第三章
My Foolish Heart;05
作業の合間に、焼き上がった第一陣のフォンダンショコラを二人で味見していると、家の外にやかましい声が近づいてきた。
「来たかー」とつぶやくと、柚葉ちゃんが首をひねる。
「誰?」
「マイキーたち。毎年バレンタインより先に来るんだよね」
「どういうことよ」
「みんな中学校が別だからさ、わたしは会えた順にチョコ渡せばいいやって思ってたんだけど、どうも下のみんなはそういうわけにいかないらしくて」
「あー、総長より先にもらえないんだ」
「そう。だからチョコを用意する日にうちに来て、真っ先に食べるというのが毎年恒例」
「もうそれバレンタインじゃないじゃん」という鋭いツッコミは聞こえなかったふりして、玄関に駆け寄りドアを開けると、いままさにドア横のインターホンを押そうとしていた千冬くんが「わっ」と飛び退った。
「あれ? 今日メンバー多いね」
マイキー、ドラケンくん、三ツ谷くんまではいつもの面子だけど、今日は千冬くんと八戒くんもいる。
八戒くんは柚葉ちゃんのお迎えも兼ねているのかな。いつも通り徹底的に横を向いて、わたしの顔を見ようとはしないけど。
「あの、三ツ谷くんに呼ばれた八戒に連行されてオレも来ちゃいました」
「なるほどね。どうぞ、上がって」
「「「お邪魔しまーす」」」
慣れた三人がずかずかとリビングへ向かう。後輩二人組もおずおずと靴を脱いで、借りてきた猫のようにきちんと揃えてから、その後ろを追いかけた。
東卍メンバーに囲まれて若干居心地の悪そうな柚葉ちゃんは、三ツ谷くんと八戒くんと三人でダイニングテーブルに座ってもらった。残りの成瀬家に慣れている組は、リビングのテーブルに三人分座布団を準備する。
出来上がったフォンダンショコラをお皿にのせて、粉砂糖をちょこっとまぶして、生クリームとミントを添えて、フォークと一緒に差し出した。
「はいどうぞ。ハッピーバレンタイン。前日だけど」
「今年もうまそーだな」
「ワーイ!」
マイキーはお子様モードの笑顔キラキラでフォークを握りしめた。
その隣に、ちょこんと座る。
「あの、マイキー?」
「なに?」
「今年、これでいい?」
「‥‥‥ん?」
「だから、あの、今年もみんなと同じ扱いでいい?」
げほっ、と噎せたのはなぜか三ツ谷くんとドラケンくんだった。
本人は多分意味がわかっていない。
副隊長二人組は、わたしたちはもともとつきあっていると思っているのでさらに意味がわからない。
「あきちゃん!? 今年初めてのバレンタインじゃねーの!?」
「なに言ってんだよタカちゃん。バレンタインは毎年あるだろ」
「ちげーんだよ八戒オマエ黙ってろ。なんで? さすがにあきちゃんがマイキー特別扱いしたからってケンカするほどドラケンもガキじゃねーよ!?」
「イヤ、マイキーが調子乗って自慢してきたらケンカするぞ」
「いやーそれがすっかり忘れてて‥‥‥」
マイキーをほっぽってハイテンポに進むわたしたちの会話に、年下の二人が頭にはてなを浮かべている。
ようやく意味がわかった張本人は「あー」とわざとらしく手を打った。
「なるほどなるほど。彼氏に義理チョコ」
「ウッ‥‥‥」
「あはは嘘、いーよ別に。いっつもおやつ作ってくれてるしこれでじゅーぶん」
「‥‥‥マイキーってけっこう心広いよね」
「あきがオレのこと大好きなのわかってっし痛いっ」
わたしは手に持っていたお盆でマイキーの頭をゴンと殴った。
「「ゴチ」」呆れ顔の幹部二人の声が重なる。
「‥‥‥マイキーくんとあきちゃんって、いつからなんすか?」
どき。
何気に鋭い質問を繰り出したのは、フォンダンショコラの欠片を口の端っこにくっつけた千冬くんだ。とりあえずマイキーの顔を見ると「べっつに」と適当な返事をしている。
「いつからとかそういうのねーけど」
「‥‥‥オレが場地に訊いたときは、『あきは昔っからマイキーにベッタリだった』てうんざりしてたな」
「三ツ谷くんなに訊いてんの!?」
「いや一時期気になったことあってさー。あきちゃんてマイキーと場地どっちなんだろーって」
男の子同士でそんな恋バナみたいなことしてたのか。ちょっと見たかった。
もしかして今もわたしのいないところでは誰が好きとか気になるとかお話してるのかな。ドラケンくんとエマちゃんのこととか、わたしも正直訊きたくて仕方ないんだけど。
「いーや。あきは昔っから場地にベッタリだったね!」
「それはマイキーがすぐバッタとかセミとか持って追っかけまわしてきたからじゃん」
「たまに場地も虫持って追っかけまわして、最終的にシンイチローに怒られた」
「かっこよかったな〜。あきの初恋は真一郎くんです」
「知ってる〜」
佐野家のDNAに逆らえない、悲しくも幸せなわたしである。
ひとまずフォンダンショコラの味に文句はないと見て、わたしはキッチンへ戻った。オーブンのなかでは第三陣が膨らんでいる最中だ。明日渡す用のラッピングの個数を指折り数えながら、リビングで賑やかにしている男の子たちの後ろ頭を眺める。
やっぱり、ドラケンくんと三ツ谷くんの反応を見るに、マイキーにはちゃんとした方がよかったのかな。
まあでも八戒くんの言っていた通り、バレンタインは毎年あるし、来年でもいいか。
‥‥‥来年、でも。
翌日、わたしは佐野家の前に立っていた。
紙袋片手に門の前でしばらく悩み、来てしまったものは仕方ないよねと意を決してインターホンを押す。ややあって応答してくれたのはエマちゃんだった。
『はーい!』
「エマちゃんおはよう、あきです」
『あきちゃん? どしたの、こんな朝早くに』
「マイキー起きてるかな?」
『さっき朝ご飯食べて部屋戻ったよ! 入って入って』
「お邪魔します」
母屋をスルーして、道場の奥の倉庫を目指す。さっき朝ご飯を食べたということは、まだ覚醒しきっていないかもしれない。まあ素面で渡すのもちょっと恥ずかしいし、寝惚けてるくらいで丁度いいや。
コンコン、とドアをノックして「マイキー。あきだけど」と声をかける。
「あき? 朝からどしたの」
「えっと、渡したいものがありまして」
マイキーはこてんと首を傾げながらも部屋に上げてくれた。
まだドラケンくんに髪の毛をセットしてもらう前だから、長い前髪がばさばさ目にかかって鬱陶しそうだ。眉を寄せて前髪を掻き上げている後ろ姿についていき、ソファに腰を下ろす。
持ってきた紙袋を彼の膝の上にぽんと置くと、「なにこれ」と訊かれた。
バレンタイン当日の朝から彼女が訪ねてきたというのにこの反応。昨日の「オレのこと大好きなのわかってるから気にしない」発言が本気の本気だったということがよくわかる。
「‥‥‥去年ね、圭ちゃんと約束したの」
「場地?」
「うん。『来年は海とか花火大会とか、みんなで一緒に行きたいね』とか、『マフィンまた焼くからみんなで食べようね』とか」
あの夏の日、圭ちゃんは、どこに行くにしたってオマエだけチャリ集合な、って笑った。
喫茶店ではらしくもなく、そのうちな、なんて答えて出ていった。もしかしたらあのときすでに決意を固めていたのかもしれない。何度も何度も、引き留めてちゃんと話を聞いていれば、と後悔した。
「でも、もう圭ちゃんと過ごす来年の夏はこないから」
「‥‥‥‥」
「なんていえばいいのかな‥‥‥。約束された未来なんてどこにもなかったことを、思い出してしまって。別に、マイキーが死んじゃうとかわたしが死んじゃうとかじゃないんだよ? ただなんていうか、来年に回しても多分、いいことないんだよね」
本当はちゃんと気づいている。マイキーたちが昨日、八戒くんや千冬くんまで連れてきた理由。
たとえば、チョコレートの材料の人数を確認するとき。
うちに遊びに来た男の子たちの靴の数をかぞえるとき。
用意するお皿の枚数やフォークの本数をかぞえるとき。
以前より少ないことに気づくたび、わたしが、喪ったものの大きさを思い知るから。
「だから、あの、昨日慌てて作ったの、マイキーのチョコ。全然たいしたものじゃないんだけど」
「うん。嬉しい」
「もしかしたら来年の今日、心の底から、去年ちゃんと作ってればよかったって後悔するかもって‥‥‥」
「うん」背筋がそわそわするほど優しい声で相槌を打つと、彼は膝の上の紙袋ごとわたしを抱き寄せた。
渋谷で一番安全なところ。
世界で一番ほっとする腕のなか。
「あき、オレ我が儘言っていー?」
「ん‥‥‥?」
「来年のバレンタインは、ケンチンとか三ツ谷とかとは全然別の、オレだけの用意してほしいな」
ちょっとだけ顔を離してみると、呼吸も交わるほど近くで、彼もこちらを見つめていた。
世界のなんにも興味なさそうな双眸は、何もかもを見透かしたような色をして、わたしの顔を映している。
「用意、する」
「ウン」
「だから絶対受け取って‥‥‥」
「うん。約束する」
ニコ、と笑ったマイキーは再びわたしの頭を抱き寄せて、ヨシヨシとつぶやきながら髪の毛を撫でた。
手加減に手加減を重ねた、至極やさしい手つき。
人に頭を撫でてもらうのってこんなに安心することだったかな。
ふふと笑いながら首筋にすり寄ると、その途端にマイキーは動きを止めた。
「‥‥‥‥」
「マイキー?」
「‥‥‥‥なんでもない。よし、二度寝しよ」
「なんでもない間じゃなかったけど。っていうか二度寝はだめだよ、学校あるでしょ!」
「おやすみー」
「ちょっと、マイキー? あれっ?」