小夜子ちゃんのお母さんが車を停めて待ってくれているコンビニへ向かう、徒歩五分のさなか、いつも通りかかる小さな公園。
やめてください、と消え入りそうな声が聞こえたのだ。
それを掻き消すような下卑た笑い声も。
「‥‥‥いま、聞こえた、小夜子ちゃん」
「え、ええ‥‥‥あきちゃん待って。危ないわ。警察か、せめて佐野くんを呼ぶべきよ」
考えなしに公園へ向かって一歩踏み出したわたしを、小夜子ちゃんが引き留める。「様子を見るだけだから」と宥めて、足音を殺し、わたしたちは声の聞こえるほうへ歩いていった。
滑り台と、ブランコと、鉄棒があるだけの小さな公園のなかに、人影が見える。
女の子が二人、男たちにナンパされているみたいだった。乱暴しているわけじゃないけど、五人くらいで取り囲んで逃がさないようにしている。彼らの服装をよくよく観察して、わたしは眉間に深い皺を刻んだ。
「‥‥‥は?」
彼らは黒い特攻服を着ていた。
背中に金糸で『東京卍會』とある。
第二章
幾千億の夜の灯、06
かっ、とお腹の底がびっくりするくらい熱くなった。東京卍會。その特攻服を着ていながら、こんな夜遅く、嫌がる女の子にしつこく付き纏う。許されざる蛮行。気づいたときには足音高く駆け寄り、五人の輪に割って入って、涙目の女の子たちを背中に庇っていた。
彼女たちは同じ塾に通っている同級生だった。
「‥‥‥ア? 何おまえ」
「こっちの台詞よ。どこのどいつがこんな時間に一般人に絡んでいるのかと思えば」
特攻服の左腕には『陸番隊』と刺繍されていた。
元芭流覇羅のメンバーで構成される隊だ。先日の抗争で東卍傘下に降り、丸ごと新設陸番隊として発足した。チームの世代がもともといくつか上だから、この五人の年齢も少し上だ。高校生くらいに見える。
高いところから見下ろしてくる顔を、一つひとつ、目に焼きつけた。
「関係ねぇやつはすっこんでろよ。殺すぞ」
「それとも代わりにおまえが遊んでくれんの? 顔は好みじゃねーんだけどなァ」
「んん? あっちの子おまえのツレ? あっちのが可愛いじゃん」
公園の入口で立ち竦む小夜子ちゃんのほうに向かおうとした男の、手首を掴む。思いきり爪を立てて握り込むと「ああ!?」と顔を覗きこんで凄んできた。
ひっ、と背後でしゃくり上げるような泣き声が聞こえる。「もうやだぁ」
怖いよね。ごめんね。
「陸番隊は、つい最近東卍に参入したばかりだから。この子たちにごめんなさいって謝って、もう二度と無様なナンパなんてしませんって約束するなら、マイキーとドラケンには当然報告するけど容赦してくれるようにお願いしてあげる」
「‥‥‥は? んだよコイツ」
五人のなかで一番体の大きい男がわたしの胸倉を掴み上げた。思わず爪先立ちになってよろける。
目を逸らさない。マイキーの目指す不良の時代を、圭ちゃんの志した東卍を穢すものを、わたしは赦さない。
「いいか、あきちゃん、女は度胸だ」
「啖呵切るときは殺す気で切れ。中途半端が一番いけねぇ。怯えた姿を見せるな」
かつて関東一として名を馳せた初代黒龍の面々に教わったんだから。口の悪いひとなんて、周りにいくらでもいたんだから。
「その出来の悪い脳みそに免じてもう一回言ってあげる。今すぐこの子たちに土下座して謝ってもう二度と無様なナンパなんてしませんって誓うなら、マイキーとドラケンに半殺しにされるくらいで勘弁してやるって言ってんのよクソヤロー‥‥‥!」
ばち、と頬を叩かれた。たいした力じゃない。遊ぶみたいな暴力だ。
それでも頭が一瞬揺れて、視界が真っ白になる。「あきちゃん」と小夜子ちゃんの悲鳴が聞こえた。
全力で睨み返しながら、右腕の筋を痛める勢いで振りかぶる。わたしの見た目で反撃なんてないと決めつけていたのか、男の左頬にもろ平手が直撃した。
「──てめえ!!」
ぐんっと胸倉を引っ張られ、乱暴に地面に引き倒される。誰のものだかわからない甲高い悲鳴。わたしに馬乗りになった男が拳をつくった。
衝撃を覚悟して歯を食いしばったとき、男が視界から消えた。
誰かに蹴り飛ばされたのだ。
「オ───イ」
間延びした声に、陸番隊の男たちの顔が蒼褪める。
するとあっという間に二人目が顔面を殴られ、三人目は顎下から掌底を喰らって悶絶した。
縦に長いシルエット。
気だるげな歩き方。長い手足、猫背。
彼もまた黒い特攻服を身にまとっていた。
‥‥‥半間修二。
「オマエら誰に手出してんのよ。この子総長の女よ?」
「半間さん‥‥‥」
「え、この地味子が!?」
「マイキーのヨメはギャルじゃねぇって有名だろバァカ。誰に向かって口利いてんだ歯ぁ折るぞ」
言いながら半間は表情一つ変えず、ブーツの爪先を四人目の顔面にめり込ませた。最後の一人の腹部を蹴り飛ばし、何度も何度も、執拗に鳩尾を蹴る。「半間さ」「すいませ、」「ごめ」途切れ途切れに謝罪が聞こえていた。やがて悲鳴だけになった。
ゆっくりと体を起こし、じんじんする唇のあたりに触れると血がついた。
半泣きだった女の子二人に小声で「逃げて」と囁く。
「でも、でも成瀬さん」
「血が‥‥‥!」
「ものすごく不本意なんだけど、一応、本当に一応、あの人顔見知りだから大丈夫」
渋る二人を無理やり公園から逃がすと、まだ続いている半間の一方的な蹂躙を振り返った。
もう誰も起き上がらない。「ごめんなさい」という謝罪と呻き声だけが聞こえる。それでも半間は嗤いながら暴力を揮い続けた。
‥‥‥やりすぎだ。
「やめて」と腕を引っ張るけれど、半間は止まらない。地面に蹲る陸番隊が胃の中身を吐き散らす。
「──やめなさいよ!!」
「あン、やめていいの?」
‥‥‥自分のところの隊員の不始末をつけている、という状況ではあるのに、こんなにも嫌悪感が湧くのはなぜだろう。
マイキーだって喧嘩賭博をしたキヨマサに制裁を加えた。隊長が隊員を諫めるときに拳を揮うこともある。伍番隊の特務だってそうだ。戦意を喪失した相手でも、二度と邪なことを考えないように心を叩き折る、こんなこと珍しくないのに。
そうだ。
やってることは、みんな一緒だ。
マイキーや東卍は性質が違うから、信念があるんだからって言い聞かせて、自分勝手に許そうとしているだけ。世間から見れば全部、一緒なんだ。
「あ〜あ、総長の女ひっぱたきやがってダリィなマジで。これ怒られる?」
「‥‥‥もういいよ。その代わり自分のところの隊員くらいしっかり躾けて。次に東京卍會の特攻服を着てダサいことしてたらマイキーに言う」
「やさしーねぇ」
これ以上、目の前のこの人と関わり合いになりたくなくて、本来ならきちんと報告すべきなのにそんなことを言ってしまった。
小夜子ちゃんは片手に携帯電話を握りしめて、いつでも通報できる態勢で待っている。大丈夫だよと手を振って、わたしは制服のスカートについた砂を掃った。
「あーちょい待てって。あきチャン」
「勝手に名前で呼ばないで」
「めんどくせー女」
なんの用、と吐き捨てた自分の声が思ったより低くて驚いた。
彼もまた呆気に取られたような顔をしたけれど、すぐににやっと大きな口を開けて笑った。本当に面白いことを発見したときの子どもみたいに無邪気な、けれどすごく邪悪な笑み。
「これやるよ」
半間が差し出したのは、黒い折り畳みナイフだった。
「‥‥‥使いこなせないものは持たないと決めてるの。武器も思想も暴力も」
「潔癖なのはいいけどよ。そんな弱っちい身一つで他人なんか守れんの?」
パーちんが長内を刺した。
ドラケンくんが刺された。
カズトラくんが圭ちゃんを刺した。
圭ちゃんが自分を殺した。
こんなもの大嫌いだ。
半間は薄い笑みを浮かべたまま、わたしがナイフを受け取ると決まっているような仕草で、「ほら」と手を揺らしていた。
「あんたが受け取らないなら、この辺に捨てて帰るけど」
「‥‥‥イヤなひと」
「ドーモ」
『罪』と書かれた左手から、引っ手繰るようにそれを奪う。
今度こそきびすを返して小夜子ちゃんのもとへ向かうと、今度は特に呼び止められなかった。
「あきちゃん、あの人に何を渡されたの。だめよ、捨てて」
「麻薬とかじゃないからそんなに心配しないで。そのへんに放り捨てるのも危ないし、家に帰って燃えないゴミに出すよ」
スカートのポッケに突っ込んだナイフごと、きつく拳を握りしめる。
こんなもの、大嫌いだ。