第一章
あなたの心臓、04
噂には尾鰭がつきものだ。
そして得てして不良という生き物は八割がた、難しいことは嫌いでお勉強が苦手で罵詈雑言以外の語彙に乏しく、思い込んだら一直線。横のつながりが強いので噂の広まりは早い。別にこき下ろしてるわけじゃなくて本当にそうなんです。
そういうわけで、
「マイキーが“マイキーの女”に手を上げた」
そんな頓珍漢な噂がドラケンくんの耳に届いたのは、翌日のことだったという。
その時点でわたしに確認してくれればいいのに、再び大ゲンカ。曰く、あきちゃんに手ェ上げるたぁマイキーテメエどういうことだ、と。
『テメエが事デカくしてどうすんだ殺すゾ』という脅迫電話が圭ちゃんからかかってきた。
まことに面目ない。
『つーかマイキーがあきに手ェ上げるわけねーだろ。ドラケンも冷静じゃねぇな』
すぐそばでマイキーとドラケンくんがケンカしているのか、二人のドスの効いた罵り合いと隊員たちの悲鳴が電話の向こうに響いている。
いや喋ってないで止めなよ、隊長。
「本気で信じてるのかな? どっちかっていうと、そんなくだらない噂が流れるような隙を見せたことに怒ってるんじゃない」
『あー』
『場地なにやってんだ! 止めろよ!!』
『おー、あとでな』
あとでな、じゃないよ圭ちゃん。
圭ちゃんとしては、今回のこれで東卍がどうこうなるとは思っていないのだろう。すでに意地の張り合いに突入している部分はあるから、いちいちケンカを止めるのも面倒くさくなったみたいだ。
三ツ谷くんは放っておけない性格だから毎度制止に入るらしい。いつもほんとうにごくろうさまです。今度三ツ谷家に何か差し入れしよう。
『まーいいわ。怪我してねんだな』
「全然。マイキーが空き缶潰しただけだよ」
『それが何をどうしたらマイキーがあきをボコボコにしたって噂になンだよ』
それは謎だ。
そして男の子というのも、謎な生き物だ。
顔見ればケンカ、すれ違ってもケンカ。勝っても負けても罵り合って、次の日にはまたケンカ。ケンカするくらいなら顔合わせなきゃいいのに、まるでケンカするために知り合ったみたいに飽きもせず一緒に走り回って、ケンカして、遊んで、いつの間にか親友になるんだ。
これはマイキーと圭ちゃんの話だけど。
でもマイキーとドラケンくんも、本当に不思議。
「あきちゃーん」
「あきあそぼー」
午前中は圭ちゃんの電話越しに大ゲンカを繰り広げていた二人が、ダルそうにポッケに手を突っ込んだお揃いのポーズで、並んでうちに来るんだから。
あまりにもケロリとしているものだから思わず直球で訊いてしまった。
「仲直りしたの?」
「ン?」
「ナニソレ?」
「‥‥‥もういいです」
このぶんだとケンカの原因も「忘れた」で押し通すつもりだな。
何がきっかけで仲直りしたのか訊ねてみたら、二人はお腹を抱えて大笑いしはじめた。「ぶひゃひゃひゃ」「タケミっちマジもうムリ」と比喩でなく本当に地面に蹲って笑うので、呆れて話を聞く気にもなれない。
どうもタケミっちが一役買ってくれたようだ。ありがとう、まだ見ぬタケミっち。
中三にもなって小学一年生みたいな笑い方をするガキんちょ二人。本当にくだらないきっかけだったんだろうな。
ま、わたしたちのケンカなんてそんなものか。
でも地面に蹲るのはやめてね、はずかしいから。
「んでね、あき」
「うん」
遊ぼう遊ぼうと手を引かれるので、仕方なくバドミントンのセットを持って、近くの公園までやってきた。
誰が一番高くまで飛ばせるか競争していると、マイキーがこっちを見る。
「武蔵祭りの日さ、ケンチンとエマと、タケミっちとその彼女とで行こうって話になってんだけど」
「タケミっちの彼女って、マイキーが初対面で平手ぶちかまされたあの子だっけ?」
「どんな覚え方だよ」ぶっと噴き出したドラケンくんが空振った。シャトルが金の辮髪にぱこっと弾かれる。
つい先日できたマイキーの新しいお友達、タケミっち。なかなかいい根性をしているようだと気に入ったので、どんなやつかもっと知りたくて中学校に押しかけてみたら、あまりの無礼に怒ったタケミっちの彼女にマイキーが平手をくらったという。
マイキーのことだから、女の子の攻撃なんて避ける気もなかったんだろうけど。
まあ普通に考えて、授業中に他校に押し入って人を拉致しようとしたマイキーとドラケンくんが悪いよね。どんな不良だよ!
ああ、不良だった。
「そーそー。五時集合ね。女子二人は浴衣着るってさっき話してたよ」
「うわ、浴衣出さなきゃ! 一回しか着ないの勿体ないし、どっか別のお祭りも行きたいな」
「いーよ。どっか行こ」
「わーいっ」
喜んだ拍子に今度はわたしが空振りをした。
空から降ってきたシャトルが、頭のてっぺんにこつんと落ちてくる。ちょっと恥ずかしくてえへへと笑っていると、マイキーは目元を緩めながら「あのさ」と口を開いた。
「ゴメンな」
夕焼けに染まったマイキーの金髪がだいだい色に光る。
少しばつが悪そうに、しかし昨日に比べると別人のように穏やかなまなざしで、彼はわたしを真っ直ぐに見つめていた。
「昨日、あんなこと言わせて」
「‥‥‥‥」
なにやら落ち込んでいるらしいマイキーの頭にラケットを振り下ろす。
ネットの面でぽこんと叩くと、「なにすんの」としょげたような返事があった。ラケットを左右に揺らしまくって髪の毛を鳥の巣にしてやる。
「殺さなくて済んだからそれでいいじゃん」
包丁を握った二年前のわたしは、常に背中にいる。
わたし自身が間違えないように。こころの空白に飲まれるマイキーを連れ戻すために。女でケンカもしない無力なわたしが、東卍の“法”であるために。
‥‥‥澱んだ目をしたわたしが、音もなく、包丁を下ろした。
「ね。マイキー」
「‥‥‥ウン」
こく、とうなずいたマイキーは、なんだか小さい子どもみたいだった。
そんな彼にちょこっと微笑みながら、ドラケンくんと視線を交わし合う。
すると「あき、万次郎くん、堅くーん」と公園の入口から声をかけられた。この、渋谷を牛耳る東京卍會の幹部二人をまるっきり子ども扱いする呼び方は。
「あ、あきママだ」
「本当だ。おかあさーん」
マイキーたちが訪ねてくる少し前に、スーパーに買い物に出かけたお母さんだった。両手に持った買い物袋を見たマイキーとドラケンくんが駆け寄っていく。
バドミントンのセットを片づけたわたしが追いつく頃には、二人はお母さんから買い物袋を奪い終えていた。不良のくせになんて紳士なんだ。
「今日の晩ご飯、豆腐ハンバーグにする予定だけど、万次郎くんと堅くんも食べてく?」
うちのお母さんはとっても穏やかで優しい。怒っているところを誰も見たことがないくらい。
小さい頃から一緒のマイキーと圭ちゃんを「万次郎くん」「圭介くん」と呼び、見た目だいぶいかついドラケンくんも三ツ谷くんも「堅くん」「隆くん」と呼ぶ最強ママだ。ちなみにお父さんも同じように呼び、成瀬家によく入り浸る不良たちを「いらっしゃいみんな、オセロやる?」と迎える変わり者。
マイキーもドラケンくんも夕飯のお誘いにこっくりうなずき、みんなで帰路を辿ることとなった。
「あきママ、武蔵祭りの日、あきと一緒に行ってきていい?」
「あらー、行ってらっしゃい。気をつけてね」
「あんま遅くならないうちに帰るようにすっから」
「いつもありがとうねぇ」
昔からけっこう波長が合うのか、マイキーはうちのお母さんには気を許している。こうやっていると、“無敵のマイキー”も普通の子だ。
恐るべし、うちのママ。
まるで親子のように並んで歩く二人の後ろで、わたしはドラケンくんと並んだ。
「あきちゃん、あきちゃん」
「うん?」
「心配かけたな」
買い物袋を持っていないほうの手をちょっと上げて、彼は微苦笑を浮かべる。
「ううん。ドラケンくんが止めてくれてて良かったよ。わたしのほうこそ、あんまり力になれなくてごめんね」
「そんなこたねーよ。いつも悪りィな」
昔から大人っぽかったドラケンくんは、時々、どきりとするほど穏やかに喋る。彼もまたこうしていると、“ドラケン”ていうより“堅ちゃん”だ。
視線を交わしてフフフと微笑み合うわたしたちを、お母さんが不思議そうに振り返る。
「それにしても、こんなに暑いのに外でバドミントンなんてして‥‥‥。あき、さっき牛乳寒天作ってたの、二人と食べるためじゃなかったの?」
「忘れてた。マイキーが外で遊ぼって引っ張るから」
牛乳寒天、の単語に反応したマイキーが振り返る。
別に二人と食べるために作ったわけではない。二人とも甘いもの食べればちょっとは冷静になるかなって思っただけだ。結局勝手に仲直りして一緒にうちに来たから、すっかり忘れてたけど。
「じゃあ、仲直り記念に晩ご飯のあとで食べよっか?」
「ワーイ」
「なーに、誰かケンカしてたの?」
「まー、ちょっと‥‥‥」
なにがちょっとよ、マジで殴り合ってたくせに。
お母さん相手に嘘もつけず適当な誤魔化し方をするドラケンくんを、後ろからげしっと蹴りつけた。