「澤村」

 檜佐木に手を取られ、あたしはようやく顔を上げた。
 全身血塗れの状態で森くんを抱きしめ、無駄な回道をかけ続けるあたしに、九番隊の誰も近づくことができなかったという。四番隊からは当時の虎徹三席が増援で来てくださっていたが、彼女もまた、あたしのその姿に恐れを抱いたと聞いた。

「……もういい」
「ひ、……ぎ」
「もういい、やめろ。お前が死んじまう」

 檜佐木はそう云いながらあたしの両手を押さえると、片手で森くんの遺体を抱き上げた。駆け寄ってきた九番隊の隊士に遺体を預ける。
 檜佐木が来てくれた。
 その安堵と同時に口からごぽりと血が零れ、息ができなくなる。息ができなくなっていたこと、腹部に重傷を負っていたことを今更ながら思い出す。涙が止まらなかった。何も考えられなくて、ひたすら嗚咽を上げながら、あたしは地面に倒れ込んだ。

 霊圧の制御が、ここにきて利かない。
 動揺、失血、急激な霊圧解放、加えて斬魄刀の始解。精神が限界を迎え、自衛手段として霊圧の全開放を選択したのだ。ばらばらな方向へ牙を剥く霊圧が、九番隊の隊士たちを、虎徹三席を叩く。一番近くにいた檜佐木などは切り傷を負っていた。
 暴走だ。
 かつてのあの実習の後なかなか退院できなかった原因は、今と同じ、色々な要因のために霊圧が安定しなかったからだった。
 あの時と同じ感覚に嘔吐した。頭の中がぐしゃぐしゃになって、周りを吹き飛ばし、胃の中を引っくり返される感覚。嘔吐する度に腹部の傷から莫迦みたいに血が流れた。吐瀉物にも血が混じっている。
 ああ、重傷みたい。

「澤村」

 檜佐木の手があたしの頬を捕まえる。
 しっかりと見つめあった彼の目の冷静さに、頭の芯がすっと冷えていくようだった。
 そのまま頭を引き寄せられる。檜佐木が怪我をしてしまうと、あたしはのけようとしたのだが、それよりも強い力で抱きすくめられた。痛いくらい、優しい。
 厭になるほど。

「澤村。息しろ」
「ひ、さぎ」
「いいから。もう大丈夫だ。よく頑張ったな。無理しなくていい。もう一人じゃないから」
「あたし、あたし……どうしよ、ひさぎ、森くんが……」
「遅くなって御免な」

 息をしろ。檜佐木はそう繰り返しながら、あたしの耳元で呼吸をした。息をしろ。過換気を起こしていたあたしは一つずつ吸って、吐いてを繰り返し、呼吸を整えていく。――息をしろ。
 血に濡れたあたしに触れた檜佐木も、赤く染まってゆく。
 彼がずっと背中を撫でてくれていたことに気がつくと、急速に周りの景色や状況が頭の中に入ってきて、同時に力が抜けた。気分は悪かったが、霊圧の暴走は収まった。

「少し寝てろ。すぐ治してもらおう」
「森くんが……」
「ああ。大丈夫だから」
「ひさぎ……寒い」
「ああ、今日は少し冷えるよな。しょうがねえから抱っこしといてやるよ」

 嘘。だってもう春先だもの。
 随分とたくさんの血を流したあたしの動きが鈍るのを見咎めて、檜佐木はあたしを横抱きにして歩き出した。すぐに近寄ってきた虎徹三席の霊圧があたしの腹部を覆う。
 ぽたりと頬に雫が垂れてきて、あたしは空を見上げた。

「ひさぎ」
「何だよ。聞いてるよ」
「泣いてるの?」
「……泣いてねえよ」

 嘘。だって今日、雨なんか降ってなかった。



 何やら色々と危険な状況にあったらしいあたしは、四番隊に運ばれてから暫らく入院した。
 いい加減血を流しすぎて貧血気味だったし、霊圧が暴走したおかげでほぼ枯渇といったところまできていたらしい。あとちょっとで死ぬとこだった。退院してからも一週間の療養を云い渡され、隊に復帰した頃には桜が散り始めていた。

 森くんの墓前に立ち尽くし、何も考えずに佇んでいると、ふと、視界に紅色の着物がちらつく。

「……紅鳳」
「あとりさま」
「さま付けはよしてったら」

 苦笑しながら彼女の手を握ると、紅鳳は悲しげな表情になってあたしの肩に頭を寄せた。

「あとりさま。わたしの名は、    」
「……その名前は」

 目を見開いた。

「あとりさまには知っておいてほしいの」
「いいの? あたし、ずっと……あなたの声を聴いてあげられなかった」
「いいの。だけどお願い。これだけは忘れないでいて」

 紅鳳が微かに笑う。
 頬に赤みの差すその微笑みは、はっと目を瞠るほど美しい。

「わたしの力は、表裏一体。あなたにしか使えない。方法を間違えないで」

 静かに肯くと、紅鳳はふふふと笑った。髪の毛や着物の端々から美しい紅色の蝶となり、やがて幾千もの紅い揚羽蝶がひらひらと羽ばたいて空の彼方へ消えていく。
 後にはその残り風だけが、ゆるりと吹き抜けていった。




 この時ようやく斬魄刀の名前と解号を得たあたしは、その次に下された昇進の話を受けて四番隊第六席となった。第七上級救護班班長の名も戴き、班員や後輩を育成する立場を担った。現世への救援要請にも出るようになった。戦いの最中へと赴き鬼道を駆使しながら救護を行うようになった。必要とあらば斬魄刀を始解して虚を滅することもあった。
 平隊士として過ごした時間があまりにも長かったからだろうか、席次を頂いてからは一瞬だった気がする。

 優秀な死神しか在籍を許されぬといわれる一番隊への引き抜きの話が出たのは、檜佐木が九番隊三席になったのと同時期。席次的には六席から七席と降格扱いだったが、一番隊への異動という点を鑑みれば昇格に等しかった。
 一番隊第七席として過ごすことおよそ十年、檜佐木が九番隊副隊長へ。それに遅れること数ヶ月、十一番隊第三席となるよう辞令が下った。
 一番隊第七席から十一番隊第三席。席次的には七席から三席と昇格だったものの、十一番隊への異動と考えれば事実上降格扱いだ。
 超戦闘部隊と名高い――名高いのかどうかはともかく――十一番隊へ異動。確かにあたしは弱くないけれど、戦闘向きではないのは確か。檜佐木を呼び出して泣いて愚痴を云いながら夜な夜な過ごしたことは記憶に新しい。

「右目の視力、もうほとんどありません。なんのせいか、時折ひどく痛みます。阿近さんには義眼を勧められているのですが、どうにも踏ん切りがつかなくて」

 遠い、しかし鮮烈な記憶を一つずつ紐解きながら、相槌も打たない隊長へぽつりぽつりと零した。
 左目からはらはらと流れ続ける涙は死覇装の袂に吸い込まれていく。檜佐木には何度も助けられたなぁとしみじみ感じ入りながら、自分の死神人生を振り返った。腕の下でぱちぱちと瞬きをして、右目の奥の抉られるような痛みがすっかり治まったのを確認すると、体を起こして隊長を見る。
 相変わらず個性的な髪形だが、恐ろしいほど真顔であたしを見つめていた。

「そう重要な話でもないと判断してこれまで黙っておりましたが――こんな腰抜けは要らぬと仰るのであれば、いつでも隊を辞すつもりで――」
「莫迦云ってんじゃねェ」

 すっと手を伸ばした隊長の大きな掌があたしの頬を掴む。
 けだものの牙にかかったかのような感覚で、指一本たりとも動かせなかった。

 隊長から醸し出されるこの気配は、凄絶な色香か、霊圧か。噛みつかれたが最後、一息に喰らい尽くされてしまいそうな、その視線に絡め取られて、抵抗する気もなくなるような――だけれど体の奥底に燻る熱が疼くような、もどかしい痛みが奔る。
 はらはらと涙腺が決壊したように涙ばかり流す左目の眦を、隊長の舌が舐め上げた。

「っ、隊長!?」
「テメーが辞めたら誰が書類すんだよ。勝手に辞めてみろ、世界の果てまで追いかけて、俺がこの手で殺してやる」
「たいちょ、……ひいいっ」
「ハッハッハ」
「ハハハじゃないです!!」

 涙の痕まで舐め取られて思わず引き攣った悲鳴が上がる。
 野生のけものが子どもを慰めるかのようなその仕草に頭が回らなくなるが、多分あたしで遊んでいるだけで他意はないだろう、というか他意があったら大問題だ。
 気が済んだのか、隊長はあたしの頬を解放して立ち上がった。

「道場へ戻る。テメーは今日はもう下がれ」
「……有難うございます」

 その広い背中を見つめながら、あたしはもしかしたら物凄いことを隊長に云ってもらったのではないだろうかと、遅ればせながら打ち震える胸を押さえた。
 辞めることは許さないと云われた。
 辞めたらば俺が殺す、と。

 思わず頭を深く下げた。心の底から感謝したかった。
 十一番隊にそぐわない腰抜けのあたしを認めてくれた。莫迦にするでもなく、憐れむでもなく、放っておくでもなく干渉するでもなく、ただありのまま受け入れてくれた。
 隊首室の障子が閉まっても、暫らくそのままでいた。

 気持ちが落ち着いた頃にソファから立ち上がる。障子を開けて、こそこそと気配を潜めている四つの頭に向かって声をかけた。
 あたしの霊圧感知を舐めてもらっては困る。

「……ということですから、お先に失礼しますね。みなさん」

 生垣の中からざざっと四人が顔を覗かせた。射場さん、一角くん、弓親くん、恋次くんだ。気まずそうな顔の彼らに、ついつい仕方ないなと笑みが零れる。
 顔をあちらこちらへ向けて檜佐木の霊圧を探るが、やはり十一番隊の周辺にはいない。あたしに関しては空気を読むのが上手な彼だから、きっと詰所へ帰ったのだろう。

「こんな腰抜けですが引き続き上官を務めます、どうぞ宜しく」
「澤村先輩ッ、あの……」

 一角くんのつるつる頭を押しのけて、恋次くんが身を乗り出した。「ぐえ」と悲鳴が聞こえるがまあ大丈夫だろう。

「腰抜けなんて思う奴いません、少なくとも俺たちは。いたらブッ飛ばしますから!!」
「……有難う」

 ここではみんな平等だ。実力に正直だ。力だけが正義。
 誰も人の過去に同情しないし、憐憫も、遠慮も、畏れもない。今までずっと苦しかった何かがゆるりと蕩けていくような気がした。

 あたし、十一番隊に来られてよかったんだなぁ。



 月が低く上るのを目で追いながら、寝間着に着替えようと着物の帯を解いた。
 定時の鐘が鳴ってから一刻は経ったろうか。夕食をとり終え、久々に晩酌でもするか、と考えているところだった。しゅるりと帯を落として小袖、襦袢、肌着の順に落としていく。
 左脇腹に残る傷跡を指先で撫でた。
 朦朧とする意識の中、敢えて残してほしいと虎徹副隊長に頼んだものだ。困ったような顔をしながらも、彼女はその通りにしてくれた。
 これは戒めだ。
 弱かった自分への戒め。
 明日は早起きして眞城と森くんの墓前へ参ろうと算段をつけたところで、玄関先へ人がやってきた気配を感じた。

「澤村。檜佐木だけど」
「あ、ちょっと待って! 着替えてるから」
「おう」

 手早く寝間着を纏ってから扉を開けると、丁度よく酒瓶を携えた檜佐木がそこに立っていた。
 いつも通り部屋へ誘導すると、勝手知ったる他人の家、檜佐木はどかりと卓袱台に酒瓶を置いて腰を下ろす。脱ぎ散らかした着物をささっと畳んで部屋の隅に置いた。

「大丈夫だったか、今日」
「ああ、うん。御免ね、隊首室の前まで来てくれたでしょ」
「いや。勝手に心配して行っただけだから、大丈夫ならいいんだ」

 台所からおつまみや肴を持ってくる。ついでに半開きにしていた障子窓を開けて、縁側へ檜佐木を誘った。
 不完全な形の月を眺めながら、酒を注ぎ合う。
 あたしの部屋からは敷地内に育つ桜の木がわずかに見えていた。大きく膨らんだ蕾に、近づきつつある春を感じる。

「隊長、あたしの右目が見えないことに気づいてた」
「ああ」
「全部……話して。十一番隊に来れてよかったなって、思った」
「そうか」
「…………ね、檜佐木」
「ああ」

 短い相槌しか打たない檜佐木の横顔を見上げた。

「明日ね、眞城と、森くんのお墓参りに行きたいなって。一緒に来てくれないかな」

 すすすと体を寄せて、こてんと寄りかかる。
 檜佐木も顔を寄せて、二人ぴったりと寄り添いながら、月と桜を見つめていた。

「ああ」
「蟹沢さんのお墓参りも、また行こうね」
「……ああ」

 お猪口を持つ檜佐木の手が震えていることには気がつかないふりをしておいた。彼もまた、心に大きな傷を抱えている。檜佐木があたしの傷を全て治すことができなかったように、あたしでは癒しきることのできない大きな、深い傷を。

 桜はもう直に綻ぶだろう。
 あたしが血塗れになりながら紅鳳を始解したあの日から、今日でちょうど二十年だった。


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