。
‥‥‥どうせ食い下がったってペースに載せられるだけだしもういいや。
「それで、急にどうしたの?」
「うん。今日さー、病院に行ったんだよね」
「病院って、誰か怪我したの? えっていうかそんなひどいケンカがあったの!?」
「違うよ。パーのダチの彼女が入院してんの」
東京卍會創設メンバーであり、参番隊の隊長でもあるパーちん。
の、お友達の、彼女。
マイキー自身の知り合いではないようだし、東卍のメンバーでもないのに、一体なんの用があったのだろう。話が長くなりそうだなと思っていつも通り「とりあえず上がったら」と促したけれど、マイキーは玄関に足を踏み入れただけで、サンダルを脱ごうとしなかった。
「上がらないの?」
「うん。ここでいい」
ポケットに手を突っ込んだ体勢のまま、マイキーは静かに首を振った。珍しいこともあるものだ。
ドアを閉めると、蝉の鳴き声が途端に遮断されて、静かな家のなかに二人きり取り残されたような気持ちになった。
ほとんど間違いなく、今の渋谷でこの場所が最も安全だ。
だってここにはマイキーがいる。
「
「‥‥‥‥」
「今までは、そこまでやるような奴らと、当たらなかったけどさ‥‥‥」
うまく言葉にならないみたいで、彼はそっと目を伏せた。
マイキーは、昔から無敵にカッコよかった。
どんな悪者も彼の蹴りの一つに昏倒し、同世代の不良なら誰もがこの小さな背中に痺れるほど憧れる。
“無敵のマイキー”、そんな二つ名がついたのはいつの頃だったか。
けれど、心のどこかにぽかりと空白を抱える人だった。
時折その空白が彼を蝕み、闇へと誘うことがある。
わたしはそんなマイキーを見るとせつなくなる。
「‥‥‥そっか」
手を伸ばして、ポケットのなかに握りしめられた拳をそっと外に誘った。
たくさんの痛みや、血を知る拳。
色白なくせに誰より強いの。
「もしかしたら、わたしもそんな目に遭うことがあるかもしれない、って思ったんだ。それともドラケンくんにそう言われた?」
「‥‥‥なんでそこにケンチンが出てくんの」
だって彼は、あなたの心で在ろうとしてくれているから。そういう人間的なところは、ドラケンくんの担当だもの。
胸の奥に仕舞い込んだ代わりに小さく微笑むと、マイキーはむず痒そうに眉を寄せる。
「そしたら遠ざけておきたくなった?」
「‥‥‥ウン」
こくんとうなずいて項垂れる。すると、彼とわたしの目線は等しくなる。
彼の無表情を覗き込んで、本当に言いたいことはそれだけなんだろうか、まだ他に言えないでいることはないだろうか、と眸のなかを探した。
わたし、単純なんだ。
マイキーの中に本当はとても冷酷な一面があることを解っていても、時に恐ろしいほど酷薄な表情を見せることがあると知っていても、自分がその対象になることは一生ないだろうと思えるから怖くない。
でも彼はちがう。
彼は、弱っちいわたしを怖れる。
「“無敵のマイキー”にも、怖いものってあるんだね」
「‥‥‥‥」
マイキーの、世界なんてこれっぽっちも興味ないような、それでいて誰より多くのものが見えているような、不思議な双眸が真っ直ぐにわたしを見つめた。
「別れよう、なんて嘘」
「嘘じゃねーし」
「嘘。だって顔に書いてあるもん。“離れたくないなぁ”って」
「‥‥‥書いてねーって」
ぷいっとそっぽを向く子どもみたいな仕草に笑ってしまった。東京卍會総長の“マイキー”が、図星をさされてふくれっ面なんて、一体東京中の不良の何人が想像できるだろう?
この人、こう見えてケンカがめっぽう強いんです。“マイキー”って名前を聞いたら、不良みんなが何かしらの感情を抱かずにはいられないくらい。
好悪問わず、誰にも無視できないくらい、そのくらい凄い人なんです。
でも実はかなり子どもっぽくて、お子様プレートなんて頼んじゃうし、オムライスに旗が立っていなかったら拗ねるし、人のパフェ食べちゃうし、「一口ちょうだい」って言って半分くらい食べられちゃってよくケンカになるし、妹には甘くて、お兄さんのことをずっと尊敬してる。けっして善人じゃない。世間的には非行少年だし不良だけど、こころの中にさみしい空白を抱えているけど、仲間のことを一番に想っている不器用な人なの。
誰かが傍にいないと。
わたしじゃなくてもいい、とにかく誰かが。
両腕を回してぎゅっと抱きしめると、「ぅ」と妙な声を上げてマイキーは固まった。子どもの頃からマセたことばっかり言ってたくせに、こういうのは照れるみたい。
こんなにも近くに体温を感じるのはしばらくぶりだった。
前にわたしが不良に捕まって、のこのこ駆けつけたマイキーが全員地に沈めたあと、「ゴメン」って抱き寄せてくれたとき以来だ。
「わたしは、離れたくないんだけどなぁ」
「あき、‥‥‥」
「痛い思いするのが怖くないわけじゃないけど、怖い思いなんてしたくないけど。マイキーともう会えなくなるほうが、ずっと辛いよ」
「‥‥‥‥ん」
唸るようにうなずいた彼の両腕が、恐る恐るといった様子で背中に回る。
人の顔面を陥没させたり骨を折ったりするほどの力の持ち主が、こんなにも優しくわたしを抱く。なんだか胸がいっぱいになって泣きそうだった。
「あんまり怪我しないでね」
「うん」
「またみんなでファミレス行ってお喋りしようね。海もプールも、映画も行きたい。花火もしたいし、お祭りにも行きたいな。あと、ちゃんと夏休みの宿題はしなきゃ駄目だよ。今度みんなで一緒に宿題合宿しようね。──今年こそ全部できるまで逃がさないから」
「あ〜〜オレもう行かねーとっ!」
「こらっ、マイキー!」
いそいそ逃げ出したマイキーの甚兵衛の裾を引っ掴むと、ニッと口角を上げて笑った彼は「またね」とドアを開けた。
再び捉まえる間もなく、サンダルをぺたぺた鳴らしながら逃げていく。
夏の日差しのなかへ駆けていくまばゆい笑顔を、肩を竦めて見送った。
「またね、ってことは、別れ話はナシになったのかな」
これが、わたしにとっての八・三抗争のはじまりだった。