翌朝になって映画館から電話がかかってきた。
 昨晩、最後の上映後にもう一度捜したところハンカチが見つかりましたよ、カウンターに言づけておくのでいつでも取りに来てください、そんな連絡だ。正直マイキーにしてやられた衝撃でハンカチのことなんて忘れかけていた。──ゴメンって圭ちゃん、怒らないでください。

 ひとまずマイキーに報告だと思って携帯電話を手に、はや十分。

「えっ‥‥‥マイキーといつもどんな風に喋ってたっけ」

 というか、昨日のは夢?
 そうだ、多分夢だ。
 圭ちゃんのハンカチを落としたショックで見た都合のいい夢。──どんな夢だよ!!
 いや、そうそう、夢。
 そういうことにしておこう。圭ちゃん、わたしに勇気を。マイキーに電話する勇気を。ええいままよ、女は度胸だ!

『もしもしー?』
「あっ、マイキー、おはよう」
『オハヨー‥‥‥。どしたの、あき』

 完全に“着信音に起こされました”のテンションのマイキーが応答した瞬間、頭が真っ白になった。
 だって昨日のやっぱ夢じゃない。
 わたしが編んだマフラーを巻いたあの人が、とんでもなく優しい声で、だいすき、って言った。

「あの、あのねえっとね、えーっと、何だったっけ!?」
『なにそれ』

 視界にちらりと黒い特攻服が映る。
 その瞬間、電話をかけた本題を思い出した。ありがと圭ちゃん!!

「ハンカチ! 見つかったんだって! 今日取りに行こうと思って」
『よかったじゃん』
「うん。えっと‥‥‥それだけ」
『オレ取りに行こうか? どうせ外うろうろするし。寒いからあき家にいな』

 こんな、なんでもないような気遣いで、息もできなくなる。
 マイキーって悪い人だ。間違いなく極悪人だ。

『決定ね。今日か、明日には家寄るからさ』
「うん。ありがと」
『あ、あと昨日言うの忘れてた。大晦日の夜は、いつも通り行くからね』
「わかった。準備する」
『エマもケンチンも一緒だけどいい?』

 そんなの今まで一回も訊いたことなかったじゃない。わたしたちにとって、エマちゃんやドラケンくんや東卍の誰かが一緒に出掛けるのなんて、わざわざ確認するまでもない当たり前のことだったのだから。
 やっぱり昨日、あの一言、あの一瞬で、なにかが変わったんだ。

「いいに決まってるし‥‥‥どうせ神社行ったらみんな大集合になっちゃうじゃん」
『確かに』

 マイキーが電話の向こうでぷぷっと笑う。
 佐野道場の倉庫に構えた彼の棲家で、真一郎くんの遺したものに囲まれながら、お気に入りのタオルケットを抱えた頭ボサボサのマイキーが笑っているんだなって思ったら、急に胸がいっぱいになった。


第三章
Fly Me To The Moon;08




「ねーあきちゃんどうせ暇でしょ! エマの相手してよ」
「いいよー暇だよー」

 ピンポーン! と勢いよく鳴ったインターホンに出ると、マイキーにドラケンくんを取られて一日お留守番のエマちゃんが上がってきた。
 お母さんが冷蔵庫から出してくれたジュースやおやつを抱え込み、わたしの自室でクリスマス女子会を開催する。

 昨日のことを根掘り葉掘り聞かれたので大体のことを打ち明けると、最後の最後でエマちゃんはテンションマックスになった。リビングのお母さんにまで聞こえそうだったので慌てて飛びかかって口を塞ぐ。

「むぐ‥‥‥ウソでしょ、マイキーが!?」
「うん。夢じゃなければ」
「やっとかよあのヘタレ兄貴。やばいニヤニヤする! ドラケンに電話しなきゃ!」
「マイキーにヘタレなんて言えるのエマちゃんくらいだよ」

 あまりにもエマちゃんが興奮しているので、わたしのほうが冷静になってしまった。

「えへへ、嬉しいなぁ。マイキーとあきちゃんが結婚したらウチら、ほんとに姉妹だ!」
「ウッ‥‥‥なにそれエマちゃん可愛い‥‥‥エマちゃんはずっと前からわたしの妹だよ‥‥‥」
「おねーえちゃんっ」
「エマちゃぁぁぁん!」

 やばい。エマちゃんが可愛すぎて顔面が崩壊しそう。真一郎くん然りマイキー然り、わたし、佐野家のDNAには一生逆らえない気がする。

 夕方も近づくと、エマちゃんは一旦家に帰っていった。
 おじいちゃんと晩ご飯を食べるためだ。
 それが終わったら一緒にお出かけして、佐野家三兄妹の恒例行事、クリスマスの神社の参拝に同行することになった。三兄妹といっても今年はエマちゃんだけなのだけど。
 マイキーも、寒いなかいつまでも走っていないで、エマちゃんのとこに帰ってくればいいのに。

 ちなみに当の本人からは、《ハンカチ受け取ったよ》とだけメールがきた。
 そのメールを見たエマちゃんは「なにこれ。これがつきあい始めの彼女に送るメールか?」と鬼のような形相になっていた。急にハートマークが乱舞しても怖いからわたしはこれくらいで丁度いい。

「じゃあ行ってきまーす」
「寄り道せずに帰ってきなさいね。もう遅いんだから」
「うん」

 お父さんとお母さんと、いつもよりちょっと豪華なクリスマスディナーを食べたあと、しっかりと防寒して家を出る。
 エマちゃんと合流して神社へ向かうと、雪の降る聖夜、お賽銭箱の前に立ち尽くす奇特なひとの後ろ姿を見つけた。

 あの後ろ姿‥‥‥。
 二人で顔を見合わせてぱちぱちと瞬きをする。代表してエマちゃんが声をかけた。

「クリスマスに神社でお祈りするやついる?」

 クリスマスに神社でお祈りしにきたわたしたちが言えたことでもないけど、ビクッと振り返った彼女はわたしたちを見て目を丸くした。

「エマちゃん、あきちゃん!?」
「やっぱヒナか!」

 ヒナちゃんは一人だった。
 全くドラケンくんもタケミっちも、こんなに可愛い彼女を置き去りにしてせっかくのクリスマスに何をしているんだろう。
 ‥‥‥いや、ドラケンくんはマイキーとデートか。

 どこか沈んだような表情のヒナちゃんを連れて、わたしたちは境内に設えてあるベンチに並んで腰を下ろした。

「なるほどね」

 ヒナちゃんは昨日、タケミっちに別れてほしいと言われたらしい。
 ずっと悲しくて泣いていたけれど、よく考えたら話が突然すぎるし、タケミっちの様子が変だったことに気づいてお父さんを問い詰めた。すると案の定、お父さんがタケミっちに別れるようお願いしたことが発覚したそうだ。
 それで居ても立ってもいられず神社にやってきたという。

「アンタの親が出てきたか。それはタケミっち的にはしんどいね‥‥‥」
「ウン」

 言葉少なにうなずくヒナちゃんの肩に腕を回し、ぽんぽんと頭を撫でる。
 “不良の彼女”であるがゆえに、そうじゃない人なら縁のなかったような問題に巻き込まれることもあるかもしれない。八・三抗争のきっかけとなったパーちんのお友達のように、その彼女のように、家族のように。

 聞けば橘家のお父さんは警察官だという。
 色んな事件を見て知っている。色んなケースを、わたしたちよりももっと数多く接している。心配になるのは当たり前だ。

 不満げな顔をしていたエマちゃんは、「よし!」と気合いを入れて立ち上がる。

「この件はウチに任せな!」
「え?」

 すちゃ、と彼女が取り出したのは携帯電話だった。ぴこぴこ操作して、誰かに電話をかける。
 やがて応答したのは、漏れる声を聞くにドラケンくん。

「ねえタケミっちどこにいるか知らない!?」
「知らない!? 捜してよ。ちょっと用事があるの!」
「タケミっち絶対連れてきてね! ヒナん家の前で合流ね!」




「あきちゃんは、マイキーくんとつきあってて、こんなことあった?」
「うーん、うちはお父さんとお母さんには詳しく話してないから‥‥‥。マイキーのほうが『別れよ』って言いにきたことはあるけど」
「は? なにそれウチ聞いてない」
「愛美愛主とモメそうだってなったときにね。マイキーなりに色々考えるところがあったみたい。別れないって言い張ったらそのまま有耶無耶になっちゃった」
「ヒナも別れないって言えばよかったのに!」
「だってタケミチくん、他に好きな人ができたって言ったから、頭真っ白になって、ヒナ殴っちゃった‥‥‥」
「ヒナちゃんつよ。さすがマイキーにビンタするだけある」

 ヒナちゃんの住むアパートの前でお喋りをしているうちに、日付は変わってしまっていた。長期戦になりそうだなと思ったので、お母さんにはエマちゃんちに泊まるって電話を入れてある。ちょっとお小言を頂戴したけど、佐野家に泊まるのはよくあることだからしれっと乗り切った。

 二日間降り続いた雪は止み、すっきりと晴れた夜空が広がっている。
 白い息を吐きながら声を潜めてお喋りしていると、ヒナちゃんの表情もややほぐれてきた。

「あ」

 ふと顔を上げる。

「マイキーのバブだ」
「えっ、ほんと?」
「うん、このコールはマイキー」

 東京の夜空に遠吠えするかのような軌跡が幾度か繰り返されたあと、住宅街に入ったためか少し静かになり、そしてエンジン音が近づいてくる。
 ヒナちゃんの顔が強張った。
 深夜の街灯に照らされて、単車に跨る金髪頭が二つ、きらきら光る。

「ヒナ?」

 バイクから下りたタケミっちは、ズタボロだった。
 特攻服もタスキもよれよれだし、顔なんて事故にでも遭ったのかというくらい傷だらけだ。トップクにタスキ。本気のケンカのしるし。一目見て、八戒くんを止めに行ったのだと察した。

 エマちゃんと二人でマイキーの傍まで下がると、彼の唇の端にも血の痕が残っていることに気づく。顔面にもらったらしい、珍しい。

「‥‥‥何があったの?」
「ちょっと兄弟喧嘩に顔出してきた。あき、知ってたろ」
「‥‥‥タケミっちや千冬くんのこと、怒っちゃやだよ」
「怒んねーよ」

 タケミっちとヒナちゃんのやり取りを遠くで見守っていると、遅れてドラケンくんが追いついてきた。
 その顔にもまた返り血の痕。
 お祭りの日は対愛美愛主、ハロウィンは対芭流覇羅、クリスマスは対黒龍。このぶんだと正月まで懲りずにケンカしてそうでちょっと怖い。

 四人静かに並んで待っていると、ヒナちゃんの前に膝をついたタケミっちがおいおいと泣き始めた。
 ヒナちゃんが笑って「仲直り」と口にしたので、どうやら丸く収まったようだ。

「ヒナぁぁぁ」「もー泣かないでよ!」「だってよぉぉぉ」と今にもヒナちゃんのスカートに縋りつきそうな勢いのタケミっちは、きっと本当に本当は、ヒナちゃんと別れたくなんてなかったんだろうな。
 わたしの横のエマちゃんは感動のあまり涙を流している。

「なんでエマが泣いてんの?」
「いいね、なんか」
「あきまで」

 男二人は、女子たちの感慨がさっぱり理解できないらしい。そんなものなのかな。


「タケミっち、ヒナちゃんのこと、あんなに泣いちゃうくらい大好きなんだね」


 マイキーとドラケンくんは顔を見合わせた。見つめ合ったって答えは書いていませんよ。お互いにバイクとケンカのことばっかりの、あなたたちの顔にはね。
 ま、そんな男子二人がだいすきな、どうしようもない女子も二人いるんですけど。
 わたしとエマちゃんは顔を見合わせて肩を竦めた。

 すると突然、マイキーがぱっと後ろを振り返って夜空を指さす。

「あ、見て見て、流れ星ー」
「あ?」「え?」

 ドラケンくんもエマちゃんも素直にそちらを向き、わたしも当然倣おうとして、強い力に引っ張られる。

 冬の寒さにかさついた唇どうしが触れ合って、一瞬で離れた。

 マイキーの吐息が遠ざかっていく代わりに、ぽん、と頭の上に何かが乗っかる。落ちないように慌てて受け取ると花柄のハンカチだった。
 圭ちゃんがくれた、最後の誕生日プレゼント。

「おいホントに見たのかよマイキー?」
「あれー気のせいだったかなー」
「もー、紛らわしいんだから!」

 白い息を吐きながらニッと笑ったマイキーを、ドラケンくんがじとっと睨みつける。
 なんか、バレてるような、気がする、んですけど。

 居た堪れなくてエマちゃんの肩にぴとっと引っ付くと、男の子二人は揃って噴きだした。やっぱり思いっきりバレてるじゃないの、マイキーのバカ。



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