二〇〇五年、八月十四日。


 この日はお母さんに車を出してもらい、ドラケンくんが入院している病院へと向かった。
 事件から十日ほど経つが術後の経過もよく、順調に回復中らしい。「見る?」って笑いながらぺろんとシャツをめくってくれたけどさすがに直視できなかった。

 次に向かったのは、町中にぽかりと佇む墓地の前。近くのコンビニで待ってるねと去っていく車を見送り、一人ぽてぽてと目的のお墓を訪ねる。
 佐野家のお墓。
 午前中には三回忌の法事があったはずだ。そのあとも絶え間なく手を合わせにくる人がいるのだろう、香炉にはお線香の燃え滓がたくさん残っていた。
 カバンの中から、持参したお線香を取り出す。
 お父さんからライターも借りた。使い方は、真一郎くんが煙草を吸い始めた頃に教えてもらった。


第一章
星の剥片の墓標、01




 真一郎くんは、マイキーの十歳年上のお兄ちゃん。
 二年前の今日、真一郎くんのバイク屋さんに忍び込んだ中学生によって、頭部を殴打され亡くなった。
 即死だった。

 わたしは事件のことを夕方のニュースで知った。都内バイク屋。少年二人が侵入。一人死亡。佐野真一郎さん二十三歳。
 こんな状況だから佐野家も連絡どころじゃないだろうと、わたしはまず圭ちゃんに電話をかけた。つながらなかった。次にかけたドラケンくんも、そのときはまだ何も知らなかった。アジトに集合したのは、ドラケンくんと三ツ谷くんとパーちんだけ。

 ようやくマイキーと話すことができて、圭ちゃんが、真一郎くんのバイク屋さんに侵入した少年二人の片割れだということを聞いたときの、足元が瓦解してゆくような恐怖、


 そして真一郎くんを殺した人の名前を聞いたときの、世界が終わるような絶望。


 あの夏の記憶はあまりない。
 ただ、ほとぼりが冷めてから、圭ちゃんは泣きながらわたしに謝った。


「裏切ってごめん」、と。


 あきは“法”だ。そう定めたのは圭ちゃんだった。
 脳裡に浮かんだわたしの平和な顔。お店からバイクを盗んでマイキーにプレゼントなんて、“法”が是とするはずがない。マイキーだって喜ぶとは思えない。
 それなのに目を逸らした。
 マイキーがずっとほしがっていたバイク。
 店先に展示されていたその駆体を乗りこなすマイキーを想像してしまった。格好いいだろうなと、思ってしまった。世間より法律より誰よりあきが許すわけないと、誰よりも解っていたのに、と。

「もう二度と裏切らないから‥‥‥」

 夕陽の射すわたしの部屋で、ふたりきり。
 テーブルの上でぬるくなっていく飲み物を横目に、床に手をついて深く項垂れた彼は、わたしの膝に顔を埋めて体を震わせる。真っ白になるまで握りしめられた拳から、ぽたりと血が垂れて、お気に入りのカーペットに滲みを作った。

 あまりに苦しそうな圭ちゃんを赦さずにはいられなかった。
 小さい頃から真一郎くんに憧れていたのは圭ちゃんだって一緒だ。
 幾度、引き返せなかった自分を呪ったのだろう。自分の選択が真一郎くんの死を引き起こしたその悪夢に一体何度苛まれたのか。

 あまりにも罪深い。
 あまりにも。

「わかった」

 子どもの頃から一緒だった。圭ちゃんのいいところも悪いところも知っている。仲間想いで情に篤くてケンカが強い一方で、キレたら何をやらかすかわからない。他人の車に火をつけたときはさすがに引いた。入学早々に問題を起こして転校したと聞いたときも心の底から呆れた。それでもケロリとしていた彼が、今、わたしの膝で泣いている。

 はじめて場地圭介という男が弱く頼りなく思えた。
 自分の罪に怯えるその体を、世界から隠すように抱きしめる。


 同情の余地はない。どう考えたって圭ちゃんが悪い。
 だけどマイキーが許そうとしているこの人を、どうしてわたしが赦さずにいられようか。


「もう二度と、“わたし”を裏切らないで」


▲ ▽ ▲



 お線香の煙が、夏の青天に吸い込まれていく。

「真一郎くん‥‥‥」

 かっこいい人だった。
 真一郎くんがこんなにも早く逝ってしまうだなんて、誰も想定していなかった。
 だけど真一郎くんは死んだ。
 人は、死ぬときは死ぬ。痛いほど知っているはずなのに、わたしはあのとき、マイキーにかける言葉を間違えた。
 ドラケンくんなら大丈夫、なんてこれっぽっちも根拠のない言葉。


 真一郎くんさえ頭部への一撃で死んでしまったこの世界で、あの人なら大丈夫この人なら大丈夫なんて薄っぺらい励まし、なんの意味も持たないのにね。


 わたしが手を合わせてしばらくすると、ざり、と砂利を踏む音が聴こえた。
 見上げると金髪の男の子が立っている。わたしより少し年上のように見えるけど、真一郎くんよりは年下だろう。左目を覆う大きな傷痕が痛々しく、どこか傷ついたような顔つきの、物憂げな人だった。
 こんな夕方に誰かと鉢合わせするとは。

「ごめんなさい。どうぞ」
「‥‥‥どうも」

 長いことしゃがみ込んでいたせいで脚が痺れてしまった。よろよろと後退って場所を開けると、その人はお墓をじっと見つめて、ズボンのポケットからお線香を取り出す。
 人のお参りを眺めるのも無粋だし帰ろうと思ったのだけど、無理、まだ歩けない。なんとか立ち上がって脹脛をさすっていたら、彼はフとこちらに顔を向けた。

「‥‥‥妹か?」
「あ、いえ。真一郎くんに昔よく遊んでもらった近所の‥‥‥知り合いです」

 彼は目だけで相槌を打つと、ライターのやすりに親指を当てた。
 何度かカシカシと音がしたけれど、火がつかない。オイルが切れているのかな。カバンの中のライターを取って火を差し出すと、彼は無言でお線香の先に火を当てた。

「真一郎くんが、煙草を吸い始めたときに」

 じりじりと、緑色の線香の先に灯りがともっていく。

「ライターの使い方を教えてもらったんです。真一郎くんが煙草に火をつけたり、指に挟んだりしていた仕草がかっこよくて。『二十歳になるまで絶対吸うな、つーかなっても吸うな』って言われましたけどね」

 あのときの真一郎くん、怖かったな。
 マイキーや圭ちゃんが不良の真似事をしても「そーか」って笑ってたけど、わたしが真似しようとすると怒られた。多分、よその家の女の子だから気を遣ってくれていたのだろう。そんな数少ない真一郎くん直伝の『不良の心得』のうち一つがライターだった、理由は『もし何かあったときに使えて損はねえ』から。

 懐かしい記憶を反芻しながらライターを仕舞って、「それじゃ」と会釈する。
 その拍子に彼の足元が目に入った。ラフな服装にはかなり不釣り合いな、ハイヒールのサンダルを引っ掛けている。

 ‥‥‥オネエさん? それともおしゃれ?

 真一郎くんのお友達にはいろんな人がいるんだなぁと、そんなことを考えながら墓地を出た。
 お母さんの待つコンビニで車に乗り込み、今度は佐野家の前で降ろしてもらう。スーパーに用事があるお母さんと別れて、真一郎くんへのお供えに持たされた菓子箱を手に、立派な門扉のインターホンを鳴らした。
 応答したのはマイキーだった。

「マイキー、こんにちは。あきです」
『玄関開いてっから入ってー』

 勝手知ったる佐野家のおうち。門をくぐって母屋の戸を開けると、涼しそうな格好のマイキーとエマちゃんが出迎えてくれた。

「あきちゃん、暑かったでしょー!」
「うん、今日暑かったねー。忙しいとこ悪いんだけど、真一郎くんにあいさつしてってもいい? これ成瀬家から」
「ありがと! ウチ飲み物用意してくるからマイキーと行っといて」
「はーい。あっ、おじいちゃんこんにちは。お邪魔します!」

 ひょこっと居間から顔を覗かせたおじいちゃんは「おう」と手を振ってくれた。
 すっかり構造を知り尽くした佐野家の母屋を進み、仏間の襖を開ける。お仏壇の周りには、親戚関係や真一郎くんのお友達、東卍関係から届いたお花やお供えが並べてあった。
 成瀬家のお菓子も隅っこに置いて、お線香を立て、お鈴を鳴らす。

 高く響いたお鈴の音が消えていくまで、わたしはお仏壇に飾られた真一郎くんの笑顔をじっと見つめていた。


 二年、早かったな。


「墓も行ってきた?」

 やがて座卓に頬杖をついているマイキーが話しかけてきたので、仏壇の前から下がる。

「うん。お母さんに連れてってもらった」
「そっか」

 その後エマちゃんの持ってきてくれた麦茶と、お供え物をばりっと開けてマイキーが選んでくれたどら焼きをいただき、早々に佐野家を辞去した。
 まだ明るいしご近所だし、一人で帰ろうと思っていたけれど、マイキーは家まで一緒に行くとサンダルを引っ掛ける。この暑いのに、わざわざ送ってくれなくても大丈夫なのにな。

「そういえば、明後日からおばあちゃんち行ってくるね」
「ウン。行ってらっしゃい」
「お父さんがね、また佐野家の都合のいいときにバーベキューしようねって言ってたよ」
「やった。エマに言っとく」
「ドラケンくん早く退院できるといいねぇ」
「ケンチンいないとつまんねぇからなー」

 普段と変わらないテンションで相槌を打つマイキー。
 ゆっくりと、わざと遠回りで家に帰ろうとするわたしに、何も言わずにつきあってくれる横顔。
 わたしがじっと顔を見上げていることに気づいて、彼は視線をこちらに寄越した。

「‥‥‥なに?」
「んーん、なんでもない」

 真一郎くんが亡くなって、二年。
 中学生のわたしたちの体はあのときよりも成長したけれど、心の傷をやり過ごす方法はまだ知らない。
 大好きな真一郎くんを喪った穴を埋める方法なんて、学校の先生は誰も教えてくれないから。

 腐れ縁とか幼なじみとか、“法”とか“彼女”とか。
 そんなこれっぽっちも役に立たない立場なんて要らないから、今すぐマイキーの心の空白を消してしまえる魔法がほしいな。

 夏の夕焼けを湛えてだいだい色に輝くマイキーの金髪が眩しくて、涙が滲んだ。
 彼はそんなわたしに困ったような顔になって、でも、何も言わなかった。


前へ - 表紙 - 次へ