どこか遠くから聴こえてくる車両の唸り。

 ‥‥‥人の話し声。


 上空を飛ぶヘリのプロペラ音。



 ‥‥‥‥‥鳥の羽搏き。


 聴覚を撫でていく環境音がゆっくりと遠ざかっていく。
 誰もいない廃車場で積み重なったスクラップの影に隠れていると、まるで世界にわたし一人しかいないような気持ちになった。

 “血のハロウィン”の舞台となったこの場所の、所々に残る血痕。どれかが多分マイキーの血で、どれかは圭ちゃんのもの。他の誰かかもしれない。さすがに区別はつかない。
 そっと目を閉じると地面が感触を失う。
 積み重なった廃車が色濃く落とす影のなかに沈んでいって。息もできないまま。上も下もわからなくなって、色もなくなる。

 右も、左も。
 自分と他人の境界も。
 善と悪の定義も。


 ああマイキーはいつもこんな世界にいるのかな。
 たまに、全然知らない人のような横顔になるマイキーの、心の奥底に隠した冷酷なぶぶん。彼の辛さや寂しさを全部引き受ける、悲しいぶぶん。いつも薄い笑みにくるんで胸の奥底に沈められている、どうしようもなく深い、深い闇。


 あの日に戻りたい。
 そうしたらきっとわたしは圭ちゃんを、縛ってでも叩いてでも泣き落してでも、この抗争に行かせないのに。
 どうして時間は未来に向かってしか流れてくれないのだろう。


第二章
幾千億の夜の灯、04




 ふと、聞き慣れた単車の排気音が近づいてきた。
 だいすきなひとの乗っていたバイク。黒い特攻服を着て、長く伸ばした黒髪を掻き上げ、気だるげに跨っては悪戯っ子みたいに笑った。わたしを後ろに乗せて走ることがない代わりに、しゃーねぇなぁ、って両脇を抱えて後ろの席に乗せてくれた。いつもその席には、金髪の、年下の右腕が、嬉しそうに座っていた。

 ゴキのエンジン音が廃車場の入り口近くに停車する。わたしは車の陰になって見えないはずだ。バイクを下りた運転手は、躊躇うように砂地を蹴りながら敷地の中へ入ってきた。


 迎えに来てくれたのは圭ちゃんじゃない。
 圭ちゃんであるはずがない。


「‥‥‥あきちゃん」


 不良のくせに、こんなにも優しい聲でわたしを呼ぶ。
 千冬くんは泣きそうな顔になってしゃがみ込み、わたしの両手をぎゅっと握った。

「なに、してんスか、こんなトコで」

 だらりと力の抜けたわたしの両手に体温を分け与えるように、千冬くんは力を籠める。
 わたしたちは血のハロウィン以降なんとなく疎遠になりつつあった。こうして正面から向かい合うのは、彼が圭ちゃんの最後の言葉を教えてくれた日以来のことだった。

 二人でいれば辛くなることが、お互いわかっていた。
 二度と埋まらない空白を想っては胸が痛くなると、わかりきっていたから。

「寒くねーの、あきちゃん」
「‥‥‥なんで千冬くんがここにいるの?」
「あきちゃんのクラスの人が、学校来てないけど何か知らないかって訊きにきたんスよ。担任が家に連絡したけど、おばさんは朝普通に登校したって言うから、みんな心配して大騒ぎで。何かあったのかと思ってオレ‥‥‥手ぇメッチャ冷たくなってるじゃん」

 すっかり怪我も治った千冬くん。
 なぜか涙目で微笑みながら、羽織っていたブレザーを脱いでわたしの肩にかけてくれた。向かい合ってぺたりと地面に腰を下ろし、またわたしの手を握る。

「一旦あきちゃん家寄って、おばさんには家で待ってるように言ってあります。マイキーくんと一緒にいるかもって思って連絡取ったらめちゃくちゃ焦ってたから、とりあえず見っけたってメールしときますね」

 片手でわたしの手を掴んだまま、彼は携帯を開いてかこかことメールを打った。

 手を放したらわたしがどこかに行ってしまうとでも思っているのかな。
 心配、かけちゃったな。
 学校までサボらせて。
 マイキーたちももしかしたら捜しに出てくれているかもしれない。
 芭流覇羅のアジトに拉致されたことも記憶に新しい。

「‥‥‥あきちゃん。今日の集会のこと、聞いたんですね?」
「‥‥‥‥」
「オレが、壱番隊隊長にタケミっちを指名したいって話、聞いちゃったんですよね、きっと」

 ゆっくりと、伏せていた睫毛を上げて千冬くんを見る。
 反対に視線を落とした彼は「ゴメン」と深く頭を下げた。

 金髪が揺れて、十一月の風に浚われる。

「壱番隊隊長は場地圭介以外にありえない。わかってます。オレだってそう思ってた。きっとあきちゃんには、場地さん以外の隊長なんて受け入れられないと思う」
「‥‥‥‥」
「でも、場地さんは最期に、タケミっちに『東卍を託す』って言ったんです」

 今朝のモーニングコールでマイキーから聞いた。
 圭ちゃんの死後、東卍自体を辞めようとしていた千冬くんを引き留めたと。何日も何日も話し合って、ようやく二人で出した結論は、新たな隊長を千冬くんが自ら指名するというものだと。


 恐らくタケミっちが隊長に指名されるだろう、と。


 ぽたりと、握り合った手と手に涙が零れる。


「──場地さんの守ろうとしたものを守り続けたい。だから、ゴメン、許してほしい‥‥‥」


 東卍の男の子たちは、ケンカが強くて威勢がよくて、年上の不良にだって怯んだりしないくせに、情に篤くて涙脆くてよくポロポロ泣く。
 マイキーも圭ちゃんもそんな自分たちのこと棚に上げて、わたしのことを「泣き虫」とからかってきたけど。

「‥‥‥許すとか許さないとかじゃ、ないよ」
「あきちゃん‥‥‥」
「壱番隊の隊長は圭ちゃんで、副隊長は千冬くんで、そんな二人がタケミっちを択んで、マイキーが認めた。わたしの気持ちなんて関係ない。みんなの決めたことに口出しするほどの権利があるわけじゃないから」

 千冬くんの手を握り返す。
 遠い空の向こうからマイキーのバブの声が響いてきた。そこにいるんだろ、今から行くよ、って言っているみたいな。

「‥‥‥ただ、ね、千冬くん」
「ハイ」
「一人一人がみんなを守るチームにしたいって、圭ちゃんはそう言った。それはけっして、誰かを守るために誰かが命を落とすチームにしたいって意味じゃなかったの」
「ハイ」
「東卍史上最悪の、わたしに対する裏切りは、もう圭ちゃんで最後にして」

 当たり前のようにいつもいた圭ちゃんがいない。
 マイキーやわたしを眺めて意地悪くほほ笑み、たまにぶっ飛んだケンカをして周りをドン引きさせて、しゃーねぇなって優しく肩を竦めた圭ちゃんは、もうどこにもいない。

 マイキーの闇によく似た世界だと思う。
 だけど同じではない。似たような喜びも、幸せを重ね合わせることもあるけれど、同じ悲しみは存在しない。いくら大切な相手とでも、辛い気持ちは分かち合えない。
 一人にひとつ与えられた悲しみは、ただ耐えていかなければ。

「ハイ。オレ約束します」
「お願いだから、もう誰も死なないで」
「死なないし、死なせない。‥‥‥だからあきちゃんも、こんな誰もいない寂しいところで、一人で泣かないでくださいね」

 千冬くんはポロポロ涙を流しながら笑った。

 近づいてきていたバブのエンジン音が切れた。千冬くんのゴキを見つけて廃車場の入口に停まったらしい。「あき、千冬!」とわたしたちを捜す声がする。
 切羽詰まった声。
 心配かけちゃったんだなぁ。

「マイキーくんだ。ほら、あきちゃん、行こ」
「‥‥‥怒られるかなぁ」
「オレも一緒に怒られますよ!」


 圭ちゃんが見つけて迎えたちいさな灯。
 その笑顔に導かれて、わたしは影から抜け出した。




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