「ちふゆくん‥‥‥」
「どしたんスかあきちゃん」

 白い息を吐きながら学校へ向かう道すがら、わたしは横に並ぶ千冬くんをキリッと見つめた。

「クリスマスイブの日、マイキーとお出かけすることになった」
「おっ、マイキーくん予定空けてくれてたんすね! よかったじゃん!」
「ていうかねえ何着ていけばいいの? クリスマスって何するの? どうしたらいいの教えて千冬くん少女マンガにはなんて書いてあるの!?」
「いや何年つきあっててその発言だよ」

 だって本当につきあってるわけじゃないんだもん。
 ‥‥‥と言うわけにもいかないので、わたしは無言で目を逸らしておいた。圭ちゃんは別に千冬くんに対して「マイキーとあきはつきあってる」とも「本当はつきあってない」とも言っていない。ただ普段通りにわたしたちを扱い、その結果千冬くんはわたしたちの関係を信じている。多分これから先も、わざわざ訂正することはないだろう。

「そういやあきちゃん、今日の放課後空いてます? ちょっとタケミっちと一緒に聞いてほしい話あるんスけど」
「放課後‥‥‥は、ちょっと、用事があって。そのあとなら」
「あれ、委員会かなんか入ってましたっけ」

 んん、と答えを濁すと、こういうときだけ無駄に鋭い千冬くんは「まさか」と両目を真ん丸く見開いた。

「‥‥‥オレ隣の教室とか待機しとこうか?」
「なんで!? 言っとくけど決闘じゃないよ!?」
「いや誰があきちゃんに決闘申し込むとか思うんスか、普通に告白でしょ。じゃなくて、あきちゃんポワポワしてっから。何かの間違いがあったらいけねぇし」
「なんの間違い!? 間違いも何もありません! 千冬くんマンガの読みすぎだよ!!」

「あー」千冬くんはなんともいえない表情で天を仰いだ。「まあ、そういうことでいっか」
 気を取り直してわたしの顔を見下ろすけど、まだ顔面に『あきちゃん心配ダナァ』って書いてある。『だいじょーぶかなぁ』『場地さんだったらどうしたんだろー』とも。

「‥‥‥じゃあ、校門とこでタケミっちと待ってますんで」
「うん、そうして」
「‥‥‥なんかあったら窓開けて大声で叫んでね?」
「何もないってば!」


第三章
Fly Me To The Moon;04




 千冬くんがやたら変な心配をするものだから、変な意味じゃなくて普通に心細いしやっぱり友だちに待機してもらおうかと思ったりもしたけれど、四時間目が終わる頃にはどんとこいやと開き直ってしまっていた。
 大丈夫だ。だって相手はよく知る男友達。
 マイキー目当てに寄ってくる不良や、この間の陸番隊の隊員たちに較べたら、善良も善良、真っ当な一般学生なのだから。

「成瀬さん」
「ひょえっ」

 昼休み、手紙の差出人の張本人がわたしの机を指で叩いたので、つい思いっきり肩を跳ねさせてしまった。
 傍にいた友だち二人はその有様に抱腹絶倒。

「は、はい」
「今日、放課後、いい? ここで」
「あ、うん、大丈夫‥‥‥です」

 爽やかなタイプだ、とは思う。
 普段関わり合いになっている不良たちと比較するのもアレなんだけど、三ツ谷くんから不良成分を根こそぎ取り除いたスポーツマン、っていう感じだ。こういう男の子とつきあって、色々なことを一つずつ一緒に経験していく、いかにも少女マンガちっくな青春も悪くないんだろうな。

 五、六時間目はぼけっとしているうちに終わった。
 わたしは今までよく『わたしが男の子だったらマイキーたちと一緒にケンカしてるのかな』と考えたことはあったけれど、この日初めて、『わたしがもしマイキーたちと一緒にいなかったら』という空想をした。


 怖い思いをすることも、痛い思いをすることも、理不尽な喪失に涙することもなかっただろう。
 引き換えに、こんなにも他者から存在を切望されることも、することも、なかったに違いない。


 放課後になり、真っ直ぐ帰宅するか塾へ直行して受験勉強に励むクラスメイトを見送ってしばらくすると、わたし一人になった教室に差出人の彼がやってきた。
 彼は待たせてごめんと一言謝り、手紙読んでもらえたと思うんだけど、と照れくさそうに口元を隠した。
 まじめで真摯な彼の言葉を全て聞き終えたあと、わたしは深々と頭を下げる。

「ごめんなさい」
「‥‥‥もしよかったら理由を聞かせてもらっていいかな」

 あくまで穏やかに訊ねてくれた彼に、ほっとする。男の子といえばバイクとケンカと罵声に怒声、という固定概念が、けっしてそれだけではないマイキーたちと一緒にいてもやはり根強い。

 ほら千冬くん、変なことなんてないよ。
 それが普通だよ。

「わたし、みんなの言う『好きな人』とか『つきあいたい』とか、よくわからない」
「うん」

 わたしは顔を上げて、ちょっとだけ微笑んでいる彼と目を合わせた。

「わからないけど、大事な人はいるの」

 一発叩かれたって聞いただけで深夜にバイク転がして駆けつけてくるような。
 眠れなくて、って小さく零しただけなのに、眠くなるまで一緒にいてくれるような。
 こんな真冬に、薄着で、わたしがメールに気づくまで三十分も突っ立っているような人。

 両手で触れた頬の冷たさや、触れ合った額、伏せたまつ毛、わたしの手にすり寄る獣のような仕草、これっぽっちも世界に興味がなさそうな深淵の双眸。
 ひとつひとつ思い出すだけで涙が滲みそうになるほど、‥‥‥いとおしい。


 ああ、そう。
 いとおしい、だ。


「守って、あげたい。ひとりにならないように、一緒にいたい。傷ついたとき、傍で一緒に泣いてあげたい。‥‥‥好きなのかどうかよくわからないけど、これがわたしの中で一番大きな感情だから、他の人の彼女にはなれない、です」

 ごめん、ともう一度頭を下げると、彼は慌てたように謝らないでよと手を振った。

「でもそれって、『好き』って言ってるように聞こえるけどなぁ」

 そう笑った彼と並んで教室を出て、下駄箱で靴を履き替え、校門の前で別れた。




 少し離れたところで様子を見守っていた千冬くんが、タケミっちと一緒に声をかけてくる。
 タケミっちの姿を見て少し驚いた。また顔面に傷をつくっている。‥‥‥そういえば、黒龍の柴大寿に絡まれたってドラケンくんが話してくれたっけ。

「平気でした?」
「うん、平気。行こっか、わたしの家でいい?」

 改めて壱番隊の隊長・副隊長コンビで訪ねてくるからには東卍の話だ。立ち話じゃなく、わざわざ千冬くんが断りを入れてきたことからも、人には聞かれないほうがいい話なのだろうし。
「あきちゃんがいいなら」けろりとうなずく千冬くんの背後でタケミっちは蒼褪めた。

「エッ、あきちゃん家!? 行っていいの!?」
「は? どういうコトだよタケミっち」
「いやだってマイキーくんの‥‥‥彼女さんじゃん。マイキーくんいないとこであきちゃんの部屋なんて上がってシメられねぇ?」

 いままさにマイキーがどこかで見張っているのを恐れるかのように、タケミっちは勢いよく背後を振り返ったり、曲がり角を警戒したりしている。
 面白い発想だなぁ。エマちゃんのお誕生日のときも思ったけど、タケミっちって想像力が豊かだ。

「圭ちゃんや千冬くんはよくうちでテスト勉強してたし、三ツ谷くんは妹ちゃん連れて遊びに来たりするけど、そういうので怒ったことはないよ」
「オレも文句言われたことないや。でもたまに不機嫌にはなるし‥‥‥マイキーくんの基準よくわかんないっスよね」
「ほんっっっとうにね」

 心の底から同意してうなずいた。
 タケミっちに「苦労してんスね」と同情された。

 そういえば千冬くんは、圭ちゃん抜きでうちに上がるのは初めてかもしれないな。慣れた様子で靴を脱ぎ、揃える千冬くんの金髪をぽけっと眺める。タケミっちは借りてきた猫みたいにきょどきょどしながら千冬くんに倣った。

「千冬くん、部屋わかるよね。お茶淹れるから先に上がってて」
「それはさすがにムリっすよ、手伝います」
「あはは、そっか」

 リビングで温かいお茶を三つ用意して、千冬くんにお盆を預ける。二階の自室に二人を招き入れて、部屋の隅に置いてある座布団を床に敷いた。
 カーテンレールの端に掛けてある黒い特攻服を見たタケミっちが、あ、と零す。

「あれ、もしかして場地くんの?」
「うん、圭ちゃんの特攻服。脱退するとか言ってさー、捨てずに持ってたんだよ、あの人。圭ちゃんママにもらっちゃった」

 千冬くんは口の端で少し微笑んだ。わたしもつられるように口元を綻ばせる。
 タケミっちはひとり、悔やむような表情になった。

 ぱちりと瞬きをしながらその様子を眺める。不思議だな、と思った。
 わたしやマイキーや千冬くんが受け入れようとしている喪失を、一番受け止められていないのはタケミっちのように見える。壱番隊の隊長を継ぐ人として、何か思うところがあるのか。

 ほうじ茶を飲んで一息つくと、千冬くんが口火を切った。

「あの、あきちゃん、黒龍のことってどこまで聞いてますか?」
「タケミっちのことをボコった十代目が八戒くんのお兄さんで、そのせいで辞めようとした八戒くんを三ツ谷くんが止めて、和平協定を結んだんでしょ? 概要は聞いてるよ」
「大体その通りです。なんですけどオレら、いっこ気になってることがあって」

 千冬くんが語るところによると、こうだ。

 柴家は三きょうだい。長男の大寿くん、長女の“柚葉ちゃん”、次男で末っ子の八戒くん。お母さんは早くに病気で亡くなり、お父さんは仕事のためほとんど家に帰ってこないそうだ。
 大寿くんは躾と称しては八戒くんと柚葉ちゃんに長年暴力を揮い続けていた。長年、柚葉ちゃんのためにと大寿くんの暴力に耐えてきた八戒くんだったけれど、もうどうしようもないくらい追い詰められている。

 八戒くんは、東卍を抜けて黒龍に入り兄を殺すつもりだ。

「‥‥‥本人がそう言ったの?」
「ハイ。『兄貴を殺す』って」

 その殺意を本人から聞いた二人は、ドラケンくんたちに相談したそうだ。八戒くんに人を殺させないために、黒龍と正面から戦って大寿くんを倒すべきだ、と。
 しかし素気無く却下され──、悩んでいる。

「それでオレら、どうしたらいいかって思って。あきちゃんの顔が浮かんで」

 ぽつぽつと零されるその話を聞きながら、千冬くんをじっと見つめていたけれど、話している途中で一つ二つ違和感を抱いた。千冬くんは素直だから、嘘をつくのが上手じゃない。

「場地さんも言ってたから。もし迷うようなことがあったらあきちゃんの顔を思い浮かべるんだ、って。あきちゃんが笑ってたらオッケーで、そうじゃなかったらダメなんだって」

 印象としては、「ドラケンくんたちに却下されて悩んでいる」というか、「八戒くんを止めることを許してもらいにきた」ように見える。
 実際そうなんだろうなと思いながら、圭ちゃんのことを思った。

「本当に圭ちゃんがそうしていたら、多分、一人で東卍を抜けて芭流覇羅になんて話にはならなかったと思うけどね」
「‥‥‥‥」
「都合いいときばっかり。本当にやるって決めたら、わたしが笑っていようと泣いていようと全然関係ないくせにね」

 正直なところ、夏からずっと物騒な抗争に晒され続けたあげく、大切な幼なじみを喪ったばかりのマイキーをそっとしておいてあげたい。
『東京卍會』としての答えはドラケンくんの言う通り、和平を結んだ三ツ谷くんの顔を立てるためにも抗争は避けるべきだ。

 でも圭ちゃんの目指したチームの姿は。
 マイキーが目指す時代の景色は。
 仲間のためにみんなが命をかけられる、正々堂々卑怯なことはしない、そんな絶滅危惧種みたいな不良の意地を張っているみんなの信念は。


 圭ちゃんならどうする?
 真一郎くんなら。『初代』黒龍なら。


 ちらりと、壁際に掛けたままの特攻服を見上げた。

「‥‥‥確かに、ドラケンくんの言うことは正しい」
「‥‥‥!」
「でも、八戒くんの『殺す』はきっと、圭ちゃんが挨拶みたいに言ってた『殺す』とはまた違った響きをしていたんだよね」

 柴家の事情も、三ツ谷くんと八戒くんの間にある絆も、詳しく知っているわけではない。
 だけど、八戒くんの殺意だけならば、東卍の誰よりもわたしがよく解る。

 兄を殺すという、その決意だけなら。

「八戒くん、本当は止めてほしいんじゃないかな」
「あきちゃん‥‥‥」

 お兄ちゃんを殺さなきゃ、と呪詛のようにつぶやいた帰り道。台所の、キッチンの戸棚にある包丁を手に持って、帰ってきたお兄ちゃんを刺す。正面から行っちゃいけない。足音も声も殺して、背後から、気づかれないように刺す。あのとき数えた手順の一つひとつ、今でも鮮明に思い出すことができる。

 今でもマイキーのそばで、包丁を手に、わたしたちが道を過つときを待っている、二年前の殺意の塊。



「本当に覚悟を決めた人は、決意表明なんてせず黙って背後から刺すと思うよ」



 微笑むと、二人は言葉をなくした。

「パーちんはそうだった。カズトラくんもそうでしょう。わたしもそうしようと思ってたから」
「ええっ、あきちゃんが!?」
「色々あってね。三つ年上の兄を殺さなきゃ、って思ってた時期があるの。中一の春」
「ひえぇぇ‥‥‥なんか意外だ」

 大袈裟に驚いたのはタケミっちだ。千冬くんは事情を聞き齧っているのだろう。
 真剣な表情で拳を握りしめた彼の手を、そっと両手で包み込む。

「二年前のあの日、マイキーと圭ちゃんがわたしを助けてくれた」

 マイキーが電話越しにわたしの異変に気づいてくれなかったら、仲間内で最初に少年院に入っていたのはわたしだったかもしれない。

「だから二人も、八戒くんを助けてあげて」

 千冬くんが手のひらを裏返して、わたしの手を握った。
 ごつごつして皮膚が厚い。特に指の背、関節のあたり。拳でたくさんのものを壊したり守ったりしてきた、不良の手だ。

「どんな事情があっても、どれほど許せなくても、苦しくても、ナイフじゃなくて拳で戦わなくちゃだめ。わたしたちは『東京卍會』。圭ちゃんの守り抜いた志を、マイキーの創る不良の時代を、一緒に目指そうと思うのなら」

 ね、と首を傾げると、途中からなぜか涙ぐみ始めた男の子たちはずびずび洟を啜った。
 まったく、泣き虫なんだから。



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