あなたがあたしを呼ぶ声は こんなにも温かい
母の胎内のように 胸の中のように
春の陽だまりのように 木漏れ日のように

あたしがあなたを呼ぶ声は
空を掻く指先のように 朽ちゆく尺骨のように
凍てつく吐息のように 死に絶えた赤子のように
こんなにも 白々しい


様で何が悪い


第一部、けだものと花




 瀞霊廷の空は今日も青い。

 息抜きがてら書類を届けにやってきた先の九番隊々舎で、ついぴたりと足を止めて空を仰いでしまった。ずっと執務室に籠もっていたせいか、自然光がひどく眩しく感じられて目の奥がぎゅっと痛む。
 冬の空は夏のそれに比べて遠く、高く、薄く伸びた雲は羽根のように気まぐれに漂っていた。

 平和だ。
 平和が一番だ。
 薄ぼんやりとした日差しを浴びながらじわじわとその感慨に染み入っていると、背後から頭を叩かれた。

「なーに余所の隊舎でボケッと突っ立ってんだよ」
「おや、檜佐木」

 振り返ると、同期の檜佐木修兵が呆れたような顔で立っている。
 今日も目つきが悪いなあこいつはと思いながら、腕に抱えていた紙の束を取り出して檜佐木に差し出した。

「丁度よかった。これ回覧の書類と、先日の隊舎破損についての報告書」
「おう、預かる。……だいぶ慣れたか?」

 切れ長の目が少し威圧的な彼は、髪をがしがし掻きながら尋ねてきた。
 書類を手渡しながらきょとんと檜佐木を見つめ、しばし質問の答えを考える。

「……まあ、ぼちぼちかな」
「何かあったら云えよ」
「うん。有難う」

 自分も九番隊の副隊長に着任してから間がなく色々と大変だろうに、あたしのことを気にかけてくれていることは素直に嬉しかった。真央霊術院一回生の頃からの長い付き合いである檜佐木には、それはもう迷惑をかけたものである。

 あたしは先月、辞令を受けた。
 優秀を越えた優秀な死神しか在籍できぬと名高い一番隊、その第七席より――護廷十三隊中最も好戦的で粗野で武闘派、実力第一主義の十一番隊第三席へ。

 至って平和主義のあたしが十一番隊など無理だと、更木隊長怖すぎると、檜佐木を呼び出して泣きながら酒を飲んだのも記憶に新しい。
 そもそもなぜこのような辞令が下ることになったのかというと、ひとえに十一番隊の職務怠慢が原因だった。
 回されるべき書類が回らず、提出されるべき報告書が一枚も提出されない。前々から十一番隊の事務関係はちょっと弱いところがあったものの、隊長・副隊長が現在の二人になってからそれは更に顕著になり、痺れを切らした我らが山本元柳斎重國総隊長は事務要員としてあたしの派遣を決定したのである。

 今月からの異動となり、あたしの階級が十一番隊第三席になると、当然隊士たちからは反発と罵倒の嵐を受けた。女の癖に。ひょろい見た目で。書類をするだけで三席になれるのか。大体がこんなものである。
 しかし(事務仕事をしたくない、或いはやり方がわからない)数名の上位席官たちからはそれなりの歓迎を受け、今のところなんとか十一番隊の三席生活を送っている次第であった。

「寄っていくか? 乱菊さんがお茶菓子くれたけど」
「ううん、いい。こうしている間にも書類が溜まっていくから」
「…………程々にな」

 心配そうな、しかし心配もいらぬと思っているような苦笑の檜佐木に見送られ、殆どあたしの執務室へとなりつつある隊首室へと歩みを向けた。



 隊首室へ戻る前にほんの一筋の希望を込めて執務室を覗いてみたが、案の定ちらほらとほんの数名の隊士が机に着いているだけで、がらんとしていた。
 大体こんな感じだ。
 執務室での書類仕事と道場での修練、そしてその他諸々の雑務は、本来隊士たちの持ち回りで一日にバランスよく回されるべきお仕事だ。
 だというのにここの脳筋――失礼、隊士たちは、出動の指令がない限りは日がな一日道場に籠もっていることが多い。

「お疲れさまです、澤村三席……」
「お疲れさまです、不知火七席。みんな道場ですか」

 うんざりした顔でそう尋ねると、机に向かって仕事をしてくれていた不知火七席がハハハと乾いた笑いを浮かべた。推して知るべし、である。
 ひとまず机の上に乱雑に並ぶ紙の束を整理して分配し、緊急性のある者から呼び出して机に張りつけることとする。ごちゃごちゃの書類の中からあたしがやってもいいようなものは取り出して、一通り目星のついたところで道場へ向かった。

 柄の悪い怒声や罵声が響いている。木刀の打ち合う音と、人の吹っ飛ばされる音。時折吹っ飛んだ隊士が床や壁にぶつかって道場が揺れていた。
 戦闘時ならばともかく、平時にはこういった音を聞くと怯えてしまう小心者なので、ああ道場に入るの嫌だなあと思いつつ入口からひょこっと顔を覗かせた。

 道場の中では、更木剣八隊長が木刀を持って高笑いしていた。

 隊士たちは果敢に向かっていき、千切っては投げられ、千切っては投げられ、たまに道場を破壊している。
 どう声をかけたものかと息を潜めて逡巡していると、更木隊長の背中にぶら下がっていた桃色頭の小さな女の子が、目を輝かせてこちらを見た。

「あ――! あとりちゃんだ――!!」
「おっふぅ! 草鹿副隊長、もっと優しく突っ込んでくださいといつも云っているではないですか」
「どしたの? あとりちゃんも剣ちゃんとお稽古するの!?」
「聞いちゃいねぇこいつ」

 現世でいうところのメジャーリーガーの剛速球さながら突っ込んできた草鹿やちる――こんな幼女でも十一番隊の副隊長――を受け止めると、あたしに気付いた更木隊長が木刀を肩に置いた。

「なんだァ澤村、テメェも戦るか?」
「やりません。急ぎの書類のある隊士を数名帰してください。あと稽古は十六時には終了して机仕事もやらせてくださいよ、いつも通りに書類が滞ってます」
「あーあーウルセェ。好きなの連れて帰れ」
「隊長印がいる書類もあるんですから、判子だけは押しに来てくださいね」

 いそいそと肩によじ登ってきた副隊長はいつものことなので気にもせず、「山下くーん、武田くーん、堀田くーん……」と数名を呼んでいく。
 すぐに来てくれたのは七人中二人だけで、あとは更木隊長にやられて伸びているのが三人、聞こえないふりをしているのが二人。

「澤村先輩、呼んできましょうか」

 声をかけてくれたのは、真央霊術院時代の後輩の阿散井恋次くんだ。
 十一番隊に異動になったあたしに最初から好意的に接してくれた可愛い後輩である。気遣わしげにこちらを見てくる彼の額や体には無数の打ち身や擦り傷があり、更木隊長にこっ酷くやられたのが見て取れた。

「いいよ、大丈夫。いつものことだしねぇ」

 ちゃんと呼びかけに応えてくれた二人である山下と堀田には気絶中の三人の回収を命じて、副隊長を肩から下ろす。

 こうして仕事をしない隊士を無理やり連れ戻すのも慣れたものだ。
 無造作に乱取り中の集団に乱入し、話を聞かない隊士の一人の足を引っかけて転ばせ、もう一人は背後から蹴っ飛ばした。

「うぎゃっ、邪魔すんじゃねーよ!」
「……このクソアマがァ!」

 乱入したのが気に入らなかったのか、複数の隊士が怒声とともに木刀を振り上げてきた。
 相手にしている時間はない。隊士二人の襟首を掴んで瞬歩を閃かせると、入口へひとっ跳びした。
 団子状態でもみくちゃになる有象無象を背に、七人揃った脳筋ども――失礼、隊士たちを引きずってあたしは執務室へと帰還した。

 机にへばりつかせた七名を後ろから見張りつつ、道場からくすねてきた木刀で床を叩きながらうろうろと歩く。
 十一番隊の隊士は、実戦や剣術で勝負したい血の気の多い人たちばかりだ。だからというかなんというか、これでよく霊術院を卒業できたなと思うほど頭の悪い人がたいへん多い。
 頭の悪い人が多いことに比例してかしないでか、字の汚い奴もたいへん多い。
 何枚も書き損じを起こされては困るので、あたしは彼らが字を書くさまをじっと見つめているのだった。

 十六時には机に戻らせろと更木隊長に伝えたというのに、十七時になっても戻ってくる者はない。
 ようやく緊急の書類が書き上がり、へろへろになった隊士たちが嬉々として道場に戻っていくのを眺めてから、あたしは隊首室へ引っ込んだ。
 平隊士の上げる書類は大体が隊内処理なので、更木隊長の机に置いておく。

 十八時前になってようやく更木隊長が隊首室にやってきた。
 ぶっ続けで稽古をしていたのか、珍しくしっとりと汗を掻いている。死覇装の上半身は下ろされていて、死闘のために鍛え上げられた全く無駄のない筋肉が惜しげもなく晒されていた。

 傷だらけの肌が痛々しいうえ、汗ばんだ肌が危険な色香を醸しているので、あたしは無言でそっと視線を逸らす。

「おい、これか」と声をかけられたので目を通して捺印するようお願いすると、チェックもせずにぽんぽんと隊長印・副隊長印・隊印を押していく。しかも汚い。
 さすがに見逃すこともできず、抽斗から手拭を出してから、隊長に詰め寄って判子を取り上げた。
 代わりに手拭を渡す。

「一応目を通してくださいっていつも云ってるじゃないですか!」
「ウルセーな。問題ねェよ」
「問題大ありです!」

 ぎゃんぎゃん文句を云うものの、体格の違いすぎる隊長はあたしの身体をいとも容易く片手で拘束して判子を取り返した。その腕の中で抵抗しているのを難なく抑え込みながら引き続き、判子をぽんぽんぽん。

「隊長、死覇装をちゃんと着てください。あらぬ誤解を受けます。それか放して」
「汗かいてんだよ」
「知ってますよ珍しいですね! あたしも一応女なんです、年頃の女の前でそう簡単に脱がないでください」
「今日は阿散井がしつこくてなァ」
「うううううっ」

 全然話を聞いちゃいねぇ!
 この隊長副隊長は本当に似たもの親子だ。

 きったない捺印が済む頃に、定時の鐘が鳴る。
 がくりと肩を落としたあたしを尻目に、きったない捺印を終えた隊長は退勤していった。

 涙目になりながら、隊長の机の横にちょこんと置かれた文机に向かう。あたしの仕事机は専らこれだ。隊首室という名前にも関わらず、隊首よりもあたしの方がここにいる時間が多い気がする。
 隊内処理の印鑑を受けた書類を綴じて、総隊長へ上がる書類は整頓して、他隊へのものも明日すぐに届けられるよう準備しておいた。そこから未処理の書類のチェックや、現世へ駐在している隊士からの報告の期日などの確認をしていく。
 全ての確認と、明日に処理すべき書類の引き継ぎが終わった頃には、二十時を回ろうとしていた。

 瀞霊廷に月が昇る。

 障子窓を開けると低い位置に三日月が浮かんでいた。僅かに吹きこむ風は冷たかったが、火鉢を焚いていたために火照った頬には気持ちがいい。
 目を閉じて深く息を吐き出すと、覚えのある霊圧がひとつ、隊首室へ向かって歩いてきていることに気が付いた。

 檜佐木だ、珍しい。

 隊首室の前で立ち止まった彼の陰が、月明かりを受けて障子に映っている。
 声を掛けてくることも入ってくることもなく、じっとそこに佇んでいるものだから、あたしは痺れを切らして立ち上がり障子を開けた。

「檜佐木? どうしたの」
「いや、乱菊さんたちと飯食って帰ってきたとこなんだけどよ。お前が一人でまだ隊首室にいたのが判ったから様子見に来た」
「……檜佐木、なんだかあたしが十一番隊に移ってから過保護になったわねぇ」

 憎まれ口を叩きながらも笑みは堪えられず、あたしは肩を竦める。

「心配にもなるだろ、あんだけ泣いて愚痴ってたんだから。隊舎が前より近いもんだからその気になれば様子見に来ちまえるしな」
「あはは、ご心配おかけします。今から帰るところなんだよね。ちょっと待って、片付けちゃうから」

 火鉢の炭の始末をしてから、灯りを消して隊首室を出た。
 檜佐木と二人並んで寮へ向かう道すがら、今日の出来事をお互いにぽつりぽつりと零し合う。隣を歩く檜佐木の頬は仄かに上気していて、お酒のにおいもした。

 十一番隊の居心地は、良くはないが悪くもない。
 平隊士たちの罵倒を受けてへっちゃらというわけではないが、自分の働きが十一番隊の書類仕事全般を動かしていると考えるとやりがいがあるし、隊長や上位席官のことは嫌いではない。
 檜佐木は随分と心配してくれるものの、きっと彼が思うより、あたしは大丈夫だ。

「檜佐木ぃ」
「なんだよ痛てーな」

 どすっ、檜佐木の背中に頭突きする。
 昔は肩を並べて歩いていたのに、あたしの顔の位置にあるのは、今は彼の肩甲骨だ。随分前から違ってしまった目線の高さに、僅かな寂しさを感じる。

「……ありがと」
「おう」



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