北流魂街の外れに虚が三体発生。
 九番隊の隊士数名が殲滅に当たったものの、二名が死亡、一名負傷。救援要請に応えて四番隊からあたしが、九番隊から席官数名が派遣された。
 指示のあった場所へ瞬歩で向かうと、九番隊の救援よりも先に到着したらしかった。

 ざっと地面を踏みしめたあたしの視界に飛び込んできたのは、脚を負傷してしゃがみ込む隊士と、彼に向かってその巨大な爪を振り上げている虚。

「縛道の四十六・鏡門!!」

 霊圧の鏡が隊士を取り囲み、外面が虚の攻撃を跳ね返す。
 続いて赤火砲をその顔面へ叩きこめば、虚は仮面の片隅から塵となって消えていった。斬魄刀を始解することもできないあたしでは、鬼道であれらを斃すしかない。

「――四番隊です。救援に参りました」
「助かった……もう駄目かと」

 救護用品を入れた鞄を肩から下ろしながら負傷した隊士の顔を見る。

「……、澤村」
「森くん……」

 頻繁に夢に現れては、あたしを虚の攻撃に差し出す同級生の顔がそこにあった。
 互いに一瞬見つめあったものの、あたしが先に本分を思い出し、止血帯で太腿を縛りながら回道を展開する。その傷を治す手が震えていたのは、もう二度と会うこともないだろうと思っていた彼に、再びまみえた驚きからだろうか、恐怖からだろうか。

「報告には虚が三体ということでしたが」
「ああ、二体は先程逃げていった」
「そうですか」

 脹脛の肉をごっそりと削がれていたその傷を治しながら、他の細々とした怪我の様子を見ていく。右腕もすぱっとやられているようだ。これでは斬魄刀も握れないだろう。てきぱきと処置していくあたしを、森くんはじっと見ていた。

 ふと感じた違和感に、ぱちり、瞬く。

 あたしが手を止めたのに気づいて、森くんが怪訝そうな表情になった。ぴりぴりと嫌な予感が背筋を這い上がる。
 虚が、逃げた。
 本当に逃げたのか。
 基本的に群れることなく虚圏と現世・尸魂界を行き来するといわれている虚が、三体同時に現れ、死神を殺し、あと一人というところで逃げた?

 ――違う。

 あたしが全身の反射神経を腕に込めて浅打を抜いた瞬間、虚空を裂いて大きな虚の爪が振り下ろされた。

 重い衝撃が刃から腕へ走り抜ける。浅打の刀身に罅が入った。

 あたしが体勢を立て直す間に、姿を消していた虚がすらりとその身を現す。これで二体目。逃げたといわれたあと一体はまだ姿を隠しているのか。
 頭の中に警鐘が鳴り響く。やばい。これは、やばい。逃げろ。救援を待っている間に殺される――!

「縛道の二十一・赤煙遁!」

 霊圧を爆発させて煙幕を作り上げた。森くんを肩に担ぎ上げて瞬歩で木々の中に隠れる。曲光で彼の姿を隠すと、あたしは気配と霊圧を限界まで潜めて様子を窺った。
 煙幕の晴れ間。
 虚は、

「此処じゃァ、小娘」

 背後から頬をべろりと舐め上げられた。
 ばっと手を振りかざして「破道の三十一・しゃ――」鬼道を発動しようとしたが虚の方が一刹那早く、その腕に腹を殴り飛ばされ吹っ飛んだ。胃の中のものが逆流する。嘔吐しながらも掌を虚へ向け、目くらましに白雷を放った。

 こんな時、斬魄刀があったら。

 情けなくてか生理的にか涙が零れ落ちた。

「しゃらくさいわァ! 知っておるぞ小娘、貴様のことを!」
「ほざけ……!」
「儂の能力に覚えはないか! 霊圧を消し、気配を消し、姿を消すこの能力!」

 背後に足音。
 振り返ろうとするざまに、虚に蹴倒されて地面へ仰向けになる。胸元を覆う足に肺が潰れ、息が詰まった。

「あ――ぐ」
「何十年前じゃったかのう。儂の母様は其れは立派な触手を持った大きな虚でのう!」
「……、……」

 目を丸くした。
 覚えのある能力。何十年か前、触手を持った巨大虚。
 木立の向こうの森くんが息を飲む。ああ、莫迦、気配を消していないと曲光の意味がないのに。

「現世で死神を喰ろうたものの、小癪な小娘どもに滅された!」
「……っ、実習生ごときに、滅される程度だったという、わけね――ああぁッ!」

 ミシミシと肋骨が悲鳴を上げる。
 虚は愉悦を含んだ笑みを浮かべながら、「そうじゃ! 母様は所詮其の程度じゃった!!」高らかに嬌声を上げた。
 耳障りな声。

「儂はあの時貴様を見ておった。隙があれば貴様ら死神もどきを喰ろうてやろうと思っておった。じゃがいかん。当時の儂は貴様ら如きを喰えようとも、助けにやってきた方の死神には遠く及ばんかった」

 自由な手でその足を掴むがびくともしない。鬼道を使おうにも呼吸が詰まって声が出ない。
 考えろ。
 考えろ。考えろ。考えろ。どうすればいい。どうすればこいつを斃して、戻ってくるかもしれないあと一体をしのぎ、森くんも連れて帰れる。

「知っておるぞ! 貴様あの時死んだおなごを助けられなんだ!!」
「……、…………」
「あの時! 貴様が今命を張って助けようとしておるあの死神に! 引っ張り出されて右目を抉られたァ!!」

 ――ああ。
 苛々する。

 べらべらと煩い虚だこと。

 酸素が足りなくて頭ががんがんした。耳が内側から潰されるような圧迫感がする。どくんどくんと心臓の拍動が耳元に聞こえて、ざあああああと雑音が渦巻く。

――……。
あとりさま。


違う。さま付けなんてしなくていい。

あとりさま。わたしの名を。


あたしはあなたの名前なんて聞こえない。
あなたとともに戦ってやることもできない。

あとりさま。わたしの名は。


 拍動と雑音の合間の声は、まだ聞こえない。

「死神とは因果な生き物よのう小娘。貴様の右目が見えないことをどれほどの死神が知っておるのじゃ? 誰も貴様を助けてはくれなんだのか? 哀れじゃ……哀れじゃのう」
「……、……るさい」
「痛かろう。辛かろう。苦しかろう。悲しかろう? 儂が楽にしてやろうぞ。儂が楽にしてやろうぞ!!」

「――煩い!!」

 怒号とともに、霊圧が爆発して虚を吹き飛ばした。

 あたしの霊圧が阿呆ほど高いということは、入学試験の時点で判明していた。
 当時うまく霊圧を制御できなかったあたしのために技術開発局が制御装置を作ってくれたほどだ。年数が経つにつれて段々と制御の力もついてきて、普段はあるかないか解らないほど微弱なものに抑えているが、いざとなれば解放することは容易い。

 可視化するほど濃度の高い霊圧が渦巻き地面を叩き砂を巻き上げる。

 受け身を取った虚があたしを見て高笑いした。

「アはハはははハハは!!」
「何が――」

 可笑しい、と云いかけたあたしを背後から現れた最後の一体が地面に引き倒す。

「引っ掛かったァ! 此れじゃから死神は莫迦じゃのう! あと一体虚がおったことなぞ忘れとったじゃろう? 忘れとったじゃろう?」

 頭を打って額から血が流れた。眉を顰めて、指先を背後のそれへと向ける。
 破道の五十四・廃炎でそれを焼き尽くし立ち上がった。
 切り札だったらしいそれがあっさりと滅されたことに、べらべらと煩い虚は目を丸くしている。
 さっさと終わらせて帰ろう。
 伏火で動きを止めて雷吼炮を叩きこみ終わらせよう。
 そう考えながら構えを取り詠唱を始めるのと、虚がニイっと口角を釣り上げるのは同時だった。

 ど、と腹部に衝撃がかかる。
 何かがぶつかったのかと訝しく思いながら見下ろすと、忘れもしない、あたしの右目を抉ったあれと同じかたちをした触手がそこを貫いていた。
 ごぷり、口から血が溢れる。

「云うたじゃろう。あれは儂の母さまじゃと」

 虚から伸びた触手は地面を掘り蠢きながら一斉に八本、その身を躍らせながら伸びてきた。
 頭が真っ白になった。地に膝をつく。誰か別のものになったみたいに体から力が抜けて、そのまま前に倒れ伏した。

「さらばじゃ。脆弱な小娘ェ!!」

 死んだ。そう思った。
 やっと死ねる、とさえ思った。
 檜佐木とか、父さんとか母さんとか、そういう人たちが脳裡を過ぎるのだろうかと、走馬灯が巡るのかと思っていたが、そんなことはなかった。
 なのにいつまで経っても痛みがこない。

 うつ伏せに倒れていたあたしが目を開けると、あたしの上に誰かの影が覆いかぶさっていた。
 ぼたぼたぼたっ、音をたてて夥しい量の血が降ってくる。

あとりさま。


「な……んで」

 振り向こうとしたあたしの目元に、誰かの手が回された。血の匂いが近くなる。目を塞いできた森くんは、喘鳴を漏らしながら、「見るな」ぽつり呟いた。

あとりさま。死なないで。


「ずっと……」
「森く、」
「責任なん、てたいそれた、もんじゃない、けど……」
「やめて、喋らないで、死んじゃう」

 目を塞がれていても気配でわかる。あたしが刺し貫かれていないのがその証拠。

「虚から、逃げんと立ち向かったお前の背に、憧れてい、た」
「だめ……」
「逃げるな、澤村」

あとりさま。泣かないで。


「おまえは、強いよ」

わたしの名前を呼んで。


 森くんの口から零れた血があたしの耳にかかる。どろりと滴ってきた赤い液体の隙間から、喘鳴に紛れて、ずっとあたしを愛してくれていた彼女の声が聞こえた。

「御免な。澤村」


わたしの名前は―――



「……何年死神を喰ろうても、此れだけは解せぬ。何故あの死神は貴様を庇うて死んだのじゃ。何故貴様はその死神の死に泣いておるのじゃ」

 どしゃりと森くんの身体があたしの上に倒れ込んでくる。

「斬魄刀のない死神など恐れるに足らぬよ小娘。此処が貴様の墓場じゃ」

 ずずずと嫌な音を立ててその肢体から触手が抜けた。栓を失ったその穴から止め処なく血が流れ、吹き出て、あたしの死覇装に吸い込まれていく。下の襦袢を通り、下着へ滲みこんでいく。肌にぬるりとその血が滲みる。
 再び矛先をあたしに向けた触手の八本。

「死ね死神。せめて母さまの仇と云ってやろう」


――べにあげは



「――嘯け・紅鳳!!」

 緋色の霊圧が浅打を取り巻き、解号とともにその柄頭から刀身まで全て透き通った紅色の斬魄刀へと変わる。
 森くんの体を腕に抱いたあたしがそれを一振りした瞬間、虚の触手はパァンと音を立てて霊子の塵となった。

「な……」
「……死ね虚」

 彼の遺体を抱いたまま、瞬歩でその頭に着地する。

「せめて! 眞城の。あの時貴様の母さまとやらに殺された死神の。そして彼の仇と云ってやろう!! 脆弱な虚!!!」

 仮面を踏み躙りながら紅鳳を垂直に振り下ろした。

 自分が死ぬと思った瞬間よりも、この瞬間の方が、むしろ走馬灯めいて眞城のことやあの時のことを思い出した気がする。あの実習のこと。痛み。白檀。病室に届く花。檜佐木の泣きそうな顔。今日に至るまでの、死に等しい日々。
 この時きっと初めて、誰かのためでもない、ただ憎しみに敗けて剣を振ったから。


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