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ふたりのあした
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「あ」という声に意識より先に反応して振り返ると、制服に着替えた英がちょこんと俺のシャツの裾を掴んでいた。
こてりと首を傾げて見上げてくる。
だからそれ可愛いからやめろっていってんのに。こいつ言うこと聞きやしねぇ。
「ねぇ、明日空いてる?」
しんっ、と周りが静まり返る。
これくらいの誘い文句いい加減に慣れて流せよお前ら――と思いながら「空いてるけど」と答えると、英は「えへ」とにっこり笑った。長い髪の毛がさらりと揺れて、ふわっとシャンプーの匂いがする。練習終わりなのに何でこんないい匂いするんだろうなぁこいつ……。
「じゃあお出かけしよ」
「いいけど……買いものか? 映画?」
「お買いもの!」
後ろの方から「おでかけ……」「おかいもの……」という、降谷と小湊の微笑ましげな呟きが聞こえてきた。
わかるわかる、上品で優しくて可愛いよな。本屋も「本屋さん」だし花屋も「お花屋さん」だぞ、こいつの場合。多分大人になってもこうなんじゃねーかな。いつまで経ってもこのままでいそうだ。
三月上旬。まだまだ肌寒い日が続いているが、今日は気温が上がるらしい。
「キャプテーン、お土産待ってるぜー」
「あ、俺シャーペンの芯と消しゴム切れそうなんだった。ついでに買ってきてくれ」
「あ、ホワイトデーのマネたちのお返しもついでに買って来いキャプテン」
「いやそれはマズイやろ! 忘れとったわ、今日行くで!」
「御幸以外のみんなからお返しって言ってやろうぜ」
寮を出るまでに散々絡まれたものの、なんとか迎え時間の十五分前には出発できた。
英と出掛ける時は、目一杯おめかししたあいつの隣を歩くのだと考えて前日から憂鬱になる。自分の顔面に関しては悪くないと自覚しているし嫌いじゃないけど、いかんせん英の破壊力が高すぎるんだよな。
マンションの前に到着したら彼女はすでにエントランスで待っていた。
ぱっと顔を上げて俺に気付くと、駆け足で近寄ってくる。
「おはよう」
「おはようございます。今日はありがとう」
「いーよ、完吾兄ちゃんのプレゼントだろ?」
「えへへ」と肯く英は、さらっとした素材の春めいたワンピースに身を包んでいた。髪の毛もくるくるだしほんのり化粧もしているらしい。足元が可愛らしいヒールだったので腕を差しだすと、至極当然のようにその白い手が回される。
いつだったかこの光景を同期に目撃されて「キザ」「マジかよ」「なにエスコートしてんだよ」と散々言われたことを思い出した。
が、幼少の頃から完吾兄ちゃんに叩き込まれたレディファーストは骨の髄まで滲み込んでしまっている。
ちなみに完吾兄ちゃんの誕生日は四月の頭だ。
「今年は何にすんの」
「ん〜……そろそろネタ切れなのよね」
「そりゃそーだ」
「あの人なんでも喜ぶから逆に困るの。一也の成長アルバムでも喜ぶよね」
「…………」
あんまり強くは否定できないな。
英の写真の方が勿論喜ぶと思うけど、あの人は俺のことも本当の弟みたいに扱ってくれるから、きっと英が自分のためにアルバムを作成してくれたことそれ自体や俺の成長を嬉しく思ってくれるだろう。
本当にいい兄ちゃんだ。
「いいんじゃねーの、俺と英の成長アルバムで」
「でもそれじゃ、今から江戸川に帰って写真選ばなきゃ」
くすくす笑う英を、通りすがる男性が横目に一瞥していく。気持ちはわかる。
最寄り駅に辿りついたので券売機でまとめて切符を購入した。二人で出掛ける時は行きが俺、帰りが英、たまに逆にもなるがとにかく二人分をまとめて買うのが通例になっている。
さすがに今から江戸川に帰る気にはなれないので、適当に近場のショッピングモールへ行くことにした。
「あ、プリクラ撮って一緒に入れてあげよっと」
「プリクラ……? やだよ、普通に写真じゃ駄目なのかよ」
「撮ろうよ、ね、お願いっ」
「おいお前ずりーぞそれ」
回した腕をぎゅーっと抱きしめて顔を覗き込んでくる幼なじみから顔を逸らしているうちに電車が来たので、半ば引きずりながら乗り込んだ。
ちょうど二人分空いていたので並んで座る。こうやって出掛けるのは、完吾兄ちゃんと休みが被ったあの日以来だな。よく見ると英の首元には俺がクリスマスにあげたネックレス。
なんだか照れくさくなったので顔を逸らす。
「ふふ」
隣で携帯を見ていた英が笑いながら「これ見て、沢村くんから」と画面を見せてきた。
『キャップとのデート楽しんできてください!!!!』と、沢村・降谷・小湊の三人組の写真が添付されている。
ひとしきり写真を見つめて、まるで愛しい我が子でも眺めるような甘やかな目つきになった彼女は、やがて携帯を閉じて車窓に流れてゆく景色へと視線をやった。
「卒業しちゃったね」
「……そりゃするだろ」
自分でも捻くれた物言いだと思うけど、そういう風に育ってしまったのだから仕方ない。英は大した反応も見せずに少し笑っただけだった。
「寂しいなぁ」
「お前、亮さんとか純さんとか懐いてたもんな」
「うん。三年生みんな好き」
「増子さんにはよくプリンもらってたな。クリス先輩にも可愛がってもらってたし」
「羨ましい?」
「べつに」
悪戯っぽく笑った英がこちらを見ると同時に電車がゆっくりとホームに停まる。
混雑してきた車内を何気なく見渡した彼女が急に席を立ったので、ぼんやりしながらその後ろ姿を見送ると、なにやら老夫婦に声を掛けにいったらしかった。
あーはい、そういうことね。
夫婦を誘導してきた英が近くまで来たので立ち上がると、「ごめんなさいね」と杖をついたおばあさんが笑い、彼女を支えるように背中に手を当てているおじいさんが「ありがとう」と頭を下げる。
英は満面の笑みを振りまいて「いえ」と胸の前で両手を振った。
「すぐ降りますから! ね」
「ん? ああ、はい、気にしないでください」
ね、と向けられたので適当な相槌で同意すると、英は俺の腕を引いて歩き出し、席から離れたところで吊り革を握る。
「……お前そういうの本当すんなりやるよな」
「え、すんなりに見える? よかった」
胸を押さえて照れたような顔になった英の声はちょっとだけ震えていた。
「色々考えちゃうよねぇ。余計なお世話だったらどうしようとか、断られたらちょっと恥ずかしいなとか、逆に気を遣わせないかなとか……緊張するわ」
「恥ずかしいの意味がわかんねーけどな」
「わたしもわからないけど」
電車がごとりと揺れる。咄嗟に英の背中側に手を回すが、俺の心配をよそに彼女は一切ぐらつかなかった。
「ありがと」
「……いーえ、余計なお世話でしたね」
なんか「断られたらちょっと恥ずかしい」の意味がわかった気がする。
そういえば昔からこうだった。空手のおかげで体幹がしっかりしているとかなんとか。
頼もしい幼なじみだ全く……。