「――澤村!!」

 ようやく退院して霊術院の寮に戻ったあたしを見つけて、檜佐木は泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
 人目も気にせず、檜佐木はあたしをきつく抱きしめた。

 ふわりと香った檜佐木のにおいに安心した自分に笑いそうになる。

「檜佐木、……痛い」
「うるせえ。心配させやがって」
「……みんな見てる」
「気にするもんか」

 女子寮の玄関前で抱き合うあたしたちを、事情を浅はかに知る後輩の女の子たちが色めき立ちながら眺めている。
 顛末の全てを知る同級生の女の子たちは、後輩をやんわりと遠ざけてくれた。

「澤村……」
「はい」
「澤村。澤村」
「ここにいますよ」
「……、……っ」

 檜佐木はいつまで経ってもあたしを放そうとせず、やがて力を抜いてずるずるとしゃがみ込んだ。
 玄関先、抱き合うあたしたちは座りこむ。
 周囲には誰もいなくなっていた。

「……檜佐木、泣いてるの?」
「泣いてねェよ」
「……そっか」

 涙声で虚勢を張る幼なじみに、ふと笑みがこぼれた。
『あの時』の檜佐木もこんな気持ちだったのか。無事に帰ってきた自分を喜んでくれる友の存在を有難く思い、ああここに帰ってこられたと思い、そして帰ってきてしまったという途方もない絶望に打ちひしがれている。
 今の檜佐木は、『あの時』のあたしみたいな気持ちなのか。誰がどんな怪我をしても、無事に帰ってきてくれたことが嬉しいと。この相方が生きていることは恐ろしいほどの奇跡なのだと。最悪の可能性を何度も考えたあの絶望、そしてそれを無責任に喜んだことへの罪悪感。
 そう思うと急に申し訳なくなってきて、あたしは恐る恐る手を伸ばした。

 震える手を檜佐木の背中に回し、力なく掴む。頭が痛くなってきた。左目からしか流れない涙が檜佐木の制服を濡らした。

 生きて帰ってきたんじゃない。
 あたしはただの死に損ないだった。



 真央霊術院卒業後、あたしは四番隊へ、檜佐木は十番隊へ配属された。
 事情を知っている卯ノ花隊長の元で回道の鍛錬を積む。もともと霊圧を使う鬼道系が得意だったので、わりと早期に上達した。
 この時期、檜佐木とは少し縁遠くなっていた。
 入隊したのち早々に席官入りした檜佐木はそれなりに血を吐く思いをしていたらしい。彼はあたしと同じで刀を握ることが恐ろしくなったたちで、専ら鬼道で対応していると聞いた。徐々に実力をつけながら檜佐木が十番隊の七席に駆け上がった頃には、あたしも四番隊で上位席官に相当する回道の使い手になっていた。

 席官入りの話は何度も受けていた。

「……申し訳ありません」
「まだ、前線に立つことは恐ろしいですか」
「……、……申し訳ありません」

 卯ノ花隊長に深々と頭を下げて、毎回断った。
 四番隊の周囲の隊士たちはあたしの演習のあれこれを噂に聞いて知っていたり、実際に治療に当たってくれた隊士だったりしたので、無理に前線へ出てこいとは云わなかった。ただ詰所で患者の世話をし、急患が出れば治療へ行った。時々檜佐木が怪我を治しにきたら、あたしが宛がわれた。

「澤村さん、檜佐木七席が来たよ」
「……あの、一々あたし呼ばなくてもいいですよ」
「いや、なんとなく呼んじゃうんだよね」

 あははと笑いながら詰所へ戻っていった先輩を見送って、あたしは患者の日誌を書く手を止めてから立ち上がる。
 処置室へ向かえば、腕から血を流す檜佐木が椅子に座っていた。

「久しぶり」
「ああ。……何だ、またお前か」
「悪かったわね。何故か知らないけど、檜佐木が来たらなんとなくあたしを呼んじゃうらしいよ」
「何だそれ。別にいいけどよ」

 怪我をした状況を聞き取りながら、回道を施していく。
 大した傷でもなかったので、ものの数分で完治した。痕も残らない。檜佐木は感心したように傷のあった腕を見た。

「……お前、まだ平隊士なんだっけ」
「うん」
「こんなに腕がいいのに」
「お褒めに預かり光栄です。檜佐木は最近どうなの。元気にしてる?」

 診断書を書きながら世間話をしていると、檜佐木の手があたしの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。そのまま頭を引き寄せて抱き込む。
 恋人同士のような触れ合いだ。檜佐木が怪我をして詰め所に来てあたしが呼ばれ二人きりになるたびにそう思う。こんなことをあたしにするから、彼女ができてもすぐに別れちゃうんじゃないのかな。

「……疲れるぜ本当」
「お疲れさま」

 彼の背に手を回してぽんぽんと叩く。
 その腕は退院して女子寮の前で抱きすくめられた時よりも逞しくなっていた。どんどん遠くなっていく昔なじみに少しだけ寂しさを憶えないでもなかったが、それを上回り、戦地が怖い。

 檜佐木だって魂葬実習の引率で大怪我を負って、怖いと泣いていたのに、なぜ戦えるのだろう。

「澤村……」
「どうしたの」
「お前はいつ会いに来ても変わらないから、安心する」

 右手に持ったままだった筆を置いて、先程治療した檜佐木の左手を探る。上から握るように触れるとその手が動いて、指を絡めてつないだ。

「変われなくてね、全然……困ったものだよ」
「いいよ。安心するから」

 檜佐木は前に進んでいる。あたしは止まったまま。
 だけど彼が望むなら、安心するというなら、止まったままでも許されるだろうか。
 彼の腕に抱かれたまま目を閉じた。
 この腕に抱かれたまま死んでしまえたらどれだけ楽だろう。



 あたしのあの時の判断は、英断と云われ、蛮勇と云われた。
 あたしがあの時立ち向かったが故に三番隊の十八席は助かったと云う人がいれば、故に実習生が三人死んだと云う人がいた。あのまま逃げていれば犠牲者は席官三名で済んだだろうと、実習生は全員助かっただろうと云う人がいた。
 夢を見る。
 あの日の夢だ。
 席官の血と肉があたしたちに降り注ぎ、目の前で眞城の瞳から色が消えていく。何度も何度も眞城の身体を虚の舌が抉り、刺し、肉塊と化した彼女が打ち棄てられる。襟首を引っ張られて右目を抉られる。体を刺され、頭が散り、あたしが肉塊と化していく。

 勝手にやってろよクソアマ。こっちの身がもたねえよ。

 静かに瞼を押し上げると、寝間着がびしょ濡れだった。
 逃げてはならないと思ったあの時の言葉に嘘はない。今でも後悔はしていない。死神を志す者として、逃げてはならないと思った。結果が伴わなかった。そしてあたしが死に損なった。

 寝間着を脱ぎ捨てる。傷一つない肢体。
 最初は慣れなかった左目だけの生活も、年数が経てば問題なくなった。右目の視力はほぼ〇に近く、辛うじて光を取り込むかという具合だ。
 義眼でも入れて視力の釣り合いをとらなければ、左目にばかり負担を強いて、いずれそちらも視力が落ちる。技術開発局の阿近さんにそう声をかけられたのだが、義眼を入れるのはとても怖かった。
 あの怪我を忘れるのが、怖かった。

 死覇装を着て帯を締め、浅打姿の刀を佩く。

 霊術院時代、何度となく見ていた夢は、もう何年も見ていない。
 目に鮮やかな緑の草原がただひたすらに続き、青い空は美しく澄んで、鳥が羽ばたく。鴬の谷渡りの声がする。頬を撫でる風は緩やかに、ひたすらに世界を愛するかのようだった。
 草原の中に建つひとつのお屋敷には、美しい少女が住んでいる。
 艶やかな黒髪と紅い着物がよく似合う、白皙の少女だった。彼女の名を聞けたことはない。だけどその静かな微笑みは、あたしを愛してくれていることを言葉以上に教えてくれていた。

 名も、解号も知らない斬魄刀。

 風の噂で、あの時あたしを盾にした同級生が九番隊で席官入りしたと聞いた。彼は怖くないのだろうか。時々思うけれど、もうあたしには関係ないのだと頭を振る。

 後輩として四番隊に入隊してきた吉良イヅルくんは、あたしを飛び越えて席官になっていった。
 恋次くんも、雛森さんも、着実に階段を上っていた。霊術院で机を並べていた同級生たちが席官入りしていく様を、あたしはずっと眺めていた。

 檜佐木が念願の九番隊に異動になった頃、流魂街の外れへの出動命令が下った。

「あたし、ですか」
「はい。今、手透きの席官が負傷者の対応に追われているのです。貴方に行ってもらわなければなりません」
「……、……」
「澤村さん」

 卯ノ花隊長に真っ直ぐ見つめられる。
 隊長命令ともあればさすがに逆らえなかったし、事情を把握している彼女がそう云ってくるのだから相当切羽詰まっているのだろうとは思った。
 嫌だと拒否したい唇を噛みしめて、「了解しました」と一礼した。


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