そして世界は書き換えられた
わたしに甥がいたことが判明したのは、二〇一六年に入ってすぐのことだった。
「面白いモン見つけたぜ」と部屋を訪ねてきたイザナくんが、テーブルの上に資料をばら撒いたのだ。そのときたまたまわたしの隣で寛いでいたマイキーと一緒に目を通して愕然とした。
二〇〇六年、二月当時。
横浜最大勢力の不良集団『天竺』に属していたわたしの兄、成瀬響平には、つきあっている女性がいた。
しかし兄は当時起きた抗争“関東事変”の最中に死亡する。彼女は一人で息子を産み、天涯孤独の身で未婚の母として気丈に育て続けた。
二〇一五年、無理が祟ってか病に倒れ、九歳の息子を残してこの世を去る。
ひとり残された息子は今、神奈川県にある施設に入っていた。
「‥‥‥妊娠した彼女がいた人が、暴走族の抗争なんかに首を突っ込んでた、ってこと?」
最初に零れ落ちたのがこの一言だったあたり、わたしの兄嫌いも大概だ。
資料を持つ手が震えている。無言で紙面を見下ろしていたマイキーは、そっとわたしの頭を抱きかかえた。
添えられた写真には、子どもの頃の兄そっくりの少年が映っている。あと数年もすれば精悍な青年となり、さらに兄に似るのだろう。あの頃のわたしには、鬼か悪魔のように見えていた兄に。
「あき」
「‥‥‥‥」
「泣くなよ」
「‥‥‥泣いてないよ」
恐ろしかった。
罪が、ひとの形をしてわたしを裁きにやってきた。
罪と法;2016/02/22
「わたしね、大人になったらマイキーと結婚するんだと思い込んでた」
突然そんなことをつぶやいたわたしを、助手席のソウヤくんがびっくりしたような顔で振り返る。
運転席のナホくんは「どうしたーいきなりー」とバカにするように笑った。
神奈川県、某市の児童養護施設。
敷地が視認できる位置に停めた車のなかから、庭で遊ぶ子どもたちをぼんやりと眺める。あの中のどれかが甥なのだろうか。それとも外では遊ばず施設内にいるのだろうか。遠目には分らなかった。
ナホくんは「もっと近づこうか」と言ってくれたけれど、こんな見るからに怪しい車で接近するわけにはいかない。驚かせたいわけでも、甥に接触したいわけでもないのだから。
「まず、マイキーがドラケンくんとバイク屋さんを開くでしょ。次にエマちゃんとドラケンくんが結婚して子どもができる。圭ちゃんがペットショップを開いて、三ツ谷くんがデザイナーの夢を叶えて、パーちんは家を継いで、ぺーやんはその右腕なの。ナホくんとソウヤくんは、そうだなぁ、ラーメン屋さんとかしてるんじゃないかな」
「うんうん、してそうかも」
「じゃ店の名前『双悪』な」
「それで、わたしは大学を卒業して適当な会社に就職して、なんの問題もなければマイキーと結婚するのかな、って。漠然と考えてた」
夢を叶えたあとの大好きなみんなもそれぞれにお嫁さんを紹介してくれて、家族ができて、お互いの家を行き来したりバーベキューしたり、そんな風にぼんやりとした『幸せ』を実現するのだと。
根拠もなく信じていた。
結局わたしたちは、そのどれもを実現することなく、こうして薄暗い世界に頭のてっぺんから爪先まで染まりきっているわけだけれど。
「ばかな人だよね」
「あきちゃん‥‥‥」
心配そうなソウヤくんの声も耳に届かなかった。
「暴走族になんて入らずに、彼女のことだけ考えていれば、今頃幸せな三人家族だったのかもしれないのに」
誰に聞かせるわけでもない独白だ。そうと悟ってか、ナホくんもソウヤくんも口を閉ざす。
「わたしを殺そうとなんかしなければ、わたしに殺されることもなかったのにね」
ナホくんは無言で車のエンジンをかけた。わたしの自己嫌悪の独白を遮るかのように、黒のクラウンが唸る。
「あきちゃんだけが悪かったんじゃねぇよ。みんな何かしら不正解だったんだ」
「‥‥‥‥」
「だから、関東事変の結果をいつまでも背負うのはもうやめろ。あのガキの父親を殺したのはあきちゃんじゃねぇ。あのとき致命傷じゃなかったんだろ?」
助手席から振り返ったソウヤくんの手が差し出される。掌を重ねて、ぎゅっと指を絡める。
慰めるようなその仕草に、彼ら双子の変わらない優しさを痛いほど感じた。
「だからよぉ、今にも死にそうな顔すんなよ」
「そうだよ。おいしいもの食べて帰ろ?」
二〇〇六年、四月二十六日のことだった。
夜の横浜第七埠頭で、わたしは背後から兄を刺した。
背中の真ん中に深々と刺さったナイフ。皮膚や筋肉を貫く感触をまだ憶えている。容易に抜けないように、無理やり捻った。紛れもない殺意だった。ちょうど二年前のこの日に殺し損ねた男を、今度こそ殺さなければならなかった。
兄の絶叫が響き渡り、わたしの凶行に東京卍會が静まり返る。
千冬くんが声にならない悲鳴を上げ、ぺーやんや双子が絶句し、ドラケンくんと三ツ谷くんが怒鳴った。
マイキーだけは、静かに「うん」とわたしを抱きしめた。
「大丈夫。あきを一人にはしない」
「怯えなくていい。わかってっから」
「嫌いになんてなんねぇよ」
「ずっとそばにいる」
‥‥‥だから。
だから、わたしの手はもう十年前からずっと血塗れのままだし、十二歳の春のわたしはもうずっと包丁を構えてわたしの背中に突きつけたままだ。
圭ちゃんの志を穢したわたしに“法”の資格なんてない。
ナホくんの運転する車は都内に戻り、わたしの希望で阿佐ヶ谷に寄った。街中にぽかりと佇む墓地の前で降ろしてもらい、一人、目的のお墓を訪ねる。
佐野家のお墓。
だいすきな親友が眠る場所。
わたしはお供えの花束もお菓子も線香も持たず、ひと気のない墓地でぼんやりと立っていた。手も合わせられない。ただ心のなかで親友の笑顔を想った。わたしももうすぐそちらに往くけれど、きっと同じ場所には辿り着けないだろう。兄を刺したわたしに似合いの地獄で、きっと同輩が待っているに違いない。
都内の高級マンションの前に横づけされた車から降り、わたしはソウヤくんと並んでエントランスのロックを解除した。
エレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押す。わたしなんかには不相応なほど豪華なマンションの部屋は、犯罪組織『東京卍會』総長の恋人であるわたしの身を守るための監獄だ。
部屋のロックを解除してドアを開けると、玄関には黒い革靴が転がっていた。
「マイキー帰ってるんだね」
「うん。今日は朝からずーっとごろごろしてたよ」
「そっか、じゃ、オレ帰るね。またお出かけしようね」
再びエレベーターに乗り込んだソウヤくんが、ガラス戸越しに手を振ってくれる。それに振り返しながら、ソウヤくんの姿が見えなくなるまで、見えなくなっても、わたしは立ち竦んでいた。
さよなら、ソウヤくん。
さよなら、ナホくん。
みんな大好きだよ。
「‥‥‥ただいま」
返事はなかった。
洗面室で手洗いと嗽をして、リビングの手前にある自室に入る。鞄を置いてアクセサリーを外し、何かあったときのためにと持たされている拳銃を、ワンピースの裾に隠れる位置にリボンで結びつけた。
リビングのドアを開けると、マイキーはソファに寝転んでいた体を起こした。
「ただいま。マイキー」
「‥‥‥おかえり」
ぺたりと床に座り込み、わたしはマイキーのお腹のあたりに抱きついた。
上から降ってきた指先が頭を撫で、髪を梳き、耳を擽る。上体を屈めた彼の唇がうなじに押しつけられて、ちゅ、とやたら可愛らしい音がした。
「‥‥‥泣いてるの、あき」
「泣いてないよ」
慰めるような手つきでわたしの体を撫でながら、マイキーは死んだように息を潜める。
十年前の今日、マイキーの心はばらばらに砕け散ってしまった。
誰が傍にいて欠片を拾い集めてももう元に戻らない。
東卍の抗争はこの日を境に泥沼化し、これまでにないほど長期化した。悪辣な手口が横行した。死者も出た。耐えきれなくて逃げ出す隊員もいた。どうしてこうなったのか誰にも解らないまま、四月二十五日に最後の衝突が起きた。
横浜第七埠頭。
呻きながら這い回る血だらけの兄の特攻服に止めを刺したのは稀咲だった。
これがきっかけとなり“関東事変”は終結。
兄を刺し殺したとして稀咲が用意した身代わりが警察に出頭した。それらの対価として東卍は天竺との吸収合併を呑み、急速に犯罪組織化が加速することとなる。
マイキーはわたしの体を抱え上げると、ソファにゆっくり横たえた。
「つかれたの?」
「‥‥‥うん」
額に口付けられて目を閉じる。目蓋に唇が降ってくる。頭を抱き寄せられたので、両腕を彼の薄い背中に回した。
「なんだか、もうつかれた‥‥‥」
「寝る?」
「そうだね。寝ようかな」
「寝室いく?」
こくりとうなずくと、マイキーはソファから下りてぺたぺたと寝室へ向かう。リビングのドアを開けたり電気を消したりしているあいだに、わたしは身を起こした。
スカートに隠してあった拳銃の安全装置を上げる。
引き金に指をかけ、蟀谷に当てる。
戻ってきたマイキーは何が起きているのか解っていないみたいだった。これっぽっちも世界に興味なんてないような、闇の深い双眸でわたしを見下ろしていた。
「‥‥‥あき?」
死は恐ろしくない。例え同じ場所に行けずとも、真一郎くんや圭ちゃんやエマちゃんが先にいる。
それよりもただ、
わたしのために修羅の道を択んだこのひとが、
これから先も穏やかに狂っていく様を、
見ているしかできないことが、
どんな死よりも辛い。
それだけだ。
「情けない”法”でごめんね、マイキー、」
法の下に曝された悪人だけが裁かれる。
ならばわたしを裁くのはわたしでなければならない。突如現れた九歳の『罪』の形は、それを思い出させてくれた。
わたしは誰よりも、最初に。
圭ちゃんの志を穢した罪深いわたしを、殺さなきゃ。
「さよなら」