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「ただいま!」
「おかえり〜」

 律儀にもインターホンをひとつ鳴らしてから帰宅の挨拶をするかずくんを、ソファに寝転がったまま迎え入れる。
 最近はまっている小説を読んでいるわたしを、背凭れの方からひょっこりと覗き込むと、彼はわたしに構わずソファに座ってきた。

「ちょっと英、脚邪魔」
「あっ、なにもう、掴まないでよ」

 投げ出してある脚を掴んで折り畳まれた。今日はスウェットを穿いていたから構わないけど、この人は多分スカートでも同じことをしてくるので油断ならない。

あいかわらず幸せを願ってる


 小学校高学年になると、かずくんは自分である程度の家事をこなすようになっていた。
 彼を一人娘と同じくらい可愛がっているうちの母は残念がったが、おじさんの仕事の繁忙期や納期の近くは頻繁に一人ご飯になるので、中学に上がった今でもこうして夕飯を食べに来ることも少なくない。

 ちらり、小説の隙間からかずくんの横顔を見る。
 物心もつく前から一緒にいたのでいい加減見慣れてはいるが、何年経ってもわたしはこの人の横顔が好きだった。さすがにまだ中学二年生だし、他の男の子より小さいからあどけなく見えるけど、これから先しっかりと格好よく育っていくことを知っている。

 ……そう、知っている。

 およそ「前世」といわれる記憶をそのまま引き継いで生まれてしまったわたしは、何歳の頃のことだかすっかり忘れたけれど、目の前にいる幼なじみの名前が『御幸一也』であることに突如気が付いた。
 気が付いた、というか――目の前の幼なじみと、『御幸一也』という名前、そして前世で涙を流しながら読んだ野球漫画の記憶が結びついた、というべきだろう。

 だからといってどうということもなく、いささか距離の近すぎる幼なじみとして今まで生きてきたわたしだが、将来有望なこの子の未来に想いを馳せてたまに深い溜め息をつきたくなってしまうのだった。

 ま、かずくん自身は楽しく野球をやっているわけだから問題ないんだけど。
 もう数えて十何年も前に読んだ物語の詳細など憶えていやしない。いっときはわたしのバイブルであったような物語だから、大事な試合の勝敗や主要な登場人物は記憶に残っているけれど、思い出せないことの方が多いもので、いつしかそのことについて気にするのはやめてしまった。

「なんだよ、じろじろ見て」
「……あら、ばれてた」
「ばれてないとでも思ってたのか」

 かずくんがじと目でこちらを睨んできた。

「……ねぇ、あれやった? 将来の夢の宿題」
「あーあの、将来の夢とそれになるために必要な勉強……的な」
「そうそれ」

 リビングのテーブルに広げたその宿題を一瞥して溜め息をつくと、ソファから下りたかずくんは覗き込んで「真っ白じゃん」と振り返ってくる。

 そう、真っ白なのだ。
 わたしは前世で社会経験があるゆえに、現実の厳しさを同級生よりも少しだけリアルに知っている。自分にどんな適性があり、何に向いていないのかもなんとなく知っている。
 おかげさまで、先生に求められている『将来の夢』がさっぱり思い浮かばなかった。

「かずくんはプロ野球選手?」
「いやー、どうだろうな。御幸スチール工場長でもいいんだけどな〜」
「その手があったかー」

 今のところこの子は目の前の野球に夢中で、「プロ野球選手!」とか「メジャーリーガー!」とか言ったことは一度もない。
 ついでに「甲子園に行きたい」という言葉も、聞いたことがなかった。

「適当でいいじゃねーかそんなの。お嫁さんとか」
「えっ、かずくんの?」
「いや将来の夢『御幸一也のお嫁さん』とか書いてみろお前、先生ビックリだぞ」
「ちょっとした冗談じゃないの」

 小説を閉じてかずくんの隣に腰を下ろすと、まっさらなプリントにとりあえず名前だけ書いておく。
 将来の夢と、それを目指す理由、なるために必要な資格、そのための勉強。
 ぼんやりと高校以降の進路を考えさせる目的があるのだろうけれど、将来の夢を突然書かせるよりももっと先に、世の中がどんな仕事で回っているかを教える方が大事だと思うけどな。

「……お嫁さんかぁ」

 自分が誰か、男の人の隣で幸せになっているところは、あんまり想像できない。
 隣の男性にかずくんの顔を置いてみても、残念ながらしっくりこない。

「え、マジで書く?」
「お嫁さんはともかく、『お母さん』はいいかもね。素敵なお母さんになるために必要な資格……は特にないけど、よい家庭を築くことのできる相手と結婚するために相応な教養と生活力を身に着ける必要がある……的な?」
「料理、掃除、洗濯、買い物その他毎日の家事を効率よく回すために前以て段取りをつけておく計画性を身に着ける必要がある、的な」
「あーいいかも、これでいこう」
「マジで」

 そういえば小学生の頃、習字の時間に将来の夢を書かされたことがあった。
 あの時もうんうん悩みながら、特に目指してもいないけど『花屋』と書いた気がする。『会社員』と書いた男の子が先生に注意されていたのが不憫だったことを思い出した。

「でも、英はいいお母さんになるんだろうなぁ」

 将来の夢の欄に『お母さん』と書き始めたわたしを、頬杖をついて眺めながら、かずくんはなんでもないことのように呟く。

 お母さん。
 かずくんには、もういない存在。

「英はちゃんと、いいお母さんになって可愛いおばーちゃんになって、ひ孫に囲まれながら笑って死ねよ」
「……もう、そういうこと言わないで……」

 シャーペンを置いて彼に抱きつくと、笑いながらこめかみを擦り合わせてくる。
 頭を撫でれば首筋に顔を埋めてきた。少しだけ浅い呼吸がかかってくすぐったい。

「かずくんだって、素敵な女の子つかまえていいお父さんお母さんになって、仲のいいおじいちゃんおばあちゃんになって、奥さん残して先に死なないとだめよ」
「うん。……そうする」

 たまにこうやって遠まわしに「寂しい」って言ってくるから、この人の隣にいると気が抜けないんだ。



 気を取り直して、ノートパソコン片手に真剣に『お母さん』になるうえで必要なものを調べながら宿題をしていると、いつの間にか自宅からプリントを持ってきたかずくんも隣に並んでいた。

 大真面目な顔して『御幸スチールの工場長』と書いている彼の横顔を眺めつつ、「甲子園とか、プロ野球とか、かずくんそういうの言わないよね」とさりげなく訊いてみる。

「うーん、あんま現実味がないよな、正直」
「でも、青道からスカウト来たでしょ。お兄ちゃんというモデルがすぐ傍にいるのに、それでも現実味ない?」
「完吾兄ちゃんは完吾兄ちゃん、俺は俺」

 御幸スチールの工場長を目指すとなると、工業高校へ進学する道も出てくるわけだけど……。
 少々ひやりとしたものを感じつつ、幼なじみの、思っていた以上にシビアに現実を見つめている一面に内心舌を巻いた。

「今は野球が楽しいんだよ。目の前の相手をいかに攻略して打ち取るかって考えて、その通りにことが運べば最高。甲子園もプロも、そうやって相手を倒して勝ち続ければ勝手についてくるもんだろ」
「……勝手についてくるとは大胆な物言いねぇ。死に物狂いで目指している人もいるっていうのに……」

 半ば感心しながら相槌を打つも、彼は当然のことのように首をこてりと傾げる。

「そりゃ、大事にするものの違いだろ。甲子園に行くこと、プロ野球選手になることが大事な人にとっては、大事な将来の夢だよ。俺はただ――勝ちたいだけ」

 眩しいひとだ。
 この宿題が出た時に、宇宙飛行士になりたいとか、総理大臣になりたいとか、キラキラした夢を語っていた同級生たちよりもずっと、御幸スチールの工場長になりたい御幸一也がまばゆい。

 同時に、後ろを振り返ることを懼れているかのような発言に、危うさも感じる。
 その懼れがもし彼のおかあさんの早逝からくるものならば、とても悲しいことだとも思う。

 もっと気負わずに野球を楽しんでくれたら嬉しいな。
 だからやっぱり、御幸スチールの工場長もいいけど、この人には青道高校へ行ってほしい。

「……今週の土日は試合だっけ?」
「ああ、練習試合。なんかよくわかんねぇけど強いとこなんだって」
「かずくんって、チームの強い弱いってあんまり気にしないよね。江戸川シニアもものすごく強豪ってわけじゃないし」
「強いチームにいたら勝つのが当たり前だろ。そんなん面白くねぇし、強い相手なら戦ってみたい」

 かずくんはけろっとそんなことを言うけれど、面白くないからと言いながら本気で強豪のチームに勝ちに行くこの人は本当に凄い。

 強いチームが勝つのは当たり前、当たり前じゃないチームで勝つのが面白い。そんなことを言えるのは、かずくんがチームを勝たせることができるほどの才能を持つ捕手だからこそだ。
 本当の天才は自分の才能に気付いていない。
 気付いていないから驕りもしないし妥協もしない。

 その姿勢に魅力を感じた人は自然と集まり、嫉妬を抱く人は敵視する。
 だけどこの人には今のところ、そういうのがどうでもいいんだろう。

「……滝川さんには勝てたことないけどね」
「言うなよそれを。次こそ絶対、俺が勝つけどな」
「毎回それ言ってる。ちくしょーこんにゃろーってならないの?」
「ちくしょーもこんにゃろーも毎回思ってるよ。でもあの人が凄いのは本当のことだからな。まー俺は恵まれた体格も元メジャーリーガーのお父さんも持ってないけど、ないものねだったってしょうがねぇし……」

 一度も勝てたことがない相手に対して、嫉妬も羨望も全く抱いていない様子の彼は、清々しいほどはっきりと言い切った。

「だからあの人と正々堂々。俺は俺で戦って、そんで勝ちたい!」

 その横顔を眺めながら、なぁんだ、と心の中で息を吐く。
 御幸スチールの工場長なんて言ったって、やっぱりもう心は決まっているんじゃないか。

「勝てたらいいね」
「心がこもってないなー」
「だってわたし、かずくんが楽しいんなら勝っても負けても嬉しいもの。滝川さんに負けるかずくんはいつもキラキラしてるから、それだけで十分」
「こらこら勝っても負けてもとか言うな」