「あれ、あきちゃんじゃないっスか!」
小夜子ちゃんと一緒に美術館へお出かけした帰り、渋谷駅に帰りついたところでわたしは意外な人に出会った。
「タケミっち。珍しいね、一人?」
東卍の冬用ジャケットを着たタケミっちだ。
珍しくヒナちゃんとも千冬くんとも、溝中のお友達とも一緒にいない。なんだかんだと人に囲まれているイメージだから、一人で渋谷駅にいるというのがなんとも不思議に感じる。
小夜子ちゃんはきょとんと首を傾げた。
「あきちゃん、お知り合い?」
「うん。東卍の子なの」
「そうなのね。‥‥‥ごめんなさい私、ちょっとお手洗いに行ってくるわ」
さすがにマイキーと同じ小中に通うだけあって、タケミっちくらいの可愛いヤンキーには動じない。タケミっちは見た目だけなら金髪リーゼントなんだけど、人の善さというか素直さというかそういうものが顔に表れちゃっているのだ。
気を遣って外してくれた小夜子ちゃんの後ろ姿を見送りつつ、タケミっちに向き直った。
「いまからお出かけ?」
「ハイ。ちょっと
「横浜‥‥‥?」
また突飛なことを‥‥‥。どういう思考回路でいたら一人で横浜特攻なんて思い立つのだろう。
隊長がこんなことを言い出したというのに、副隊長の千冬くんは一体なにをやっているのかしら。
「横浜のほうはけっこうガチガチの暴走族が幅を利かせてるエリアだから、一人で突入するのはよしたほうがいいんじゃないかな」
「えっ‥‥‥ガチガチ?」
「うん。東卍みたいな暴走族を想像しているなら改めたほうがいいよ。それから、タケミっちが横浜にケンカ売るってことは東卍が横浜にケンカ売るってことになって、大規模抗争待ったナシだけどそのつもり? マイキーに許可は取った?」
「えええっ!?」
「当たり前でしょ、“壱番隊隊長”さん」
大げさな素振りでガガーンと落ち込むタケミっちには悪いけど、昨年の抗争に次ぐ抗争で疲弊したあげく、一月の集会でメンバーが大きく減ったいまの東卍で迂闊なことはされたくない。
そもそも横浜がガチガチの治安不良エリアなのも、タケミっちの特攻が抗争を呼ぶだろうことも、全部事実だ。
もしかしてわたし、東卍始まって以来初めて、まともな“法”としての機能を果たしたのでは?
そのとき、タケミっちの待っていた電車がホームにやってきた。
改札は通ってしまっているわけだし、とりあえず横浜までは行ってこないと切符代が無駄になる。
「まあ、横浜行くならおみやげよろしくね!」
「‥‥‥ウッス」
とぼとぼと扉に近づいていくタケミっち。横浜へ向かう電車の扉が開き、わたしは一瞬、呆気に取られた。
赤い詰襟を着たガラの悪いヤンキーが下りてきたのだ。
それも大量に。
「‥‥‥え」
数が尋常じゃない。それこそ抗争を仕掛けに来たような人数だ。十や二十どころではない。
ホームが不気味な畏怖で静まり返る。
わたしも息を呑んでその詰襟集団を見た。
左腕に『狂信遊戯』。右腕に『暴走遊記』。
背中には陰陽太極図、そして『初代天竺』──
横浜暴走族の最大勢力の名だ。
「逃げろ!! タケミっち、アッくん!!」
千冬くんの怒号が響き渡った。
はっと視線をタケミっちに戻すと、ボロボロのアッくんを背負った彼が脱兎のごとく逃げていく。アッくん、いつの間にこんなところに。もしかしてこの詰襟の集団にリンチされたの?
それと入れ違うようにしてホームに駆け込んできた千冬くんは、わたしの姿を見つけて目を丸くしたが、ぐっと唇を噛んで詰襟集団に対峙した。
千冬くんの表情は険しい。
当然だ。いくらタケミっちたちを逃がす時間稼ぎとはいっても、赤い詰襟の集団はどう少なく見積もっても三十人以上いる。けっして千冬くんは弱くない、むしろ強いほうだけれど、この人数差の不利を覆すのは難しい。
戦闘態勢に入った千冬くんを、集団のなかでもひと際体の大きな一人が殴り飛ばした。
顔面に直撃した拳に華奢な体が吹き飛ばされる。何度か床に叩きつけられ、そうしてぐたりと倒れ込んだ彼は動かなくなった。
それを見た瞬間、躊躇よりも先に足が動いていた。
「千冬くん!!」
視界の端で、小夜子ちゃんが他のお客さんに紛れて真っ青な顔をしているのが映る。一緒にいなくてよかった。本当に、よかった。このまま無関係のふりで逃げてほしい。
千冬くんの体を抱き起こす。
わたしでは運んで逃げることもできない。
「あきちゃん‥‥‥、バカ、逃げろよっ」
「ごめん‥‥‥」
東卍関係者だとバレないほうがいい。本当に危ないときは知らないふりしてちゃんと逃げろ。仲間とか見捨てるとか考えずに、とにかく無傷で逃げるのがあきの勝利条件だ。幹部のみんなと取り決めていた約束ごとの全てが頭から消えていた。
「でも、無理だよ、さすがに」
千冬くんの頭をぎゅっと抱きかかえる。
威圧的な靴音を立てながら近づいてきた赤い詰襟集団を睨みつけた。
集団の先頭にいるのは、千冬くんを殴った黒い辮髪の男の人。特攻服は周りと同じデザインだけど、トップか、そうでないにしろ『天竺』の主力レベルだ。そういう率い方をしている。
千冬くんは何も圭ちゃんに対する敬慕だけで壱番隊副隊長を任されたわけじゃない。実力もある。それが、不意をつかれたとはいえ一発くらっただけで、こんな。
──マイキー。ドラケンくん。三ツ谷くん。どうしよう。どうすればいい?
コートの内ポケットに意識が向いた。武器は、ないわけじゃない。でもダメだ。この状況を引っくり返せるほどの武器ではない。
震えるな。
すぅっと息を吸い込んで、お腹の底から声を出す。
「‥‥‥横浜の、暴走族が渋谷になんの用ですか?」
先頭にいた辮髪がぴくりと目尻を上げた。なんだか見覚えがあるような気がする。東京外の有名な暴走族のトップの顔は写真を見せられたことがあるから、そのなかの誰かだ。
「さっき、“あきちゃん”つったな。もしかしてコイツか?」
──まずい。
わたしの存在は概ね“マイキーの女”という通称になっているけれど、名前なんて調べればすぐに判る。いい加減に写真だって出回っていてもおかしくない。
でも万が一マイキーや東卍に対する人質として捕まる流れになるのなら、混乱に乗じて千冬くんを逃がすくらいのことは、する。してみせる。
気合いを入れるわたしをよそに、辮髪は背後を振り返って怒鳴った。
「オイ成瀬!!」
心臓が、
嫌な跳ね方をした。
成瀬、って言った。
別に珍しい苗字でもなんでもないけど、嫌な響きだった。
集団のなかから一人が進み出る。赤い詰襟を身につけた『天竺』のメンバーだ。
黒い地毛の刈り上げツーブロック、耳には大きなフープピアス、千冬くんを抱くわたしの目の前に仁王立ちになって、逆光を背に見下ろしてくる。
昔のわたしには、鬼か悪魔のように見えていたシルエット。
「───お兄ちゃん‥‥‥」
「久しぶりだな。あき」
そのブーツの爪先がわたしの顎を打ち抜いた。
第四章
My Own Jackknife;01
‥‥‥頭がクラクラする。
お腹のあたりが圧迫されていて苦しい。両腕も両脚も宙に浮いて、ぶらぶら揺れている。逆さまになった頭に血が上って気持ち悪い。
赤い詰襟の背中が視界に入った。
誰かの肩に担がれて運ばれている。
「お、ヨメちゃんいたのか。マイキーと一緒じゃなかったんだな」
「ああ。珍しいことにな」
「マイキーと一緒にいりゃちょっとは命日が伸びたのに、カワイソ。なぁ稀咲」
「微塵も思ってねぇことを言うな」
「バレたぁ?」
いまの、半間の声だ。
そんな弱っちい身一つで他人なんか守れんの、と揶揄するように笑った半間修二。
きさき。
この間、除名になった男の子。元、愛美愛主の。
東卍から抜けたはずの、隊長ふたりの声。
どうしてこんなところに。
駅で天竺に襲われて。そのなかに兄がいて。
ということは、半間と稀咲は天竺に移ったということか。
ああ、──しっかりしろ!!
「っ、はなしてっ!」
「うおっ、起きたぞ成瀬!」
無造作に手足をばたつかせて、わたしを運んでいた誰かの肩から飛び降りる。受け身もとれず地面に転げ落ちると、「あきちゃん!?」とタケミっちの声がした。
視線を向けると、壱番隊の溝中組が詰襟集団に囲まれている。タケミっちとアッくんと、山岸くんとマコトくん。みんなボロボロだ。溝中組は五人衆のはずなのに一人足りない。
東卍四人に対して天竺が、少なく見積もっても三十人。
武器は持っていないみたいだけど、多勢に無勢にもほどがある。こんなのケンカじゃない。リンチだ。
すぐそばに立っていた兄が、冷ややかな目でわたしを見下ろした。
真っ直ぐに睨み返す。
「‥‥‥死んだって連絡はこないから生きてるんだろうと思ってたけど、性懲りもなく横浜の暴走族になんて入ってたんだね」
稀咲がタケミっちと対峙して何か話しているのが見えた。少し離れたところにいた半間が、こちらに気づいてニヤリと口角を上げる。ひらりと振られた罪の左手は、何かを握りしめるような形になった。ちょうど、掌に収まるくらいのナイフを握るような、仕草。
この状況にあってもわたしを煽っているのだ。
思いっきり半間から顔を逸らし、兄に向って吐き捨てる。
「あれだけマイキーにボコボコにされたのに、どの面下げて渋谷に戻ってきたのよ」
「ああ‥‥‥オマエのおかげで全部失ったよ。仲間も、家も、金も」
「自業自得じゃん。こっちはあんたに殺されるとこだったんだから」
「ああ。だから、あき」
兄は横に手を差し出した。
部下だか仲間だか、わたしを運んでいた男がその手に角材を手渡す。
「兄妹ゲンカの続きといこうぜ」
真っ直ぐ振り下ろされた角材を間一髪、横っ飛びで避けた。だけど体がついてきたのはそこまでだ。
マイキーや圭ちゃんと同じことがやりたいと、わたしが佐野道場に通っていたのは小学校低学年の頃。昇段試験で組手の項目があって、初めて他人と対峙したわたしはきれいに負けた。
武道だとしても、試験だとしても、防具をしていても、人に攻撃を繰り出すことができなかった。
負けたことが悔しくて、でも人を攻撃するのが恐ろしくて。昇段試験の帰り道にめそめそ泣くわたしの頭を、圭ちゃんは「オマエ向いてねーよ!」と撫でまわした。見学という名の冷やかしに来ていたマイキーまで「うん、辞めたほうがいい」なんて神妙にうなずいたのだ。
横に一閃された棒が、腹部を庇った右腕を強かに打つ。
衝撃や痛みに反応する暇もなく今度は兄の拳が頬に飛んできた。視界に火花が散る。誰かの悲鳴が聞こえた。
「あきちゃんっ!!」
この人の動きは、マイキーやドラケンくんに較べたら遅い。本当に、遅い。
だけど、目で追えること避けられることは全く別の問題だ。