髪の毛をお団子にセットし、お母さんに浴衣を着つけてもらって、姿見の前で最終チェックをする。
浴衣は去年新しく買ってもらった白地に紺の花文様。それに合わせたお母さんのお下がりの、緋色の博多帯が大人っぽくてお気に入り。
お団子の辺りには帯と似た色の髪飾りをつけて完成だ。
リビングの時計を見ると、そろそろ出発する予定の時間になっていた。
東卍の集会で武蔵神社に行くときはいつも自転車だけど、今日はそういうわけにいかないから早めに家を出なくては。
リビングに置いてあった携帯電話を取ると、ちょうどマイキーから電話がかかってきていた。
「もしもし!」
『あき、ゴメン。オレ行けなくなった』
「‥‥‥え?」
電話しながら何か準備でもしているのか、ごそごそと衣擦れの音が入っている。
『ゴメン。エマとかケンチンは普通に行くと思うから』
理由もなくドタキャンする人じゃない。
きっと東卍のことで何か起きたんだ。‥‥‥でもそれなら、右腕のドラケンくんはいるっていうのはどういうことなんだろ。
エマもケンチンもいる?──当たり前じゃないの。
その二人に加えてタケミっちのカップルと、六人で行く予定だったんでしょ。
わたし一人、ダブルデートについて行ってこいって言ってる?
「っマイキーのバカ!!」
『‥‥‥ゴメン』
「知らない! だいっきらい!! ケンカでもなんでも勝手に行っちゃえば!?」
第一章
あなたの心臓、05
きれいに仕上げてもらったばかりの浴衣を脱ぎ去って、髪の毛もぐしゃぐしゃにしてなんならシャワーまで浴びたしパジャマに着替えた。もう外出なんかするもんか!
エマちゃんに電話をすると『いいからあきちゃん来なよ!』と誘ってくれたけど、やっぱりせっかくの機会を奪いたくない。ダブルデートならともかく、その中にわたしが一人で入ったら、エマちゃんもドラケンくんも当然三人で回ってくれてしまうから。
別に二人は気にしないだろうし、わたしが逆の立場でもなんにも思わないけれど、やっぱり一人で顔を出す側になると気が引ける。
妙にくさくさした気持ちでベッドに寝転び、適当な少女マンガを読んで時間を潰した。
マイキーのバカ。
大体いつも大切にしてくれて、時々そわそわするくらい優しくするくせに、仲間として対等に睨んできたり拒絶したりする。色んなイベントごとを当たり前のように一緒に過ごしているけど、時々当たり前のように放り出される。
べつにマイキーの特別になりたいわけじゃない。もうじゅうぶん特別扱いされてる。
ただあっちの都合でわたしの楽しみな気持ちが潰れちゃうのが、たまーに、ものすごーく、ムカつくだけだ。
そうこうしているうちに、窓の外で雨音がしていることに気がついた。
けっこうな勢いで降り始めている。天気予報なんて見ていなかったけど、これなら出掛けなくて正解だったかもしれない。
「エマちゃんたち、傘ちゃんと持ってるかな‥‥‥」
みんな、濡れていないといいけど。
きっとバブに乗ってどこかにケンカしにいったはずのマイキーも。
「‥‥‥あーあ、どうしよ。だいっきらいって言っちゃった」
どうせ、これっぽっちも気にしてないんだろうな。
‥‥‥いや嘘。ちょっとくらいは「困ったなー」って思ったはず。でもって「明日もっかい謝ろ」とかって頭切り替えて今はすっかり忘れている、に明日のデザートを賭けてもいい。
マンガを閉じて寝返りを打つと、視界に入った携帯がピカピカ光っていた。着信だ。
「もしもし‥‥‥」
『あきオメー今どこだ!? 武蔵神社か!?』
相手も見ずに応答したら圭ちゃんが怒鳴りつけてきた。
その背後では、わんわんとバイクのエンジン音が鳴り響いている。あまりにうるさくて声が聞き取り辛い。だから圭ちゃんも大声を張っているのだろう。
「家にいるけどー」
『ハア!? 祭り行ってねえのかよ』
「行ってません。どこかの誰かにドタキャンされたんで」
『じゃーいいワ。外出んなよ。んじゃな』
「はああああ!?」
切られた。
納得いかなくてすぐに折り返すと『ウルセェ!!』と怒られる。まだ何も言っていないのに。
「意味わかんない。何があったの」
『面倒なことになっただけだ。これから武蔵神社に集合して愛美愛主とぶつかる。オマエが祭りに行ってんなら逃がすって話になってた』
「愛美愛主ってこの間潰したところでしょう、なんでまた?」
『マイキーとドラケンが和解したろ。あれが気に食わねぇやつが東卍にいたんだよ。愛美愛主の残党と組んでドラケン
電話越しに圭ちゃんのゴキが唸る。もういい加減出発したいんだ。
それだけ急いでる。
「わかった。家から出ないけど、落ち着いたらちゃんと連絡してね」
『おー。つかドタキャンされたくらいで拗ねんじゃねーよ、ガキ』
「余計なお世話です!!」
付き合いの長い腐れ縁はこういうときにお見通しだから困る。
今度こそ静かになった携帯をパチンと閉じて窓際に寄ると、夏の暑苦しい空気を伝って、バイクの群れが移動していく排気音が聞こえてきた。
遠吠えのように、そして呼応するように、コールが幾重にも重なる。
ドラケンくんを狙うということはマイキー派の誰かが企てたことなのだ。
パーちんを助けたい誰かが、愛美愛主と手を組んでまでドラケンくんを攻撃した。
そんなにも思いが強いのは。
「‥‥‥ぺーやん?」
でも、敵と手を組んでマイキーを別の場所に呼び出して‥‥‥なんて迂遠な方法、難しいことが大っ嫌いなぺーやんらしくない。彼なら真っ直ぐバカ正直に、ドラケンくんにタイマンを挑むくらいの手でいくはずだ。
らしくないといえば、そもそもの話。
パーちんはナイフなんてどこに持っていたんだろう。
先日の抗争は完全に偶発的なものだった。あの時点では愛美愛主との抗争は武蔵祭りの日を予定していて、その話し合いをしていただけなのだ。それなのに、パーちんはナイフで長内を刺した。いくら東卍が暴走族といったって刃物を携帯するほど物騒な集団じゃないのに。
マイキーがお金で解決するなんて言いだしたのも、らしくないと言えば、らしくなかった。
‥‥‥なんだか嫌な感じがする。
正体の見えない“誰か”の、気味の悪い意思を感じる。
「‥‥‥‥」
それでも、マイキーからはまだ一人で外に出ないようお願いされていたし、圭ちゃんにも家から出ないと約束した。
みんなが駆けつけるならきっと負けない。
内部抗争なら問題は難しくなるけれど、正面切ってぶつかるのが愛美愛主だというなら、みんな思いっきり暴れられるはずだ。
手のなかに握りしめた携帯が次に光ったのは、圭ちゃんの電話から二時間も経った頃のことだった。
「もしもし‥‥‥」
『───』
脳裡に浮かんだのは、ぞっとするような静寂のなかに立ち尽くすマイキーの姿。
それくらい、静かだったから。
『あき』
武蔵神社でケンカになったなら東卍のみんながいるはずだ。百人もの隊員が周りにいるのにこんなにも静かなわけがない。一体どこから電話をかけてきているのだろう。
「‥‥‥マイキー、怪我ない?」
『オレはない。でも、ケンチンが』
でも、なに。
やめて。
──聞きたくない。
『ケンチンが刺された』
気が──遠くなるかと思った。
『救急車で運ばれたけど、心肺停止で、いま手術してる』
実際、ベッドに座っていなければへたり込んでいたかもしれない。目の前がちかちかする。だって、ドラケンくん、昨日まで一緒に遊んでいたのに。うちでマイキーと三人で宿題広げてわーわー騒いで、本当にいつも通りで、今日はエマちゃんと夏祭りデートで、そんな。
そんな、そんな、そんな。
真っ白になる頭の中とは裏腹に、口先だけは嫌味なくらい冷静に対応していた。
「ドラケンくんのおうちには連絡したの?」
『携帯に入ってた番号に、病院の人がしたみたいだ。いま向かってきてるって』
「わたしもすぐ行く‥‥‥」
『ダメ。あきは家にいて。いま誰も迎えにやれないし、こんな時間だし。お願いだから、家にいて』
「だってマイキー、泣いてる」
『泣いてねーから』
「じゃあ一緒に誰かいるの?」
マイキーはしばらく黙り込んだ。
『待合に、エマとか三ツ谷とか、何人か』
「‥‥‥そっか」
心臓が破裂しそうなくらいドキドキしているのに、全然頭に血が足りなくて眩暈がする。だけどきっと病院にいるマイキーはもっと辛い。
マイキーは強い。いつだって強い。
昔から無敵。
誰の前でも。
きっと不安でいっぱいのみんなの前で、ケンチンなら大丈夫、なんて強がったのだろう。合間を見て抜け出して電話してくれたのか。それでこんなに静かなんだ。
電気を落とした夜の病院で、一人きり、携帯を握りしめる背中が容易に思い浮かぶ。
なんて、──小さな背中だ。
いますぐ駆けつけたいのに、マイキーの手を握って大丈夫だよって言ってあげたいのに、一緒にドラケンくんの無事を祈りたいのに。従順な心と体は、彼の懇願通りに家で待とうとしていた。
『ケンチン‥‥‥』
「心肺停止で運ばれても、まだ手術中なんでしょ。今も頑張ってるんだよ。ドラケンくんなら大丈夫。こんなとこでマイキー置いてどっか行くわけないよ。絶対、絶対大丈夫だから」
『‥‥‥‥』
「あんまり不安になってたら、ドラケンくん怒っちゃうよ。これくらいでオレが死ぬと思ってんのかー、って」
『‥‥‥似てない』
「それは失礼しました。ドラケンくんは難しいね。圭ちゃんならマネしやすいんだけどな」
『それはオレも得意』
「知ってる。‥‥‥落ち着いた?」
落ち着くわけなんてないって、わかってるけど。
でも、嘘でも落ち着いたって言えるようになれば、とりあえずはそれでいい。
『‥‥‥うん』
「わたし、ちゃんと家で待ってるから。明日、お見舞いに行く準備でもしてる。だからマイキーはエマちゃんのところに戻ってあげて」
『‥‥‥ゴメン。あきだって心配なのに。家にいてなんて、我が儘でゴメン』
「ううん、平気。ドラケンくんなら大丈夫だもの。ね」
マイキーは最後にもう一度謝ってから通話を切った。
多分、次の電話はドラケンくんの生死を知らせるものになる。そう思うと携帯を握る手が、指先からどんどん痺れていくような気がした。
神さま。
神さま、お願い、ドラケンくんを助けて。
世間的には非行少年だけど、不良だけど、暴走族の副総長だけど、本当にいい人なんです。ケンカは強いけど卑怯なことはしません。必要以上に誰かを痛めつけることもありません。真一郎くんを喪って不安定なマイキーをずっと傍で支えてくれている大切な人です。本当に、本当にいい人なんです。
まだ連れて行かないで。
──マイキーからドラケンくんを奪わないで。
祈るうちに、八月四日はすぐそこに迫っていた。
連絡はまだこない。手術が終わらないんだろうか、それともみんな連絡する余裕もないような状況なのか。緊張か恐怖か、携帯を握る手は真っ白だった。
そのとき、電話がかかってきた。
三ツ谷くんからだった。
「もしもし!」
『あきちゃん! 手術成功したって!!』
「───!」
わたしは声もなく、ベッドに体を横たえた。
『あきちゃん? もしもし、聞こえてるか?』
「聞こえてる‥‥‥死にそう‥‥‥マイキーは?」
『あきに連絡しといてーっつって消えたよ。どっか連絡してんじゃねぇの?』
「あー、そっか、わかった‥‥‥。みんな早く解散しなよ、深夜に病院の前で大集合してたら迷惑になるでしょ。マイキー戻らないかもしれないし、圭ちゃんと三ツ谷くんで散らして」
電話の向こうでドラケンくんの無事を喜ぶ野太い声が聞こえているのだ。
すると即座に三ツ谷くんが『うるせェぞテメエら!!』と一喝した。ぴたっと鳴りやむ歓声。姿のない総長に代わって壱番隊隊長が解散の指示を出しはじめる。
「三ツ谷くん、電話ありがとうね。安心した」
『迎えに行けなくてゴメンな、心配だったろ。またみんなで押しかけてやろうぜ!』
「うん。今日はみんなお疲れさま。早く帰って休んでね」
ベッドに体を沈めたまま、大きく息を吐きだした。
指先の痺れはまだ戻らない。何度も深呼吸を繰り返すうちに、ずっと強張っていた体が少しずつ緩んでいった。安堵で涙が零れる。
堪えきれなかった声を隠そうと、うつ伏せになって枕に顔を圧しつけた。
堅ちゃんの、勝ちだ。