第二章
Over The Rainbow;3
公園でエマちゃんに絡む男の子に飛び蹴りをかましてから一週間。
先週借りた本を図書室に返却し、新しく借りた本をちょこっと読んでから学校を出る。マイキーたちは帰りの会が終わるや否や飛び出していた。
今日は家に帰ったら宿題して、ピアノの練習をして、本の続きを読んで‥‥‥とのんびり思考を巡らせながら帰路につく。
ちょうど先週の公園を通りかかったところで、聞き覚えのある声がした。
「あっ、アイツだよにーちゃん!」
どうもわたしのことを指していたらしいのでそちらを見ると、忘れもしない、エマちゃんに向かって変な名前だとほざいてわたしに飛び蹴りされた男の子がいた。
──近所の中学校の学ランを着た、大きな男の子を五人も従えて。
「‥‥‥何か用?」
幼い頃から真一郎くんをはじめとする不良たちに遊んでもらったわたしである。年下の男の子四人、しかもエマちゃんを傷つけるものになんて臆する理由がなかった。
しかし同時に彼我の実力差もはっきり弁えている。
中学生五人には、勝てるはずがない。
まずい。
「なんだよ女子じゃねーか。オマエこんな子に負けたの?」
「後ろからいきなり飛び蹴りされたんだよ!?」
「ハイハイ。まあそういうことだからちょっと面貸せよ。大人しくしてりゃすぐ済むって」
逃げたところで、小学校や登下校ルートが割れているのだから意味がないか。
ぐっと唇を噛んで彼らを睨みつける。ずかずかと近寄ってきた中学生にランドセルを掴まれ、乱暴に地面に転がされた。膝や掌を派手に擦り剥く。肩ひもが喰い込んだ脇が痛い。
「うわーなんかザイアクカン」
「難しい言葉知ってんなオマエ」
「さすがに小学生女子はちょっとなー」
心にもないことを言いながら、中学生たちはわたしのランドセルを蹴っ飛ばした。中身を勝手にばらまき、教科書を開いて「うっわなつかし!」とゲラゲラ笑う。
なんだ。なんなんだ。
先にエマちゃんをいじめたのはそこのクソガキなのに、どうしてわたしがこんな目に遭わないといけない。お兄ちゃんだか何だか知らないけど。中学生が五人もつるんで。真一郎くんなら、竜ちゃんなら、黒龍のみんなならこんな格好悪いことしない。むしろ女の子をいじめた弟に拳骨でもなんでも叩き込むはずだ。世の中にはこんなクソダサい不良がいるのか。死んでも泣いてなるものか。
こんな卑怯で下劣なやつらの仕打ちになど、死んでも泣いてなるものか!
「──あき?」
マイキーの声が、聞こえた。
偶然公園の前を通りかかったのか、飴をコロコロと口のなかで転がしながら立っている。その横でポケットに手を突っ込んでいるのは圭ちゃんだ。
わたしが中学生に囲まれているのを察すると、二人揃ってぎゅっと眉間に皺を寄せる。
わたしの撒いた種。
ここでマイキーと圭ちゃんに助けを求めたら、兄貴を連れてきたあのクソガキと同じになってしまう。
ふんっとそっぽを向いて「返してよっ」と学ランに飛びつくと、中学生が持っていたペンケースは空を舞って、草の中に落っこちた。ファスナーを開けられていたみたいで中身が全部ぶちまけられる。
あー足滑った! と、一人が愉しそうに笑いながらその上に飛び乗った。お気に入りの鉛筆が折れて、誕生日プレゼントでもらった定規が割れて、マイキーが切って分けてくれた消しゴムは泥まみれになった。
「ほら早く泣いて謝れって。それで許してやるってコイツも言ってんだからさ」
「──誰が!!」
きっと少年を睨みつけると、彼はわたしの後ろに目をやって訝しげな表情を浮かべた。
「つか、おい‥‥‥なんだよオマエらっ!?」
「え───」
なにが?
そう振り返ったわたしの横を、二つの影が通り抜けた。素早く跳び上がり、中学生二人の顔面にそれぞれ飛び蹴りと右の拳を叩きこむ。
中学生たちの笑い声が、消えた。
どさりと地面に倒れて苦痛の声を洩らす仲間を見下ろし、残る三人はさっと顔を青くする。
「女一人に寄ってたかって恥ずかしいと思わねーのかよ。なァマイキー?」
「思う脳がありゃこんなことしねーよなー場地ィ」
「オイそこのクソ野郎、オマエらが散らかしたあきのランドセルの中身一つ残らず拾えよ」
「そーそー。誰の許可得て人のもの散らかしてんだよって話‥‥‥」
「お、オマエら関係ねーだろ!?」
突如現れた二人にすっかり呑まれてしまった少年が、ガタガタ震えながらも果敢に反論した。
するとマイキーは地面に蹲る一人の頭にスニーカーの足を振り下ろす。
ごっ、と鈍い音がした。
「舎弟のものはオレのものなんだよ!!」
滅多に怒鳴らない、マイキーのその迫力。
ぎゅっと体の両脇で拳を握りしめるわたしの横を、全員蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
フンと鼻を鳴らし、ランドセルの中身を一つ一つ全部拾い集めて元通りにしてくれた二人は、呆れたような顔になる。
「なに無視してんだよ。ほらランドセル」
「あき?」
「‥‥‥助けてなんて言ってないもん」
明らかに助けてもらっておきながら生意気にもそう反論したわたしに、男の子二人が顔を見合わせる。
「いや聞こえたよな」
「聞こえた」
「言ってないもんっ」
「言ってなくても聞こえたよな、マイキー」
「ウン。バッカだなー。聞こえちゃうんだよ、あきがエマのこと助けたみたいにさ」
マイキーはいつも通りのすんとした表情のまま手を差し出した。
わたしのランドセルを肩にかけた圭ちゃんがししっと笑いながら駆けだす。
「ホラ、手。帰るよあき」
「‥‥‥ん」
「ん」
差し出された手をぎゅっと握ると、マイキーは一瞬、何かを考え込むように視線を落とした。
つなぎ合ったわたしの手をじっと見つめて、それからフと口元を柔らかく緩める。
「あきはオレの舎弟だからオレのものだけど、あきはオレのもののために体張んなくていーの」
「‥‥‥でも舎弟ってそういうものだって竜ちゃん言ったよ」
「オレ、あきを舎弟にするならってシンイチローと約束したことあんだけど。あきだってなんか約束したんじゃねーの?」
最初にマイキーが舎弟だなんだと言いだして、真一郎くんたちに舎弟談義を受けたのは二年も前の話。
でも全部憶えてる。
怖いお兄ちゃんたちがわたしの頭を撫でた手の温もり、抱き上げてくれた腕の頼もしさ、やんちゃな笑顔、竜ちゃんの優しさ、ガリガリくんの味、ゆびきりをした真一郎くんの小指の感触まで、すべて。
「マンジローがくじけそうなとき、オマエだけは最後まで味方でいてやれ。そばにいて、他の誰がいなくなってもあきがいるって、言ってやってくれよ」
マイキーの手は、真一郎くんやそのお友達のそれに較べれば紅葉みたいに小さい。
だけど、誰より強くて無敵。
「約束、したよ」
「ウン。だから、それだけでいいの。あとは全部オレが守るから」
マイキーは昔から無敵にカッコよかった。
理不尽も我が儘も多くて苦労したけど、時々それを引っくり返して余りあるくらいの勇気や思いやりをくれる。
だから、ちょっとくらい怖い思いをしたって、全然へっちゃらだったの。