半間がわたしに押しつけてきたナイフは、ボタンを押したら刃が飛び出るタイプのものだ。刃渡りはそう長くない。柄の長さはわたしの手から少し余るくらい。
陸番隊の隊員に叩かれて切った唇は少し腫れた。
お母さんには、塾の帰りに走っていて転んだと嘘をついた。
時計の針は十二時を回っている。明日は──もう今日か、土曜日だから学校はないし、夜更かししても問題ないけれど、さすがにそろそろ寝入ってしまいたい。
こんなものを握っているから目が冴えてしまうのはわかっている。
でもどうしてだか、接着剤でくっつけてしまったみたいに、わたしの手の中から離れてくれない。
「そんな弱っちい身一つで他人なんか守れんの?」
こんな弱っちいわたしが丸腰で、言葉だけで、年上の男に立ち向かったことを諫めているのだということは判っていた。
弱いなら弱いなりに武器を持つべきだと半間は言ったのだ。
不気味なくらい親切に。
「‥‥‥、いや、待て待て。なんであの人の言うことが正しいみたいになってるの‥‥‥」
ぶつくさ呟きながら身を起こす。そうだ、そもそも、半間が陸番隊をしっかり統率しないからあんなことになったのだ。
わたしだってあのとき、ナンパしているのが東卍でなければあんな無茶はしなかった。駆けつけてくれる誰かを呼ぶなり、「おまわりさんこっちです」戦法を使うなり、色々と策を打ったはずだ。
長い時間をかけて我に返って、わたしはそっとベッドから降りた。
学習机の引き出しの一番上を開けてナイフを放り込む。今度の燃えないゴミの日に、ガムテープでぐるぐる巻きにして、お母さんに見られないようこっそり捨てよう。
そのとき、バイクの排気音が二台ぶん、家の前に停まった。
──今の音は。
第三章
Fly Me To The Moon;01
「マイキーのバブと、ドラケンくんのゼファー‥‥‥」
小さく零しながらカーテンを開ける。
家の前の街灯に照らされて、金色の髪の毛が光を弾いた。
窓を開けると、十二月の凍える空気が部屋に吹き込んだ。からからと響いた窓の音に気づいて顔を上げたマイキーが、右手に握った携帯を振っている。
枕元の携帯を手に取ると、電話がかかってきた。
「もしもし‥‥‥どしたの、こんな時間に?」
『あきこそ、こんな時間まで起きてたの?』
「ちょっと眠れなくて。すぐ下りるね」
窓を閉めて、半纏を羽織る。パジャマのままだけど、相手はマイキーとドラケンくんだし、別にいいか。
足音を立てないように一階に下りると、リビングにはまだ電気がついていた。お父さんがレンタルしてきた映画か何かを見ているのだ。多分、うちの前に停まったバイクの音も聞こえたはず。ちょっと気まずいな。
裸足にサンダルを引っ掛けて玄関のドアを開けると、すぐそこにマイキーが立っていた。
後ろに立っていたドラケンくんともども、わたしの顔を見てほっと息を吐く。
「ケガは?」
「けが?」
「半間が。集会前に陸番隊のやつがあきに絡んで、一発叩いたって」
マイキーは両手を伸ばしてぺたぺたとわたしの顔に触れた。前髪を掻き上げておでこを見て、こめかみや頬を確かめるように撫でる。くすぐったいし恥ずかしい。咄嗟に口元に手をやると、かえって怪しまれてしまった。
「口?」
「だ、大丈夫、ちょっと切れただけ。なんだ、あの人ちゃんとマイキーに報告したんだね」
「見せて」
「やだ、マイキーちょっとへんだよ」
こんな、ぺたぺた触ってくるマイキー知らない。彼氏みたいに。
すると、言うことを聞かないわたしにイラついたマイキーがぎゅっと眉間に皺を寄せた。
「無茶しねえって約束しただろ!」
「わ、マイキー声、声おおきい。お父さんリビングにいるから!」
人差し指を唇に当てて「しー! しー!」と繰り返すと、結局マイキーはわたしの唇の端を目にして、へにょりと眉を下げた。
わたしの首裏をつかまえて、強い力で抱き寄せる。
肩に埋まったマイキーの目蓋や、唇が震えているのがなんとなくわかって、わたしもつられて眉を下げてしまった。
心配、かけちゃったんだなぁ。
ごめんね、と小さく謝りながら、両手でマイキーの背中をぽんぽんと撫でる。
「平気だよ。無茶してごめんね。でも確かに半間が来なかったら危なかったから、これからは気をつける」
「あきのバカ。バーカ」
「うーむ‥‥‥ごめんなさい」
すん、とマイキーが鼻を鳴らした。
「怖かっただろ」
「んー、怖いとか痛いとか思う暇なかった。なに東卍のトップク着てダセェことやってんだ! って思ったら頭真っ白になって、気づいたら飛び出してたんだよね」
「あーあきの悪いクセ。弱いくせにキレたらケンカ売る。いっつもそう」
「う‥‥‥」
「オレのいないとこで無茶すんなバカ。バカバカ。バーカ」
毎日ケンカばっかりして、武器を持った相手にも素手で立ち向かうようなひとが、わたしのこんな小さな怪我で冷静さを失う。
自惚れなんかじゃなくて、ちゃんと大事に思ってくれている。
この人が、こんなわたしを。
なんだか胸のあたりがぎゅうっと膨らんで破裂してしまいそうだった。言葉にできないよくわからない感情がいっぱい溢れて、ぽろぽろと足元に零れていく。
わたし、ちゃんと、このままでいなくちゃ。
こんな弱っちい身一つのまま、ちゃんとマイキーたちの傍にいなくちゃだめなんだ。
それが、マイキーや圭ちゃんの求めた“法”の在り方なんだから。
「ごめんね、マイキー」
ごめんね、半間の言葉にぐらついて。
マイキーはずっと昔から、こんなわたしのままでいいよって、言ってくれてたのにね。
「‥‥‥明日っから塾の行き帰り、迎えに行くから」
「うえぇ、大丈夫だよぉ、もう無茶しないよ」
「だめ。行く」
「ドラケンくーん‥‥‥」
「いや今回ばかりはマイキーに賛成だわ」
ようやく顔を上げたマイキーは膨れっ面になって、わたしの、唇の、端を親指でなぞった。さすがにどきりとして動きを止めると、ドラケンくんが「コラコラ」と止めに入ってくれる。助かった。
なんだかちょっと今夜のマイキーは変だ。
今までこんな容赦なく顔に触ってくることなんてなかったから、どう対応すればいいのかわからない。
あわあわと後退すると、マイキーは名残惜しげにわたしの頬から手を放して、半纏を着た肩を伝って、そして指先を握った。
こ、これくらいなら、まぁいっか。
なんだかものすごく恥ずかしい気がするけど、もう好きなようにやらせておこう。今回は無茶したわたしに非がある。
「この度はご心配をおかけしてまことに申し訳ございませんでした」
「しばらく許さねーから」
「‥‥‥はーい」
にぎにぎ。
指の先っぽ、爪のあたりとか、第二関節とか、ペンだこのところとか、とにかく何かを確かめるように触れてくる。無意識なのか、そのままドラケンくんを振り返って別のことを話しはじめた。
そのままの体勢で、五分。
さすがに寒いやら眠たいやらで、もう片方の手で目をこすると、マイキーが首を傾げる。
「あき眠い?」
「ん。ちょっと」
「じゃ、おやすみ」
指先をからめて、ぎゅっと力を入れて。
なんだか少女マンガの恋人どうしみたい。
‥‥‥変なの。本当につきあっているみたいな、こんな。
かぁっと顔が熱くなったのがわかって、恥ずかしくて、ふわふわして、わたしは思わずパジャマの袖で顔を隠していた。
「‥‥‥あき?」
「ん、えっと、おやすみ、ふたりとも」
「‥‥‥へえ〜〜? おやすみィあきちゃん」
ドラケンくんがニヤーっとしているけど、幸いマイキーはこっちを見ているからそれには気づいていない。
変なあき、とぼやきながらドアを閉めた。
誰のせいだ!
あと変だったのはマイキーのほうだから!!