それは、あたしが珍しく道場で稽古に参加していた時のこと。
 一角くんと久方ぶりに手合わせをしていた時、吹き飛ばされて右方から飛んできた隊士の一人を避けられずまともにぶつかり、あたしは体重の差から簡単に吹っ飛んだ。

「あっ……澤村先輩! スンマセン!」
「痛たた……恋次くんか。御免ね避けられなくて」
「ったく鈍くせェな、大丈夫かよ」

 呆れたような表情の一角くんが差し出した手に掴まろうとした、瞬間のことだ。
 ズキリと右目が激しく痛んで、道場の床へ倒れ込む。

「澤村!?」一角くんの驚く声が遠くに聞こえた。両手で右目を押さえて蹲ると、斑目くんと恋次くん、加えて弓親くんなどが駆け寄ってくる。
 ずきずきと鈍く目の奥を抉るような痛みに苦悶の声が漏れた。

「……、う、あ、」
「どうした」
「隊長! 澤村が急に倒れたんス、四番隊を……」

 連れていった方が早い、と隊長があたしを抱き上げる。その腕の中で右目をぎゅうっと押さえながら唇を噛みしめた。

「ま、待ってください……」
「オイ、それは持病か何かか」
「暫らくすれば治まります、済みません……隊首室に薬を置いてありますから」

 隊長は一瞬だけ黙り込んだが、すぐに「解った」と応えて道場を出ると隊首室へ向かった。
 普段抑えてある霊圧が、右目の疼痛に呼応して暴れ始める。威圧をかけるでもなく、冷え冷えと刺すでもなく、ただあちらこちらへ霊圧の欠片が飛んでいく。あたしにはざわりと髪を揺らす程度だが、更木隊長には鬱陶しいだろう。霊圧がピリピリと飛んで鈴が鳴る。
 僅かな揺れが震動として右目に響いて、あたしが呻きながら唇を噛んでいるのに気が付くと、隊長はあたしの肩を支えていた方の手を伸ばしてきた。

「舌噛むぞ」
「ん……う」

 指先であたしの唇をこじ開ける。反射的に噛みしめようとした歯と歯の間に、隊長の指が二本捻じ込まれた。
 どたどたと足音高く隊長は歩くから、口の中に差し込まれた指を噛みながら、あたしは彼の胸元に顔を俯ける。飲み込みきれなかった唾液が口の端から零れた。

 隊首室の障子を足で開けた隊長がソファの上に下ろしてくれる。
 隊長は向かいのソファに腰を下ろし、ついてきたみんなが慌ただしく室内をうろつき始めた。

「薬どこッスか、先輩」
「文机の中……」
「オレ水持ってくるわ」
「はい、副隊長の昼寝用の毛布」

 おろおろしながらも世話を焼いてくれる恋次くんたちの気配を感じながら、ソファに横たわり右目を押さえる。

 ああ、しまった。
 一番隊の時は気をつけてこまめに薬を持っていたり飲んだりしていたのに、十一番隊に異動になってからこちら、忙しくてそんなことも忘れていた。
 割りと大きく霊圧が乱れた。檜佐木にも感ぜられているかもしれない。

 情けなくて涙が溢れてきた。左目からはらはらと零れていく。
 毛布をかけてくれた弓親くんが「そんなに痛いの?」と指先で涙を拭ってくれた。大丈夫、痛いけど、それで泣いているわけじゃなくて。
 ……こんな醜態をこの人たちの前で曝したことが情けなくて。

「先輩、薬です」

 恋次くんが持ってきてくれた頓服薬を、一角くんの持ってきてくれた水で流し込む。そう一瞬で痛みが消えるわけではないが、薬を飲んだという安堵で少し楽になった。
 あたしの痛がる素振りが少し治まったからか、恋次くんたちがほっと息をつく。

「……御免なさい、もう大丈夫ですから」

 隊長はずっと黙ったままだ。
 三人は気遣わしげにあたしを見ているが、ようやく口を開いた隊長が「道場へ戻ってろ」と指示したので、渋々隊首室を出て行く。
 沈黙が下りた。
 じわじわと痛みが治まっていき、深く息を吐き出した頃に、隊首室の前で立ち竦む檜佐木の霊圧を感じる。
 隊長もきっと気付いていただろうが何も云わなかった。あたしもずっと黙りこんでいると、檜佐木は何か悟ったのだろうか、そのまま声をかけずに立ち去っていく。
 その霊圧が遠ざかってから、隊長は静かに口を開いた。

「……お前の方から云い出さねェ限りは別に突くつもりもなかったが」
「…………」
「お前、右眼の視力はどうした」
「…………」
「…………」

 長い長い、沈黙だった。

 なんといっても更木隊長だから黙っていたら痺れを切らして怒ったり出て行ったりするんじゃないだろうかと思っていたけれど、予想に反して、彼はじっと座ったまま待っていた。
 あたしは横たわったまま右腕で目元を隠しながら、静かに口を開く。

「……昔、むかぁしの、お話です」
「ああ」
「あたしが、真央霊術院の六回生の時。虚退治の実地演習に、六回生数名と引率の死神とで現世へ向かった時のことです」

 誰かに話したことはなかった。
 四番隊に入隊した当初は有名な話だったから誰も触れようとしなかったし、その後また別の事件も起きたから、みんな腫れ物のようにあたしを扱ってきた。一番隊に入った頃には風化した話で、たまに訊かれることはあったが、適当にぼかしていたことが殆どだ。
 十一番隊に異動したら、忙しくて目が回り、思い出す暇もなかった。

 隊長はそのうち相槌も打たなくなったから、あたしははらはらと左目から涙を流しながら、一人でごちるかのように呟き続けた。



 次席とはいわずとも、成績は上から数えた方が早かった。
 演習ではいくつかの班に分かれて、それぞれの地点で虚の出現を待つ。現れるかどうかは演習に出てみなければわからなかったが、一日をかけて現世の町を見回り、機会があれば魂葬もした。
 檜佐木とは、別の班だった。

 穿界門を通り、現世へ降り立つ。午前九時。
 引率の死神は確か、六番隊の第十席が一人と十八席が二人だっただろうか。十席が馬のような顔をしていて、同級生が笑いを堪えていたことを憶えている。同じ班の同級生は、仲のいい同室の眞城と、男の子が五人。


 現世の蒼い空に、地獄蝶がひらりと翻ったのがきれいだった。


 隣でそれを見上げた眞城と顔を見合わせる。

「……ちょっと緊張するね」
「そうだね」

 現世へは実習で何度か来たことがあるから、今更真新しいものもない。
 演習とはいっても本物の虚を相手にするのだ。出現率だけは確実ではないので虚に出会わず帰還する班も多いようだが、そうでない班からは怪我人が毎年出ている。何年か前には死者も出たと聞いていた。
 虚が現れたら全員で取り囲み、一斉に鬼道を放つことで動きを止め、最後に引率の死神が斬魄刀で仕留める。そういう手筈になっていた。
 しかし引率の席官が三人もいるのだから大丈夫だろうと、あたしたちは正直な話、油断していたのだと思う。

 何事もなく数時間が過ぎ、ちょうどみんなの気が緩む頃。

 引率の伝令神機がピピピと鳴った。
 全員がそちらを見ると、死神が神妙に肯く。

「虚の出現指令だ。向かうぞ!」

 一組第四班七名は、一斉に地を蹴った。


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