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「ね、かずくん。お散歩行こうよ」
「散歩?」

 その日は朝から雨が降っていた。
 練習は休み。キャッチボールもできない。帰宅してからは引きこもってミットの手入れをしていたのだが、夕方になって顔を出した幼なじみにつられて外へ出ることになった。

 俺の家の玄関を出て、かんかんと踵を鳴らしながら階段を下り、ぽんっと楽しそうに傘を差す。
 にこにこしながら傘を傾けてくるので、持ってきた自分の傘は階段の手すりに掛けて、水玉模様のそれの下に入り込んだ。
 持ち手を交代しながら首を傾げる。

「どこ行くんだよ」
「お花見」
「雨なのに?」
「もう止むよ」

 確かに昼間に比べれば雨脚は弱まっていたし、今にも止みそうな感じではあったが、足元はぐずぐずだ。水溜まりを踏まないように避けながら、二人でのんびりと歩いていく。
 連れてこられたのは近所の桜並木の通りだった。
 昨日までは満開だった桜が今日の雨でじっとりと項垂れ、足元には踏まれて濡れてちょっと無残なことになった花弁がじゅうたんみたいに敷き詰められている。雨さえ降らなければきれいだったろうにな。

 彼女は俺の手から傘を抜き取り、静かに閉じる。
 いつの間にか雨は上がっていた。

「ねぇ見て、かずくん。後ろ」
「ん?」

 目元を緩めて優しい表情になった英が背後を指さすので振り返る。
 太陽にかかっていた雲が僅かに切れて、その隙間から零れ落ちた夕焼けが、まるで光の柱みたいにいくつも遠くの街並みへ降り注いでいた。

「天使の梯子っていうんだよ、あれ」
「へえ……」
「きれいだね」

 これが見たくて散歩へ行こうなんて言い出したのかな、となんとなく思った。

 微笑んだまま、幼なじみは天使の梯子を見つめている。ゆっくりと雲が流れて梯子がきらきらと揺れる様を、微動だにせず。

 やがて雲が晴れて、鮮やかな夕焼けが街を染めるまで。

「……それでは足元をご覧ください」
「は?」

 ついついっと服の裾を引っ張られたので今度は視線を落とす。
 先程踏まないようにと避けた水溜まりが、すっかり雲の消え去った空を映してきらめいていた。
 水面に浮かんだ花びらが僅かに吹き抜けた生温い風に揺れる。

「雨が降らないと見れなかったよね」
「……お前はきれいなものを探すのが上手いよな、ほんと」

 彼女と一緒にいた時間の中で、一体どれほどこうやって美しいものを与えられたかわからない。
 俺一人では見ようともしないはずのきれいなものを、息をするように愛でることのできる英が、なんだかとても尊いもののように思えた。



「舞い落ちる桜の花びらを掴めたらお願い事が叶うらしいよ」

 またこいつは変なこと言い出した。
 呆れ半ばに「へえ」と答えたものの、あの雨のお花見からちょうど三年、高校二年生を迎えた彼女は俺などそっちのけで桜並木へ突撃していく。
 こいつの住むマンションのすぐ近く、川沿いの桜並木。
 今日の天気は晴れ。

 程よく吹き抜ける春の風に、ひらひらと桜の花びらが舞う。
 練習終わりで制服姿の彼女がその中をくるくると駆け回っているのを眺めながら、なんとなく俺も手を伸ばしてみた。意外と難しい。

「……掴めたとして、何を願うわけ?」
「んー? なんだろう。春が憂鬱じゃなくなりますように、とかかな」
「憂鬱なのか? いつも張り切ってお花見お花見って言ってんのに」
「うん」

 この時期は兄妹揃って誕生日があるし、新しい年度になって色々と出会いも増えるから、こいつはいつもにこにこしている印象だった。
 満開の桜の木を見上げた彼女の横顔を見る。
 何を考えているのかわかりにくい、少しだけ落ち込んだような表情だった。

「春の風に吹かれたり、暖かな日差しを浴びたりすると、こうして今年も春を迎えることができて、自分が当たり前のようにこうやって生きていることが、途轍もなく不思議なことのように思えることがあるの」
「…………」
「だから少し、憂鬱になる」

 何度目かの挑戦。
 手のひらを開くと、花びらが二枚顔を出した。ちょっと潰れているがまあいいだろう。彼女の小さな手に一枚握らせると目を丸くした。

「はい、じゃあ、お前の春が憂鬱じゃなくなりますように。二人分だな」
「……かずくんすごい」
「キャッチャーなめんな」

 ニッと口角を上げて笑うと英も口元を綻ばせた。手の中の花びらたった一枚、世界で一番尊いもののように握りしめると、今度は微笑んで桜を見上げる。
 不意に強い風が吹いて、ざあっと花びらが落ちてきた。髪の毛やスカートをはためかせた彼女に薄桃色の花弁が何枚もひっついている。
「びっくりした」と目を白黒させながら髪を撫でつけた英は三たび桜を見て、それから俺に視線を向けた。

「きれいだね」

 三年前一緒に見た天使の梯子を思い出した。夕焼け。水溜まりに映る空。水面に揺れる花びら。雨に濡れて項垂れた桜の木、踏まれて濡れてちょっと無残な花びらのじゅうたん。
 目の前の女の子。
 満開の桜。
 お前の目にはきっと、そういう感性をあんまり持ち合わせていない俺の、何倍ものきれいなものが見えているんだろう。

「きれいだな」

 そんなきれいなものを俺にも見せようとしてくれるお前が一緒なら、多分これから先、世界の何もかもが俺にとっても美しい。

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2018/04/01〜2018/04/30 拍手御礼文でした。中学二年春→高校二年春のお話です。