「どうでもいいだと!? 一番大事なことだろ!?」

 真一郎くんのバイク屋さんを訪ねる道中、怒声が聞こえて足を止めた。
 ケンカ、にしては切羽詰まった感じの、辛そうな声だった。悲鳴にも似ていたかもしれない。近づくべきではないと思ったけれど、そのあと聞こえてきた低い声が真一郎くんのものだったから、わたしはバイク屋さんの手前で路地を折れた。

 ひどい雨が降っていた。
 傘を差していてもランドセルの表面を雨粒が滑り落ちるような。

「真一郎くん‥‥‥?」

 ぴしゃりと、ずぶ濡れの運動靴がアスファルトを叩く。
 真一郎くんは目を丸くして「あき」とつぶやいた。彼の前に立っていた白髪の男の子が、弾かれたようにこちらを睨みつける。怒鳴っていたのはこの人だと、すぐにわかった。
 二人とも傘も差さずに立ち尽くしている。
 尋常ではない雰囲気だということは察した。しかし介入してしまった以上、もう場の雰囲気を壊してしまうしかない。慌てて真一郎くんのもとに駆け寄り、ランドセルを肩から外した。

「あ、あのねわたし、折り畳み傘あるから」

 差していた傘を真一郎くんに持たせると、ランドセルのなかから折り畳み傘とタオルを取り出す。これはもちろん、『傘なんて持ってねぇよ』主義を掲げるあの幼なじみ二人組のために持ってきていたものだ。
 振り返ったときには白髪の男の子はこちらに背を向け、歩きだしていた。

「待って!」
「あ、あきっ」

 咄嗟に傘の下を出て彼を追いかける。
 放っておいてはいけない、と感じた。なぜだろう。怒鳴っていたのはこの人のはずなのに、この瞬間、彼は世界で一番傷ついているように見えていた。世界が彼を傷つけていた。
 走って追いつき、傘とタオルを差し出すと、彼の振り回した腕が蟀谷をぶった。

「うるせぇんだよ! ついてくんな!!」
「っ」

 傘もタオルも地面に落っこちる。彼はもう立ち止まらなかった。傷つぇられた横顔のまま、大股で去ってゆく。
 多分、泣いていた。

 すぐに真一郎くんが走ってきて傘を傾けてくれたけれど、わたしもすっかり濡れ鼠になっていた。彼の腕が当たった蟀谷のあたりを覗き込み、「ごめんな」と抱き寄せてくれる。

「‥‥‥真一郎くん、ケンカしたの?」
「ああ、そんな感じ。悪いな、びっくりしたろ」
「あのひと、風邪ひかないといいけど」
「そうだな」

 真一郎くんはわたしの頭を撫でて、「店に戻るか」と微笑んだ。


第三章
Over The Rainbow;4




 お店に戻ると、真一郎くんの帰りを待っていたらしいお客さんの男性が、後ろからついてきたわたしを見てぎょっと目を丸くした。

「真一郎オマエ、誘拐は犯罪だぞ」
「バカ言ってんじゃねえ近所の妹分だよ。店番サンキューな」
「おお‥‥‥大丈夫だったのか?」
「ヘーキ。あき、タオル取ってくっからそこで待ってろー」

 キラキラ輝くバイクが並んだ店内に、濡れ鼠のまま入っていくのは躊躇われる。言われた通り軒下で待っていると、真一郎くんは裏からタオルを取ってきてくれた。お客さんは真一郎くんと二言三言交わして、わたしに手を振って店を出る。ぺこりと会釈して見送った。
 真一郎くんはわたしの頭にタオルをかぶせて乱暴に拭きはじめる。
 大体の水気をとったところで、真一郎くんはわたしをお客さん用のソファセットに座らせて、お店の奥で淹れた温かいココアを持ってきてくれた。少しの間、二人で並んで温まる。

 外が雨で薄暗いから、店内の照明を反射するバイクたちは、普段よりもぴかぴかしているように見えた。
 真一郎くんのバイク屋さんに来るのは初めてじゃない。でもマイキーと一緒じゃないのは初めてだったので、ほんの少しどきどきしている。

「で、どーした」

 彼は先程のケンカの件は出さず、わたしに話を促した。

「‥‥‥あのね、中学校なんだけどね。家から通える距離に何校かあるから、どこに通うか選べるんだって。もちろん基本的には決まってるんだけど」
「あー、そういやそうだな」
「それでね。──マイキーたちと別の中学校に行こうかなって思ってるの」

 真一郎くんは取り出した煙草を口に咥えて、火をつけないまま上下に揺らす。

「万次郎たちとケンカでもしたか?」
「ううん、そういうのじゃないけど」

 表通りを行き来する車やバイクの排気音がわたしの心臓の音を掻き消してくれた。

「女の子の中にはね、わたしがマイキーたちとずっと一緒にいるのが、気に食わない人たちもいるみたい」
「‥‥‥いじめられてんのか」
「わたしは平気なんだよ。悪口言われても、仲間外れにされても、マイキーや圭ちゃんがいるんだし。でも、わたしと仲良くしてくれる友達まで悪いように言われるのが、嫌で」

 わたしに何かあればマイキーや圭ちゃんが動くと誰もが知っている。だから対象になるのはわたし以外だった。
 わたし以外で、マイキーたちからは遠くて、わたしの大切なひと。
 小夜子ちゃん。
「あきちゃんが好きなの」「あんな卑怯な人たちと一緒にあきちゃんの悪口を言うくらいなら、あきちゃんと一緒にいて悪口を言われたいわ」と、そう笑ってくれた小夜子ちゃんが大切にしていた本が、破られて落書きされてゴミ箱に棄てられたのを見てしまった。

 マイキーは強い。
 だけど、こと女子の間での陰湿なイジメについては、彼の力は及ばない。

「わたしと一緒にいたら嫌われるよって言っても、『私はあきちゃんが好きなのよ』って言ってくれるの。わたし、小夜子ちゃんが傷つけられないところに行きたい」

 真一郎くんは少しの間、黙っていた。
 小さい頃からずっと面倒を見てくれていた真一郎くん。カッコよくて優しくて大好きなお兄ちゃん。高校を卒業してから急に大人になっちゃったような気がして、最近は面と向かって喋るのにも緊張してしまう。
 こんな話題だから、なおさら。

「‥‥‥制服は?」
「え?」
「万次郎が行くとこならアレだろ、開襟にリボン。あきが考えてるもういっこの学校の制服は?」
「えと、ネクタイだったと思う‥‥‥」
「いーじゃん。ネクタイ! 制服姿ちゃんと見せに来いよ」

 大きな掌を広げて、わたしの頭をぽんぽんと撫でる。

 もっと何か、言われるかと思った。マイキーの舎弟として彼と交わした約束を反故にするかもしれないのに。それとも、四年も前に子どもとした約束なんて真一郎くんも憶えていないのかな。
 それはそれで寂しい気もするけれど、安堵のほうが大きかった。

 こうして真一郎くんに背中を押してもらうかたちでマイキーたちとは別の道を行くことを決めたわたしだったけれど、このあと、一緒に進学しようと言っていた小夜子ちゃんの家庭の事情が変わった。念願だったマイホームの購入が実現し、学区が完全に分かれてしまったのだ。
 小夜子ちゃんはとても申し訳なさそうに謝っていたけれど、むしろ好都合だった。
 マイキーたちにべったりなわたしと離れさえすれば、小夜子ちゃんが巻き添えを食うこともない。


 そうしてわたしは一人、マイキーも圭ちゃんもドラケンくんも小夜子ちゃんもいない中学校へ進学することに決めた。


▲ ▽ ▲



 そうして月日が流れ───


 わたしが兄への殺意を固め、マイキーたちがそれを救った。
 彼らにコテンパンに伸された兄が家を出て、両親の骨折も完治した。
 カズトラくんが九代目黒龍と揉め、東京卍會が創設されてわたしは“法”となり、黒龍は潰走。
 真一郎くんが亡くなり、カズトラくんが逮捕され、マイキーの手にバブが渡った。


 激動だった二〇〇三年も後半に入り、真一郎くんを喪った痛みや東卍の組織が少しずつ落ち着きはじめた、一〇月も半ばのこと。




「あの‥‥‥成瀬さん、なんか校門のところで人が呼んでるよ」
「校門? ありがとう」

 同じクラスの男子生徒がやや怯えたような表情で教室を覗き込んできた。
 マイキーやドラケンくんでも来ているのだろうか。
 でも九代目黒龍とぶつかって東卍の名がかなり知れ渡った時点で、人目の多いところで東卍トップと一緒にいるのはよしたほうがいいという話にもなったはずだ。それがわざわざ中学校まで来るなんて、何があったのだろう。

 そんなことを考えながら帰宅の準備を整えたわたしは、自分の予測が全く見当違いだったことを悟った。

「オマエか?“成瀬あき”ってのは」

 違法もいいとこのカスタムを加えた、バンディット250とRZ50。
 それに跨る高校生二人。一目見ただけでその物騒な生態が計り知れる。そしてその間に仁王立ちするショートリーゼントが一人。しかも三人揃って、特攻服を着ていた。


 下校真っ只中の生徒が多い時間帯じゃなくて本当によかった!


 現実逃避がてら、心の底からそう思った。


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