そして世界は書き換えられた
二〇一五年、十二月二十五日。
魂まで透きとおるような薄青の空からはらはらと粉雪が舞っている。十年前の今日に殺された彼は敬虔なクリスチャンで、日本人にしては珍しく、正当な意味でのクリスマスを過ごそうとする人だったそうだ。
よく知るチームの総長で、よく知る後輩のお兄さんだけれど、一度も会うことはなかった。
悪い子;2015/12/25
十年前の今日のわたしは浮かれていた。
マイキーからもらったネックレスを、大きな幸福と僅かな恐怖の入り混じる気持ちで眺めていた。これまでに喪ったもの。これからのわたしたち。何を得て、何を捨てて、大人になっていくのか。エマちゃんときゃあきゃあ恋バナをして眠りにつき、夜が明けると、世界はひっくり返っていた。
曰く‥‥‥東京卍會の弐番隊副隊長だった八戒くんが、黒龍の総長を刺殺。
代わって八戒くんが黒龍の十一代目総長となり、東京卍會の傘下に降る。真一郎くんが率いていた頃とは似ても似つかない暴力的な組織を呑み込んで、東卍はほぼ関東統一の状態になった。
高いところから水が落ちるように。
薄っぺらい紙一枚、風に翻弄されるように。
わたしたちは悪いほうへ悪いほうへと転がり落ちていった。一度悪くなればあとは簡単だった。壊すことよりも創ることのほうがずっと難しいのと同じ。転落することは、這い上がるよりずっと容易い。
「あの日‥‥‥」
──あの日、誰かが八戒くんを止めてあげていれば。
追い詰められた彼に気付いていれば。
ありもしないたらればを頭のなかで捏ね回す。この十年、幾度となく持て余した思考だった。
そうこうしているうちに、待ち合わせ場所についていた。
あの頃みんなでよく集まった喫茶店にはやや年季が入り、店員さんの顔触れもごっそり変わっている。唯一変わらないのはマスターだけだ。彼は店に入ったわたしの顔を見るや否や、「おや。美人になったから誰だか分らなかったよ、悪ガキ」と悪戯っぽく笑った。
いつか圭ちゃんと二人で寄り道をしたあの秋の日と同じ、壁際の四人席に腰掛ける。
するとマスターは手ずからお冷やを運んできてくれた。
「ずいぶん久しぶりだね。昔は色んな男を侍らせてたってのに今日は一人かい」
「みんな大人になったんだよ。いつまでも一緒にはいられないよ」
「成る程ねぇ。‥‥‥ホットオレで?」
「はい、ホットオレで」
大人になったわたしはコーヒーも紅茶も飲めるようになっていたけれど、子どもの頃の記憶を懐かしむあまり、気づけば十年前と同じ注文をしていた。
お客さんは多くなく、店内には有線のしっとりとした洋楽が流れるばかりだ。
ゆっくりと丁寧に淹れられたホットオレがテーブルに差し出された。淡いグリーンのカップを握り、十二月の寒風に凍えた手を温める。きっとこれが、最後の飲み物になるだろう。
千冬くんが指定した時間を七分ほど過ぎたとき、店のドアベルが乾いた音を立てた。
訝しげな表情で店内を見渡しながら、一人の男性が姿を現す。
カウンターのなかにいたマスターは彼を見て目を細め、そして何かを察したような様子になると、「あそこで美人がお待ちだよ」とわたしのほうを指さした。
その指先に導かれてやってきた彼が、大きな双眸を見開く。
十年ぶりに会った彼は子どもの頃の圭ちゃんみたいな髪型をしていた。
大きな双眸に泣きぼくろ。記憶のなかでは可愛らしく整った甘い顔立ちだったけれど、どこか憂いを帯びた美形になった。そして右の首筋に、大きな虎のタトゥー。
「‥‥‥あきちゃん‥‥‥?」
羽宮一虎。
東京卍會創設メンバーの一人にして、二〇〇三年八月十四日にマイキーのお兄ちゃんを殺害したのち二年を少年院で過ごし、出所後の二〇〇五年十月三十一日、“血のハロウィン”と呼ばれる抗争にて圭ちゃんを刺したひと。
十年という長い年月を塀の中で過ごし、先日、出所した。
「久しぶりだね。カズトラくん」
絶句して立ち尽くすカズトラくんの後ろから店に入ってきた千冬くんが、「座ったらどうですか」と背中を押す。
よろよろと椅子に腰かけた彼は、凍りついたままがくんと項垂れた。その視界に分け入るようにメニューを差し出す。
「なにか飲む? 出所のお祝いにわたしが奢るね」
「あきちゃん、オレ───なんて言えばいいか」
「ホットコーヒーでいい? 千冬くんも」
言葉を選ぶカズトラくんの声を遮ったわたしに、千冬くんが苦笑いになった。
「オレ、煙草吸ってきます。──ホットコーヒー二つで」
煙草なんて吸わないくせに。
気を利かせたつもりらしい千冬くんは席を立ち、マスターに声をかけてから店を出ていった。
わたしたちの他に二組いたお客さんがこちらに視線を寄越したのを感じる。仕立てのいいスーツにいかついネクタイとピアスを着けた千冬くんは明らかに堅気じゃないし、カズトラくんのタトゥーも悪目立ちしていた。わたしも普通の声量で「出所」とか言っちゃったしね。
有線の洋楽よりも小さな声で、カズトラくん、と囁く。
「何も‥‥‥言わなくていいから、顔を上げて、わたしの目を見て」
「合わせる顔なんて‥‥‥ない」
「東卍が昔のままだったなら、懺悔でも謝罪でも何でもカズトラくんの言いたいことを言わせてあげたい。でももうカズトラくんを許したあのときのマイキーはどこにもいないし、あなたの戻ってくる東卍はどこにも存在しないの」
出所自体は十月頃だったはず。この店に来るまでに、千冬くんから大まかな事情は聞かされたはずだ。
カズトラくんは唇を引き結ぶと、恐る恐る顔を上げて、十年前に較べたら嘘のように穏やかになった双眸をわたしに向けた。
「何もかも全て変わってしまった」
「‥‥‥あきちゃんも?」
「変われたらよかったな、と思うわ」
「‥‥‥あきは変わんないでね」
コツ、と足音が聞こえた。千冬くんの革靴じゃない。陶器の擦れる音がする。マスターがコーヒーを持ってきてくれたのだ。
「みんなと一緒に、ろくでもない大人になれたら、どれほど‥‥‥」
──どれほど、楽だったか。
続きを呑み込んでそっと微笑うと同時に、テーブルのそばに現れたマスターが湯気の立つカップを静かに置いて去る。
千冬くんはまだ戻ってこない。ドアのほうに目をやると、誰かと電話をしているようだった。
「カズトラくん、あのね。十二年前のあの日、圭ちゃんが言ったこと憶えてる?」
「十二年前に‥‥‥場地が?」
思いもよらないことを訊かれたというような表情で一瞬呆気にとられたカズトラくんは、しかし間を置かずこくりと肯いた。
「“一人一人がみんなのために命を張れるチームにしたい”」
うれしくて笑った。
大丈夫だ。
カズトラくんは、大丈夫。
「‥‥‥あきちゃん、今も東卍にいんの」
「うん、そうだね。立派なヒモ女だよ」
「千冬から聞いてたけど‥‥‥ほんとにマイキーとまだ続いてんだ。あきちゃんなら、離れるタイミング、いくらでもあっただろ」
きっと千冬くんと一緒に、マイキーを殴り飛ばすために動いてくれる。
マイキーの夢を、圭ちゃんの志を穢したもの全部、消し去ってくれる。
どいつもこいつも逮捕されて刑務所にぶち込まれて組織は解体されて跡形もなくなって、東京卍會なんて暴走族を誰も憶えていない世界にしてくれる───
両腕で抱きしめたクッションに忍ばせてある銃が重い。
ぼんやりとその冷たい温度を感じていると、玄関のドアが開いて、死んだように気配を潜めたマイキーが帰ってきた。
スーツの上着をその辺にぽいっと投げ捨て、ネクタイを乱暴に緩める。ソファに腰掛けてテレビを眺めているわたしの隣に身を投げ出すと、ずりずりと肩に凭れかかってきた。甘える獣のようだと、いつも思う。
「おかえりなさい。マイキー」
「ん。ただいま」
マイキーは穏やかに狂った。
真一郎くんが大切にしていた黒龍を貶めた罪悪感すらその一助となっているようだった。十年の歳月をかけて、苛烈に、陰惨に、酸鼻極まる裏社会へと馴染んでいった。狂ったマイキーが道を違え、間違いを重ね、罪を犯し、東京卍會は後戻りできなくなった。
大切な人たちが腐っていくのを、“法”たるわたしは見ていることしかできなかった。
「今日もいいコにしてた?」
「ごめんなさい。今日は悪い子かも」
「‥‥‥どういうこと」
す、とマイキーの気配が尖る。
上下左右、善悪の定義もなくなった獣。その背後には、濁った眼で両手に包丁を握りしめる十二歳の春のわたしが立っている。
包丁を握ったり下ろしたりを繰り返していた十二歳のわたしは、いつからか、構えたその刃物をマイキーの背中に向けたまま下ろさなくなってしまった。
ずっと、ずっと、マイキーを殺そうとしている。
「あき」
──大学を卒業後、就職した会社で上司に嫌がらせを受けたことをマイキーに零した翌日、上司は出社しなかった。
彼は行方不明になり、家族が捜索願を提出したという。
わたしも翌週には退職した。
わたしの知らないところで何が起きたのか、恐ろしくて今も訊くことができていない。
それからずっとマイキーはわたしを匿っている。
世界のあらゆる痛みや恐怖から遠ざけるように、大切に、たいせつに。
「マイキー、ねえ、あの日の約束おぼえてる?」
わたしの「悪い子」発言に剣呑な表情をしていた彼は、それでも一応首を傾げて「約束?」と繰り返した。体を起こして斜め上に視線をやりながら唸り、唸り、反対側に首を傾げて、眉間の皺を深くする。
そうしていると、昔のままみたいに見えるのに。
どこでおかしくなっちゃったんだろ。
「あきとの約束なんて‥‥‥数が多すぎる」
「ふふ、そうだね。じゃあヒント‥‥‥圭ちゃんが死んだあと、二人で河原に寄り道した日のこと」
「寄り道したのは‥‥‥憶えてるけど」
「そっかぁ」
ねえわたしたち、出会ってから今まで、たくさんの約束をしたね。
守れたものも、守れなかったものも。
「カズトラくんが出所してきたらみんなで集まって‥‥‥圭ちゃんのお墓参りに行こうね」
「あきは変わんないでね」
彼が道を間違えば殺してでも止めると誓っていた。そして彼をもういい加減殺すべきだと十二歳のわたしはずっと言っている。
それなのに彼を殺せない臆病なわたし。
何者にもマイキーからわたしを奪わせないと決めていた。マイキーのそばにいろと、圭ちゃんはわたしに繰り返し言った。
奪われないためには奪うしかない。
「マイキー、殺せなくてごめんね。ずっと」
「‥‥‥あき?」
ねえ圭ちゃん。
わたし初めて、あの日のあなたの気持ちが痛いほどよくわかるの。
クッションの下に隠してあった拳銃を蟀谷に当てた。
マイキーは、何が起きているのか解っていないみたいだった。
「愛してる」
全部ぜんぶ最初からやり直していけるなら、わたしはきっと、世界のはじまりのあの日に戻って東京卍會なんて創らせない。