現れた虚は追加給金も〇環のありふれたものだった。
事前の打ち合わせ通りに七名で取り囲み、堅実に縛道と破道で攻めていく。不測の事態の際には席官が対応してくれるためそこまでの緊張もなく、総員落ち着いて詠唱を開始した。
「「縛道の四・這縄!」」男子生徒二人の這縄で動きを止めて、
「「自壊せよ、ロンダニーニの黒犬。一読し・焼き払い・自ら喉を掻き切るがいい! 縛道の九・崩輪!」」その這縄が打ち破られぬ間に重ねて霊子の縄を放つ。
比較的鬼道の得意な残り三人で、声を揃えて詠唱をする。
「「「君臨者よ! 血肉の仮面・万象・羽搏き・ヒトの名を冠す者よ! 真理と節制。罪知らぬ夢の壁に、僅かに爪を立てよ!」」
詠唱破棄は平隊士でも困難だ。だから下位の縛道で一瞬動きを攪乱し、時間差で詠唱した少し上位の縛道で動きを止め、同時進行で詠唱していた破道を叩きこむ。
斬魄刀を始解することができない真央霊術院の生徒や平隊士がよくする戦法だ。
「「「破道の三十三・蒼火墜!」」」
蒼火墜は中級鬼道、弱い虚であれば一撃で斃せる威力がある。事実もう斃せたとあたしたちは思っていたし、何かあれば引率の席官が斬ってくれると信じきっていた。
虚は一体だと思っていたし、そう聞いていた。
蒼火墜の煙が晴れた頃、あたしたちの相手にしていた虚はいなくなっていた。怪我人もなく無事に実習完了かと息を吐いたところで――
「逃げろッ!!」
怒号が耳朶を叩きつける。
目を丸くして全員がそちらを向くと、見たことのないくらい巨大な虚が、その身体から数本の触手をくねらせて引率の三人を捕えていた。
何が起きたのかわからなかった。
あれだけ巨大な虚が接近していていたのにも関わらず、実習生が一人も気づかなかった。引率の三人が捕らわれても、誰も何も。
霊圧も、気配も、消せる虚など存在するのか。
「瀞霊廷へ戻れ!! 救援を呼んで来い――」
そう叫んだ十八席が触手に貫かれた。
だらりと項垂れた彼からぼたぼたと凄まじい量の血と肉が落ちてきて、あたしたちの顔にかかる。
「あ――」ひゅっと息を飲んだ実習生たちの中で、一番に動いたのは友人の眞城だった。
班長の彼女には伝令神機が与えられている。それで通信をし、瀞霊廷へ連絡した。護廷十三隊の席官が捕えられ重傷を負っている、そんな相手にあたしたち如きが立ち向かえるはずがない。
――立ち向かえる、はずが。
「オイ逃げるぞ! 澤村!!」
「何ボサッとしてんだ!!」
同級生の怒号に振り返ると、彼らは空を蹴って逃げ出そうとしているところだった。そうだ。逃げなければ。あれは明らかにあたしたちの手に負える虚ではない。
走り出して彼らの方へ向かうと、背後から悲痛な悲鳴が聞こえた。
ぐちゃ、とも。べちゃ、とも形容できない聞き慣れない音。
「先輩。先輩ッ――あ、ああ」
なぜ。
あたしたちはなぜ逃げているのだろう。
虚は斃すべき存在ではないのか。あたしたちはそれを斃す死神になるんじゃないのか。それが、なぜここで背を向けているのか。
――これが俺の、強さの憧れなんだ。
――お前に追いつかれないように頑張らねえとな。
「澤村ッ!!!」
気づいた時には、巨大な虚めがけて飛び込んでいた。
「散在する獣の骨!!」
「バカ、何やってんだ戻れ!!」
十席はすでに息絶えている。片方の十八席は頭がない。残る一人は腕を飛ばされ喘鳴を上げていた。でも生きてる。
でも、生きてるんだ。
「尖塔・紅晶・鋼鉄の車輪――動けば風、止まれば空、槍打つ音色が虚城に満ちる!」
檜佐木と一緒に猛練習した瞬歩を使って、虚の触手を蹴り、肩を蹴り、仮面の上部へ辿りつく。
触手の一本があたしを追ってきたが、
「破道の六十三・雷吼炮!!」
雷を帯びた霊子の塊が爆発四散した。
ありったけの霊力を込めた破道で虚は仮面の半分を失ったがまだ生きていた。畜生と口をついて出た瞬間、足場が消える。虚が消えたのだ。
目を丸くして体勢を立て直した瞬間、眞城の悲鳴が聞こえた。
「いやああぁぁぁ!」
「伊東!!」
姿を消していた虚が友人たちの前に立ちはだかり、同級生の一人を刺し貫いた。
瞬歩を連用しそちらへ向かう。途中、投げ捨てられた二人の遺体を見た。十八席は瀕死だが生きていたようだった。
あたしは悲鳴を上げる眞城の背を支えて怒鳴りつける。
「さっきと同じ陣形で! 崩輪・赤火砲・蒼火墜でいこう!」
斃れた伊東を掴みながら、なんとか先程の隊形に広がる。触手を辛うじて避けながら、伊東を欠く五名で詠唱を開始した。
二人が崩輪で触手二本を縛り、眞城が赤火砲を放つ。二人が蒼火墜をぶつける間にあたしは双蓮蒼火墜を練り上げた。この時ほど、自分の莫迦みたいに強大な霊力に感謝したことはなかった。
巨大虚の頭部が塵となっていく。
「や……やったのか」
誰ともなくそう呟いた瞬間、鈍い呻き声が二人分聞こえた。
触手を縛っていた二人が油断して崩輪を解き、そのまま腹部を抉られたのだ。力を失って落ちていく二人へ向けて、あまり使ったことのない吊星を展開する。
その間に、発想の外にすらなかった、三体目の虚が眞城を襲った。
「きゃあッ!!」
「眞城!!」
「おい、もういい加減逃げるぞ、無理だ!!」
虚の爪に捉えられた友人の方へ走り出そうとしたあたしを、同級生が止める。
「放して! 虚を斃すべき死神になるためにここにいるのに、こんなところで逃げられるわけがない!!」
「〜〜〜……」
「眞城―――」
虚が口をぱかりと大きく開ける。眞城があたしを見て手を伸ばす。その助けを求めるような目に、顔に、ぐしゃりと、虚の舌が突き刺さった。
色が消え、力が抜けていく。
刹那、襟首を引っ張られてぐるりと目が回った。
突き飛ばされたと思ったら、右目に熱い何かが奔って視界が潰れた。
「勝手にやってろよクソアマ! こっちの身がもたねぇよ!」
あたしを止めていた同級生だ。眞城を殺したあと彼に標的を変えた虚の攻撃の前に差し出されたあたしは、顔面の右部分をその舌に抉られたらしい。
凄まじい激痛が脳に直接叩き込まれる。ぼたぼたと零れる血が制服を真っ赤に染めていく。熱い。……熱い。痛い。痛い痛い痛い。
その場に膝をついた。
痛みに怯えてひとつも指を動かせない。
虚の叫び声が間近に聞えたけれどもう何もできなかった。
もう死ぬのだろう、死ねばいい、こんなに痛いのにとぼんやり思った瞬間、白檀の香に包まれて肩を抱かれる。
左目だけで見上げると、斬魄刀の刀身が虚の舌を受け止めていた。
救援が来たのだ。瀞霊廷から。
助かった。
――助かってしまった。
「散れ。千本桜」
低く温かな声が解号を囁くと同時に、虚の舌を受け止めていた斬魄刀の刀身が美しく散っていく。中空に漂うように消えた無数の刃が最後の一体を切り刻み、虚は絶叫を上げながら塵となった。
あたしはそこで意識を失い、助けてくれた彼の顔を見ることもなく倒れ込んだ。しっかりと抱き留めてくれたその腕だけは一生忘れないだろうと思った。
彼が当時六番隊第三席だった朽木白哉だと知ったのは、目が覚めてしばらくしてからのこと。
重症だったあたしは霊術院の救護詰所でなく、四番隊の綜合救護詰所へと運ばれて入院した。
卯ノ花隊長が直々に治療を担当してくれて、あたしの怪我は傷跡もなく治された。
ただし、右目の視力は戻らなかった。
潰れてしまった顔の右側の見た目だけはなんとか元通りにしてくれたのだが、死んだ視神経や水晶体などは治らなかったらしい。済まなそうに謝ってきた卯ノ花隊長に、これだけ治ったのだから十分ですと、掠れる声で返事した。
三番隊十席、十八席、実習生三名。合計五名の死者が出た。
もう一人の十八席とあたしが重傷。残り三名の実習生は幸いにも無傷だったという。
「卯ノ花……隊長」
「どう致しましたか」
面会謝絶状態だったあたしのもとへは毎日、卯ノ花隊長のみがやってきた。
忙しい隊務の合間を縫って見舞ってくれる彼女に、あたしは病室の天井を見上げながら冀う。
「あたし、もう、戦えません」
「……戦いが恐ろしいのは貴女だけではありません」
「あの実習に行くまでは、夢を見ていました。穏やかな草原の小さな屋敷で、とても美しい少女と語らい合う夢を」
卯ノ花隊長が息を呑んだ。
「……それは」
「あれから、見ないのです。彼女とも会えなくなりました。きっとあたし、もう、斬魄刀を……」
その先は恐ろしくて言葉にならなかった。
もう対話ができない。やり方も解らなくなってしまった。戦いが恐ろしい。こんな腰抜けが死神になんてなれるはずがない。
左目から涙が溢れて止まらなかった。
退院するまで毎日、枕元の瓶に花が活けられていた。
気を抜けばあの瞬間が甦るあたしにとって唯一気の紛れるものはその花だけで、眺める度に気持ちが穏やかになった。
てっきり卯ノ花隊長か四番隊の誰かがしてくれているのだろうと思っていたあたしだが、その花は毎日朽木三席が届けてくれるのですよと聞いた。今では冷酷無比な印象が強い彼の人だけれども、心の根っこはとても優しい人なのだと思う。
だから、朽木白哉という人が困ることがあろうものなら、いつか全力で助けに行こうと今でも心に誓っている。
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