「‥‥‥ん、あきちゃん!!」
誰かが大声でわたしを呼ぶ声が聞こえて、一瞬だけどこかへ飛んでいた意識が戻ってきた。
全身、ズキズキする。おかしいな、お兄ちゃんにやられた傷、もうほとんど痛みもなくなってきていたのに。ギプスをはめた右腕の感覚だけが鈍い。両脚が、擦り剥いたときみたいにひりひりする。
瞼を開いた視界は真っ暗だった。
目が見えなくなったのかと少し驚いたけど、なんのことはない、東卍の特攻服の色だった。右胸に『天上天下』左胸に『唯我独尊』って書いた──
待って、誰の?
「あきちゃんっ!!」
「いたた‥‥‥」
わたしの名前を叫ぶ声は、八戒くんだ。珍しい。彼がわたしの名前を呼ぶなんて初めてじゃないだろうか。まだ頭が混乱しているけど、とりあえず起きなくちゃ。大丈夫大丈夫、そんなに呼ばなくても聞こえてる。
体を起こそうとしたら、だらりと力の抜けた腕が覆いかぶさってきた。どうりでさっきから重たいと思ったんだ。
体の上に乗っかった腕を押しのけて身を起こす。
眼下には目を閉じた三ツ谷くんが倒れていた。
わたしの頭や体を抱え込んだような体勢のまま。
「‥‥‥え?」
「タカちゃん起きろ! タカちゃんっ!!」
「なに‥‥‥」
──あのバイク。
こっちに突っ込んできたんだ。
ぼけっと突っ立っていたわたしの腕を三ツ谷くんが引っ張った。驚いてよろけたら乱暴に頭を抱きかかえられて、凄い衝撃に体全部持っていかれた。天地が引っ繰り返って何度も転がって。
「ぁ‥‥‥まって、なにそれ、みつやくん、ねぇ起きてよ」
何が起きたのか理解していくたびに両脚の痛みが増して、息ができなくなっていく。
うそだ。
夢。
これは悪い夢。
全部、全部、全部ぜんぶ嘘だ。
第四章
My Own Jackknife;08
その瞬間を見ていた八戒くんによると、三台のバイクがこっちに突っ込んできて、わたしと三ツ谷くん、そしてナホくんをそれぞれ鉄パイプのようなもので叩いていったらしい。
暗かったうえフルフェイスのヘルメットをかぶっていたから顔は解らないけれど、そのうち一人が着ていたのは確かに赤い服だったという。天竺の特攻服は赤色だ。
病院に運び込まれた三ツ谷くんとナホくんは意識不明の重体。
わたしは脚を盛大に擦り剥いただけだった。
ソウヤくんと二人でソファに座り、言葉もなく項垂れる。いつ二人の心臓が止まるかと嫌なことばかり考えて、わけもなく叫びたくてたまらなかった。辛うじて叫ばずにいられたのはソウヤくんがずっと手を握ってくれていたから。
マイキーたちのところには、八戒くんが報告に走ってくれた。
「‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥」
沈黙に耐えかねて体を折り曲げる。
膝に額をつけるような体勢で涙を堪えていると、ソウヤくんが肩を撫でてくれた。視界の四隅がちかちかして、心臓がどきどきする。気持ち悪い。ソウヤくんが看護師さんを呼んでくれて、わたしはそのままソファに体を横たえた。呼吸の仕方がわからなくなってくる。
腕や指先に色んな機具をつけられた。「ゆっくり息をしてね」と微笑む看護師さんの対応を見るに、よくあることなのかもしれない。わたしが横になったことでソファを追いやられてしまったソウヤくんは、手を握ったまま床にぺたりと座り込んでいた。
「ごめん」
「‥‥‥なんであきちゃんが謝るの?」
「わかんない‥‥‥」
「じゃあ、受け取ってあげない」
ぼろぼろと涙が零れてくる。圭ちゃんが死んだあとの三日間で、これから先一生分の涙を流したと思っていた。
もうこれ以上に残酷なことなんて起きないと思ったのに。
「大丈夫だよ」
ソウヤくんはそう言った。
その根拠のない言葉は、この半年間、わたしがマイキーや圭ちゃんに幾度となく掛けた言葉だ。大丈夫だったこともある。大丈夫なんかじゃなかったこともある。
でもそうか。大丈夫だよって、相手のための言葉じゃなくて、自分に言い聞かせて祈るためのおまじないみたいなものなんだ。大丈夫じゃないことを大丈夫にするための。
「だいじょうぶ」
気が遠くなるほど長い夜が明けても、二人は目を覚まさなかった。
「あきちゃん」
コツ、とヒールの踵がリノリウムの床を叩く音がした。
顔を上げると、八戒くんの隣に柚葉ちゃんが立っていた。
「ずっと起きっぱでしょ。ここはアタシらに任せて、一旦帰りな」
「‥‥‥、どこに‥‥‥?」
柚葉ちゃんが困るとわかっていても、つぶやかずにはいられなかった。
どこに帰ればよいのだろう。こんな、いつ誰が襲ってくるかもわからない身で。三ツ谷くんまで巻き込んで、どの面下げて、どこに帰ればよいというのだ。
「わ、わかってたのに、わたし、三ツ谷くんも狙われるかもってわかってたのに」
「あきちゃん。バイク三台もいたんだよ。どう考えてもオレらを狙ってた」
八戒くんが大きな体を折ってわたしの正面にしゃがみ込む。
わたしの両肩に手を置き、がくんと揺さぶった。
「でも三ツ谷くんわたしのこと庇って」
「たまたま道路側にあきちゃんがいただけだ。タカちゃんなら、そこに居たのがオレでもアングリーでも庇うに決まってる」
「そんなの、そうかもしれないけど、でも」
初めて八戒くんと交わすまともな会話がこんな内容なら、一生話してくれないままでよかったのに。
柚葉ちゃんがわたしの前にしゃがみ込み、両腕を回してぐっと抱き寄せてくれた。ふわっとした髪の毛が頬に触れる。すべすべの首筋に鼻先が触れる。
「つらいね。あき」
「‥‥‥いたい‥‥‥、柚葉ちゃん」
「大丈夫。うちの兄貴とケンカして生きてる三ツ谷が、鉄パイプでぶっ叩かれたくらいで死ぬわけない」
「でも、真一郎くんや圭ちゃんは死んだよ」
「大丈夫!! あきがこうやって自分責めるって三ツ谷絶対わかってんだから、絶対戻ってくる!!」
ぎゅっと痛いくらい抱きしめられて、そこでようやく、わたしは四肢の感覚を取り戻した。
うー、と唸りながら柚葉ちゃんの細い体に縋りつく。
「だから、とりあえずウチ来な。で、ごはん食べて着替えて。服は貸すから、それからまた病院来よう。八戒あとよろしく」
「で、でも、わたしといたら柚葉ちゃんまで」
「タクシーで帰るからヘーキヘーキ!」
「柚葉こう見えてけっこう強えーからさ、あきちゃん」
彼女に腕を引っ張られながら立ち上がった拍子に、ずっとソウヤくんとつないでいた手がぴんと張り詰める。あ、と振り返ると、ソウヤくんは顔を上げてうなずいた。
「オレはへーき。あきちゃんのほうが死にそうな顔してるよ」
「ホントそれな。あの二人がこんな簡単にくたばるワケねーって」
歩きだした一歩目がふらついた。ずっと座っていたせいだ。
「あ‥‥‥、ねぇ、マイキーはなんて‥‥‥?」
「うん。オレらは病院についてて、目ぇ覚ましたらゼッテェ抗争に参加したがる二人を止める役だってさ」
想像に容易い。
「ア〜〜」ってガラの悪い笑みを浮かべた三ツ谷くんが立ち上がって、「アイツら人の頭ボカスカ殴りやがって。ゼッテェ殺す」って拳を握りしめるのが目に浮かぶ。三ツ谷くん、お兄さんっぽく見えてやっぱり喧嘩上等な不良だから。
ナホくんもそう。ニコニコしながら青筋浮かべて「カチコミ行くぞゴルァ」って怒鳴りそう。
その二人を必死に止める八戒くんとソウヤくんまで想像できた。
マイキーさすが、よくわかってる。
「‥‥‥わたしも?」
「当然だろ!」と、答えたのはなぜか柚葉ちゃんだった。
「あきが泣いて止めりゃ二人とも絶対逆らえないって。アンタは病院が適役」
「「確かに」」
「‥‥‥‥」
た、確かに。なんか納得してしまった。
てきぱきと動き出した柚葉ちゃんに病院から連れ出されて、待機していたタクシーに乗り込み柴家へと向かう。柚葉ちゃんはずっと手をつないでいてくれた。ソウヤくんも一晩中そうしてくれていたことを思い出して、自分の不甲斐なさに居た堪れなくなる。
誰に導かれなくても、しゃんとしていられる人になりたい。
いつもみんなに庇われている。
柚葉ちゃんの手の温度を感じているうちに、気持ちはいつの間にか落ち着いていた。
三ツ谷くんやナホくんのことを思うと、当たり前に不安だ。
だけどわたしが不安がったって二人が目を覚ますわけじゃない。
ずっと昔から耳にたこができるくらい聞かされていた。仲間とか見捨てるとか考えずに、とにかく無傷で逃げるのがあきの勝利条件だ、と。ひいてはわたしの勝利が、マイキーやみんなの安堵にもつながるのだと。
わたしはずっと平和な顔してなくちゃいけない。
世界のはじまりの日、圭ちゃんがそう言ったから。
柴家でシャワーを借り、軽食でお腹を満たしたあと、ベッドに横になる。もとはお兄さんのお部屋だったけれど、聖夜決戦のあと出ていったので今は客間になっているそうだ。歴代最恐最悪だった黒龍十代目のベッドというえらいもんをお借りしていると気づいたときはゾッとしたけれど、疲労と眠気が打ち克つことはなかった。
「なんかあったらすぐ起こすから、しばらく寝てな」
「‥‥‥うん。マイキーに柚葉ちゃんの家にいるってメールしてから」
携帯電話を取り出してぽちぽちとメールを作成する。マイキーに送信したあと、お母さんにもメールしておいた。事故のことは、とてもとても言えなかった。
「柚葉ちゃん、ごめんね」
「なにがよ」
「ありがとう。柚葉ちゃんが来てくれてよかった」
「‥‥‥いーから寝な」
ちょっと頬を赤くした彼女がぷいっと横を向く。照れてる、かわいい。
三時間ほどの仮眠のあと、再びタクシーに乗って病院へ向かう。三ツ谷くんとソウヤくんは、意識こそ戻らないものの容態は安定していて、ひとまず集中治療室から大部屋に移ったということだった。
マイキーからメールの返事はきていなかった。
お母さんからは、了解の意と、家に兄は帰っていないという旨のメールがきていた。
五時間前にあとにしたばかりの病院が見えてきた頃、手のなかに握りしめていた携帯がぴかぴか光る。
公衆電話からの着信だ。
「‥‥‥公衆電話?」
どく、と心臓が跳ねる。
まさか、兄だったりは、しないだろうか。
いや、東卍の誰かかも。目と鼻の先の病院から八戒くんやソウヤくんがかけているのかもしれない。とりあえず出てみないことには。
「も‥‥‥もしもし」
『あの、あきちゃんですか。タケミチです』
「なんだ、タケミっちか。びっくりした」
柚葉ちゃんがこっちを向いた。
『あの、連絡が遅くなって‥‥‥オレあきちゃんの番号知らなくて』
‥‥‥なに?
なんでこんなに静かなの。
タケミっち、公衆電話って、どこから掛けてきてるの。
『いまから言う病院に来てもらえませんか』
「なに‥‥‥? なんなの」
『すみません。───エマちゃんが』
タクシーが、病院前のロータリーに停車した。
携帯を耳に当てたまま絶句するわたしに代わって柚葉ちゃんがお金を払っている。
「いま、なんて」
『すみません。‥‥‥すみません』
「うそでしょ?」
「あき?」車を降りた柚葉ちゃんが、いつまで経っても動かないわたしを振り返った。
彼女を見上げたわたしは、きっと、いままで生きてきたなかで一番情けない顔をしていた。
「ゴメン、柚葉ちゃん、三ツ谷くんたちのことお願いしていい」
「なんかあったんだね?」
「マイキーのところ、行かないと」
寒気がする。指先が痺れて、息の仕方もわからなくなった。全身がたがた震えながら携帯電話を閉じると、彼女は「わかった」とうなずいてわたしの手を強く握る。
「しっかりしろ。こっちは任せな」
「ありがとう。‥‥‥ありがとう」
柚葉ちゃんが一歩下がる。「どうするの?」と訊ねてきた運転手さんに、阿佐ヶ谷へお願いしますと答えた。