第四章
My Own Jackknife;02
地面に倒れ込んだわたしのお腹を蹴り飛ばして、兄は「なんだ」と呟いた。逆流してきた胃の中身を吐き出す。お昼ごはん、美術館に隣接したお洒落なカフェで、おいしかったのにな。そういえば小夜子ちゃん、ちゃんと巻き込まれずに逃げられたかな。無事だったらいいけど。
もう一発、二発。ブーツの爪先が鳩尾にめり込む。
げほ、と咳き込んだわたしの頭を兄は踏みつけた。
「オマエこんなに弱かったのか、あき」
いたい。きもちわるい。頭がガンガンする。
男の子たちって、いつもこんな思いをしているのに、どうして懲りずに毎日毎日ケンカできちゃうんだろう。
「あのときはよ。佐野の坊主や圭介やバケモンみてぇな中坊ぞろぞろ引き連れてきて、佐野の坊主にボコボコにされてるオレを見下ろして、オマエ笑ってたよな。満足したかよ? てめぇのせいでオレの人生クソだよ。東京卍會なんて暴走族の名前聞いたときにゃ笑ったし、マイキーの女とかいうふざけた話聞いたときにも笑ったわ。中坊が何イキってんだ。佐野の陰に隠れるだけのテメェがどの面下げて暴走族の総長の女名乗ってんだよ。覚悟もねぇのにしゃしゃってんじゃねぇよ!」
不良ってホント、しんどい。
殴ったら痛いし、殴られても痛いし、卑怯なのはいるし、逮捕されちゃうし、武器使ってくるやつも、凶器使ってくるやつもいる。圭ちゃんなんて、死んじゃったし。圭ちゃんはもっと痛かったのかな。ナイフで刺されるってどんな感じなのかな。
ナイフで刺したら、人って死ぬんだよね。
「オイ、起こせ。押さえてろ。丁度いいから四分の三まで殺して両手両脚折ってうちの庭に放り込む」
周りで眺めていた男たちが、わたしの腕や肩を掴んで無理やり起こす。
兄が前髪を鷲掴みにした。
こんなとこで。
‥‥‥こんなとこで、わたし、こんなやつに。
「あきちゃんっ!!」
「うおっ‥‥‥ンだよコイツ!」
勢いよく兄にタックルをかましたタケミっちが、そのまま両腕をがっちり回して「逃げて!!」と叫ぶ。兄は容赦なくタケミっちの背中を殴りつけた。お腹に膝蹴りをぶちこむ。たたっ、とアスファルトに血が散った。
タケミっち、ああ、また血だらけになって。
ヒナちゃんが心配しちゃう。
「あきちゃんがやられちゃったら! マイキーくんが!!」
「このクソガキ! 放せや殺すぞ!!」
「マイキーくんが泣くじゃないかっ! 立って逃げるんだよ、あきちゃん!!」
「‥‥‥!」
──マイキー。
マイキーなら。
誰が相手だって屈したりしない。例え二年前にこの手が殺し損ねた身内でも。自分より強くても、卑怯でも。
勝ち負けが問題なんじゃない。
心が折れたらそこで負けるのだ、わたしは、わたしに。
「“いいかあきちゃん、女は度胸だ”‥‥‥」
「ん? なんか言ったか?」
女は度胸。啖呵切るときは死ぬ気で切れ。
中途半端が一番いけねぇ。
怯えた姿を見せるな!!
自由な両足を揃えて、ジャンプして。
わたしの両脇を固めている男の片足を渾身の力で踏み抜いた。
今日の履物は踵三センチヒールのブーツ。「イッテェこいつ!!」と拘束が緩んだ隙に逃げ出したけど、同時にタケミっちを振り払った兄に後ろ髪を掴まれる。
天竺とやりあってへろへろになっていた溝中組も息を吹き返し、タケミっちとともにこちらへ向かってこようとしていた。みんなケンカがものすごく強いわけでもないのに、わたしとタケミっちの名前を叫びながら走ってくる。
兄がわたしの髪の毛を引っ張り上げた。
「往生際が悪ィんだよ! あき!!」
「っ‥‥‥!」
咄嗟に、コートの内ポケットに手を入れた。
使う日なんてこないと思っていた。
圭ちゃんを殺したこんなもの大嫌いだ。
お守り程度。もし自分が捕まったり、誰かが縛られたりしたときに、あれば便利だなと思っただけ。絶対に、誰かを傷つけるためには使わないからって、言い訳して。捨てることができなかった。
刃の飛び出したナイフを逆手に持ち替えて首の後ろへ差し込む。
邪魔な髪を全て切り落とした。
「は‥‥‥!?」
「う、う、ウワアアアあきちゃん!!」
「ギャアアアアあきちゃん!!」
「なんてこったあきちゃん!!」
なぜか兄や天竺よりもタケミっちたちのほうが驚いている。
ついさっきまでわたしの一部だった黒髪は不浄の象徴のように、不気味に風に舞った。
「──どうする、お兄ちゃん」
手のなかに残ったわたしの髪を鬱陶しげに投げ捨てると、兄はこちらを睨みつけた。
鬱屈と澱んだ眸。二年前もこうだっただろうか。
この人は、こんな顔をするような男だっただろうか。
わたしがこうさせたのか。
「わたしケンカなんてできないけど、マイキーの横に立つ身だからロクな目に遭わない覚悟はできてるし、黙って大人しく殺されたりなんかしない」
マイキー。ごめん。
でも最後まで下は向かないから。
相手が他の暴走族ならきっと逃げたかもしれない。助けてくれたタケミっちたちも置いて、逃げて、あなたの腕のなかに飛びこんだかも。
でもこの人はだめだ。
この人は二年前、わたしが殺し損ねた男。
「お望み通り! 地獄で!! 兄妹ゲンカの続きをしてやる!!」
一瞬。
ほんの一瞬、天竺の空気が凍った。
───するとその隙間を縫い取るかのように、集団の最後尾辺りで悲鳴が聞こえた。漣のように近づいてくる男たちの悲鳴、何かを蹴散らすような音、そして排気音。
思いっきり人間を跳ね飛ばしながら、二台のバイクが近づいてきた。誰かが叫ぶ。
「目黒の“ツインデビル”だ!!」
現れたのは肆番隊の双子だった。
かなり容赦なくバイクで人を撥ねつつ、急ブレーキでわたしたちと兄との間に滑り込んで立ちはだかる。ピンク色のふわふわ頭の下で笑顔に青筋を浮かべるナホくんと、水色ふわふわ頭の下でがっつりメンチを切っているソウヤくん。
「ぃよう、うちのお姫サマが世話になったみてーじゃん」
「あきちゃん、平気!?」
「次から次へと‥‥‥」
双子としばらく睨み合った兄は、蜘蛛の子を散らすように逃げ去る詰襟集団に紛れてひっそりと立ち去った。
深追いするつもりはないのか、ナホくんが笑顔で振り返る。
「スッゲェ無茶だったけどよ。やるじゃん、あきちゃん」
「ナホくん、ソウヤくん‥‥‥助かったよぉぉ」
「わっ、あきちゃん!」
かく、と膝から力が抜ける。地面に頽れそうになったわたしの肩を掴んで、ソウヤくんがゆっくりと座らせてくれた。
適当に切り落としてしまったわたしの髪の毛を掻き上げて、ナホくんが顔を覗き込んでくる。
「どこやられたんだよ。頭殴られた?」
「顎とほっぺに一発‥‥‥。頭クラクラする」
「脳震盪かもな。顔ひっでぇことなってんな、女子の顔面こんな容赦なく殴るかよフツー。あと痛てぇとこは?」
「右手がびりびりする。なんか、全身、痛いよう」
「まァ折れてはなさそーだけど。じっとしてな、そのうち警察が来っから」
ナホくんと話しているうちに、ソウヤくんがバイクの後ろに乗せていた男の子を地面に横たえた。溝中五人衆のタクヤくんだ。天竺の連中から逃げている最中にはぐれたのを、双子が保護していたらしい。
「あきちゃん、ちゃんと病院まで連れてってあげたいけど」
相変わらず怒った顔と気遣いの内容にギャップのあるソウヤくんが、青筋を浮かべながら顔を寄せてくる。
痛くない左腕を上げて、水色をしたフワフワの頭をぽんぽんと撫でた。
「わかってる、大丈夫。行って」
狙われたのは『東京卍會』と『成瀬あき』だ。
偶然出くわしただけでこの襲撃。名前の知られた隊長たちはもっと悪質に狙われているかもしれない。ピンピンしている二人をいつまでもここに居させるわけにはいかない。
「千冬、立てっか?」
「うっす‥‥‥」
千冬くんは、わたしが兄とやり合っている間に、あの黒い辮髪の男に引きずられてここまで連れてこられたようだった。あれから暴行を加えられたわけでもないみたいで、それなりにしゃんと歩けている。
「オマエ場地が生きてたら殺されてンぞ。あきちゃんに頑張らせて何一人ノビてんだよ」
「すんません‥‥‥」
「ナホくん、わたし平気だから。千冬くんが無事でよかった」
わたしの前にしゃがみ込んだ千冬くんはちょっと泣きそうになっていた。
そんなにひどい顔になってるのかな。鏡、ああカバンがない。駅に落としてきたのかな。携帯も財布もあのなかだ、どうしよう。
「あきちゃん、ナイフ」
「ん?」
「渡してください。警察くるなら持ってないほうがいいでしょ」
「うん‥‥‥千冬くんは使っちゃだめだよ。どこかで捨てて」
「わかってます。預かります」
右手に握ったままだったナイフの刃を仕舞って、千冬くんの手に。
──渡そうとしたところで、「やっぱやめた」とソウヤくんに渡す。
「エッあきちゃん!?」
「千冬くん、頭に血が上ったらなにするかわかんないから、一番安全そうなソウヤくんで」
「ひでぇ!」
「いや正しいワ」
「あとで返すね!!」
「うん」
そして肆番隊コンビは後ろに壱番隊コンビを乗せて、天竺本拠地の横浜に遊びに行った。
二台の排気音と入れ違いにして大勢の足音が聞こえてくる。「あっちだ」「通報にあった少女ひとり」という大人の声。警察が来たのだ。
ほっとした瞬間、両肩に凄まじい疲労感が圧し掛かってきて思わず地面に蹲った。
頭がガンガンする。
お腹が気持ち悪い。
‥‥‥いいよね、ちょっとくらい。
マイキーわたし頑張ったよ。また怒られちゃうかな。あきはいっつもオレのいないとこで無茶する、って。ごめんね。でも、約束やぶろうとしたわけじゃなくて。
‥‥‥ああ。
会いたいな。
マイキーに会いたい。
「あきちゃん……? あきちゃん?」
溝中組の誰かの声が聞こえる。
でもちょっと、そっとしておいて。
疲れただけから。