「ねえ、あき」

 お母さんの声は震えていた。

「こんなこと言いたくないけど、本当に言いたくないけど、もう、万次郎くんたちとつきあうの、やめたら」
「‥‥‥‥」
「去年からちょっとおかしくない? 堅くん入院したり、圭介くん亡くなったりして。お父さんもお母さんも、あきの好きにさせてあげたかったけど。万次郎くんたちだって一生懸命あきのこと助けてくれてるんだって、わかってるつもりだけど」
「‥‥‥‥」
「でも、こんな。女の子なのに」

 右腕の骨には罅が入っていた。
 折れてはいなかったけど、いまはギプスで固定している。あの場で意識を失ったわたしは救急搬送され、目を覚ましたときには全ての処置が済んでいた。
 駅で落としたカバンは小夜子ちゃんが拾っていてくれた。先程簡単な事情聴取があって、そのときに返却された。
 さすがにちょっとくたびれたから、今は横になっているところだ。

「マイキーたちのせいじゃないの」
「あき」
「お兄ちゃんだった」

 お母さんが息を呑む。

「まだ状況はよくわからないんだけど、多分、東卍とかマイキーとか関係ない。“お兄ちゃん”は“妹のわたし”を殺したいんだと思う」
「そんな‥‥‥」
「だから、マイキーたちと縁切るとか、したくない。今日だって、周りにいた大人は誰も助けてくれなかったけど、東卍の子たちがお兄ちゃんを止めてくれたから助かったんだよ」

 もし小夜子ちゃんと二人でいるときに、お兄ちゃんと出くわしていたら。
 もし、あそこにタケミっちたちがいなかったら。
 もしナホくんやソウヤくんが駆けつけてくれなかったら。
 今日だけじゃない。今までわたしはたくさんの仲間に助けてもらった。もうマイキーと縁を切れば済むレベルの問題でもないのだ。

 そのとき病室の入口に誰かの気配がした。
 ベッド周りのカーテンを閉めきっているから姿は見えない。お母さんが椅子から立ち上がって確認しにいこうとする前に、その気配は声もかけずにベッドのそばまでやってきた。

 足音で、誰だかわかってしまう。

「……開けないで」


第四章
My Own Jackknife;03




 お母さんがはっとした。わたしの口ぶりで察したらしい。
 カーテン越しに佇むその人は、手を伸ばしたままぴたりと動きを止めた。

「開けないで。いま、顔ヒッドイから」
「‥‥‥‥」
「でも平気だから。みんなにも、心配しないでねって伝えておいてくれる?」
「‥‥‥あき」

 マイキーの声だった。
 お母さんと同じくらいかそれ以上に、頼りなく震えるマイキーの声。お母さんはベッドに横たわるわたしをちらっと見たけど、わたしが首を横に振るとそっと椅子に腰かけた。

「顔、見たい」
「だめだよ」
「あき、‥‥‥声だけじゃわかんねぇよ」
「カーテン開けたら嫌いになっちゃうよ」

 殴られた頬や切った唇は腫れ上がり、地面を転げたときに擦りむいた額や蟀谷もえらいことになっている。なにより兄に掴まれて無理やり切り捨てた髪は、まだ整えてもいないから悲惨だ。お母さんに鏡を見せてもらって正直自分でも引いた。こんな状態で会えるわけがない。
 まあ、見慣れた怪我といえば見慣れた怪我でもあるんだけど。

 ぐ、とカーテンに皺が寄る。

「マイキー」

 拒絶のためのその一声が合図だったかのように、彼は勢いよくカーテンを引いた。

 マイキーはわたしを見て絶句した。
 こんな、打撲とギプスくらいの怪我でこの世の終わりみたいな顔をする。ドラケンくんの怪我のほうがよっぽど命の危険があったし、こんな負傷は日常茶飯事の世界にいるくせに。わたしが女だから、弱いから、わたしが怪我をすればマイキーは自分を責める。
 だから開けないでって言ったのに。

「ごめん、お母さん。やっぱり二人で話したい」
「じゃあ‥‥‥飲み物、買ってくるわね」

 なぜかお母さんのほうが緊張したような面持ちで病室を出ていった。
 マイキーはカーテンを開けたあとそのまま固まっている。
 名前を呼んで手招きすると、何かに怯えるような足取りで一歩、二歩、ゆっくりと近寄ってきた。

「ひどいでしょ。だから見られたくなかったのに。本当、女心がわかってないんだから」
「‥‥‥‥」
「やっぱり、柚葉ちゃんにちょっとくらいケンカのやり方、教わっとくべきだったね」
「‥‥‥‥」
「別に無茶して立ち向かったわけじゃないんだよ。ただちょっとヘマしちゃって、逃げるに逃げられなかったというか。ねぇ、聞いてるマイキー?」
「‥‥‥‥」

「‥‥‥泣かないでよ」

 男の子って意外と泣き虫だ。
 わたしはよく圭ちゃんに「泣き虫」と言われていたけど、東卍の男の子たちだって、情に篤くて涙脆くてよくポロポロ泣く。そういうときわたしは、みんなを守ってあげたいな、って思う。
 左腕を上げると、彼は掌にすり寄るように頬を寄せてきた。
 金髪のなかに指を差し込んで引き寄せると、こつんと額が重なる。マイキーの眦から零れた涙がこめかみに落ちてきて、その熱さにびっくりした。

「ね、ヘーキだから。一応今晩だけ泊まるんだって。明日には退院するよ」
「‥‥‥‥」
「そんな言葉もないくらい顔ヒドイ? こんな顔のわたしやだ?」
「ちが、‥‥‥」

 こんな静かに泣くマイキー初めて見た。
 長い睫毛が震えている。さっき触れた頬は冷たかった。涙だけが、火傷しそうなほど熱い。

 守ってあげたいな。
 マイキーが笑えるようにしてあげたいな。
 どうしたらいいんだろう。こんな弱っちいわたしが、こんなにも強い人を、こんなに簡単に泣かせてしまえる。それってとても怖いことなのかもしれない。
 どうしたらいい。
 どうしたらわたし、マイキーを泣かせずに済むの。

 どんな言葉をかけようか、どうしようかと色々悩んでいる間もマイキーはぽろぽろ涙を零している。困ったな。
 試しに顔を動かして、ほっぺたにキスしてみた。

「‥‥‥‥‥‥は?」
「あ、止まった。びっくりした?」
「し、て、ねーけど」
「したじゃん。ふふ、ねぇいつまでも泣いてないでさ、話聞いてよ。とりあえず、髪の毛揃えてほしいから明日ドラケンくんにお願いしといてね?」

 マイキーはぱっとわたしがキスした頬に手を当てると、さっきまで蒼白だった顔を真っ赤にして一歩後退った。

 ‥‥‥は?
 玄関先やドラケンくんたちの前で勝手に唇かっさらっていった人の反応、それ?
 なにそれ。かわいい。

 にやけそうになる顔をギュッと引き締め、眉を寄せてから、わたしは「それから」と続けた。真面目に、真面目に。笑えない事態は病院の外でも進行中なのだから。

「襲撃してきた人のことだけど」
「!」

 さすがに顔色が変わる。
 さっきまでお母さんが座っていた椅子を指さすと、マイキーはちょこっと腰掛けて、わたしの左手を握った。

「赤い詰襟の特攻服で、背中に『横浜天竺』って書いてあった。渋谷駅で出くわしたのが、黒い辮髪で“モッチー”っていう人の部隊。本人は千冬くんを殴り飛ばしたあと新宿に行ったらしいよ。ナホくんたちがよく知ってる人みたいだった」
「うん‥‥‥モッチーか。川崎のやつだ」
「あと、お兄ちゃん」

 マイキーは、まるで亡霊の名前でも聞いたような目になった。
 当然だ。わたしだって最初そう思った。死んだという連絡はきていなかったけれど、マイキーたちにボコボコにしてもらったあと姿を消して以来、二年間一度も音沙汰のなかった人だ。もはや死んだも同然と考えていた。
 両親はもしかすると何か知っていたかもしれないけれど。

「天竺は東卍メンバーを手当たり次第に襲ったみたいな印象だったけど、お兄ちゃんは違った。多分、独自にわたしを狙ってきていたし、他の人もそれを承知しているみたいな感じだった」
「‥‥‥そうか‥‥‥」
「それと、稀咲・半間。ちょっと意識ハッキリしてなかったけど、あの二人も天竺の特攻服を着ていたと思う」

 目を伏せて俯いた彼の頬に、涙の筋が残っていた。
 左手はつないだままだから、ギプスで重たい右腕を上げて指先で拭う。罅が入ったのは手首と肘のちょうど間あたりで、一か月もあれば癒合すると言われたし、冬だから長袖でギプスは隠せる。日常生活にもあまり支障はなさそうだし、何より受験がもう終わっているから良かった。

「‥‥‥つらいね」
「辛いのはオレじゃなくてあきだ」
「でも、マイキーもつらいね」
「すぐ駆けつけてあげられなくてゴメン。‥‥‥一緒にいればよかった」
「だって、お出かけしてたんだからしょうがないよ。小夜子ちゃんが巻き込まれなくてよかったよ。──ねえ、このゴタゴタが終わったらさ、また二人でどっか行こ?」

 マイキーはちょっとだけほほ笑んだ。

「どっかって、どこ行きたいの」
「どこでも。ゆっくりできるところ。誰もわたしたちのことを知らない遠くで、しばらく東卍をお休みして羽を伸ばすの。で、もーいーやってなったら渋谷に戻ってくる」
「‥‥‥いーよ。あきが行きたいとこ、行こ」
「一緒にいる間はケンカもバイクも禁止だからね」
「うん」

 こくりとうなずく幼い仕草に笑みが零れる。
 本当に、行けたらいいな。
 誰もわたしたちのことを知らない場所。東京卍會も、真一郎くんが死んでしまったことも、パーちんやカズトラくんが逮捕されたことも、圭ちゃんがもういないことも、みんなが痛い思いすることも全部なかった、のんびりとした幸せな世界。

 そんなところがあればいいのに。
 あるわけがないけど。でも。


 全部ぜんぶ最初からやり直していけるなら、わたしはきっと、世界のはじまりのあの日に戻って東京卍會なんて創らせない。





 マイキーは、そのあと戻ってきたお母さんと、会社を早退して駆けつけたお父さんに深く深く頭を下げた。
 あきを巻き込む危険を十分わかっていながらあきを遠ざけることができなかった。怪我させないって決めていたのに今回自分は駆けつけて助けられない距離にいた。全てオレの責任ですと、とんでもないことを言い出して逆にお父さんとお母さんを慌てさせた。

「万次郎くん、頭を上げて。全てだなんてとんでもない。あきを襲ったのは響平なんでしょう」
「ちょっと、マイキー」

 ベッドの上から手を伸ばして、ジャケットの裾をぐいぐい引っ張る。

「例えばわたしが怪我したのが“マイキーの女”とか東卍の“法”として狙われたんなら、マイキーの気が済むまで謝ってよ。でも今回は違う。お兄ちゃんは東卍もマイキーも関係ない、妹の成瀬あきを狙ってきたんだよ。見当違いな責任まで背負いこむのはやめて」
「でも無関係じゃないだろ」
「無関係じゃなくても! あの日お兄ちゃんをやっつけてってお願いしたのはわたしで、東卍から離れなかったのもマイキーから離れなかったのもわたしでしょ!」
「そうだよ。あきはお人好しだからオレらのことほっとけなかった。手放すべきだった。オレがちゃんと」
「いい加減にして!! 本当にお人好しだから一緒にいたんだと思ってるの!?」

 突然始まったわたしとマイキーの口論に、両親はおろおろしながら立ち尽くした。二人の前でこんなふうにけんかするのは初めてなのだ。
 こういう意地の張り合いでは互角のわたしたちの睨み合いに、コンコン、というノックの音が割りこむ。
 病室のドアは開けたままだ。四人がそちらに視線をやると、ドラケンくんが立っていた。

「ったく。外まで声聞こえてんぞー」
「ケンチン」「ドラケンくん」
「ま、よかった。マイキーとケンカできる程度には元気なんだな」

 険しい表情のなかにそっと安堵を潜ませてベッドのそばまでやってくる。
 冬だというのに少し汗をかいていた。方々の対応に走り回って、急いで病院に来てくれたのだろう。

「で、なんのケンカだよ」
「おじさんとおばさんに謝ったらあきが急にブチ切れただけだし」
「マイキーってば、今回わたしが怪我したの全然マイキーのせいじゃないのに『全部オレのせいです』なんて言うんだよ。わたしそんな余計な責任まで負わせたいわけじゃないのにっ」
「オマエらバカなの? なに責任の取り合いしてんだよ」

 うわぁ。
 かなりマジな目でバカって言われた。
 なんだか急に冷静になってしまって、引っ張り回していたマイキーのジャケットの裾から手を放す。フゥと溜め息をついたドラケンくんは、そのままがばっとマイキーの頭を掴んで一緒に下げた。

「ちょっ‥‥‥」
「あきちゃんが何と言おうとオレらが無関係なわけがない。この度は誠に申し訳ございませんでした」

 ──なんで。

 絶句して反論もできないわたしに向かって、お父さんが困ったように眉を下げる。

「ええと‥‥‥あき、まあ落ち着きなさい」
「お父さんもなんとか言ってよ! 全部お兄ちゃんが悪いんだからマイキーと堅ちゃんが謝る必要ないじゃん!!」
「うん、概ねあきに賛成だから。とりあえず万次郎くんと堅くんは顔を上げて」

 お父さんに促されてようやく、二人はゆっくりと頭を上げた。

「二年前、響平の件では迷惑をかけたようだね」

 自分が口を滑らせたことにそこで気がついた。
 二年前にわたしが兄を殺そうとしていたこと、両親には話していない。見抜いた圭ちゃんやマイキーによってわたしが救われ、兄のグループが壊滅したことも。

「なんとなく、あきや万次郎くんたちが関わっているんだろうなとは思っていたけど。あのときは我々も自分のことで精いっぱいで、あきの気持ちまでケアしてあげられなかった。響平が家を出てはじめて、あきがすごく思い詰めていたことに気づいたくらいなんだ」

 ね、とお父さんが隣を見て、お母さんはこくんとうなずく。

「きみたちはいつだって、きみたちなりの方法で娘を守ろうとしてくれたと思う」

 お父さんはにこっと笑った。
 穏やかな両親。暴力なんて無縁のあたたかい家族。だからこそ兄の非行に戸惑い、どうすることもできなかった。
 それでも、マイキーや圭ちゃんやドラケンくんや、わたしが連れてくる不良そのものの男の子たちを追い出すこともなく、「万次郎くん」「圭介くん」「堅くん」なんて呼んで、ちゃんとわたしの友だちとして接してくれた。

「あきは、きみたちのことが大好きみたいなんだ。きっと一番難しくて大変なことだろうけど、これからもあきが怪我したり泣いたりしないように守って、一緒にいてあげてくれるかな」
「もちろんです」

 即答したのはやっぱりドラケンくんだった。
 ことあるごとに離れる選択肢を頭のなかに置いているマイキーは、少し躊躇いながらもうなずく。

「で、ひとつ訊きたいんだけど二人とも。あきも」
「「ハイ」」「なに?」
「“マイキーの女”ってどういうことかな」

 三人揃って真っ蒼になった。



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