「失礼します。九番隊の檜佐木です」

 うとうとしていたところ、あたしはその声で目を覚ました。
 今日は書類仕事も多くないので朝から道場に顔を出し、隊長に死ぬほどしごかれ、射場さんと恋次くんと手合わせをし、草鹿副隊長と鬼ごっこをしてへとへとだった。
 慌てて障子へ近寄って開けると、吃驚した顔の檜佐木が立っている。

「なんだ、居眠りでもしてたのか」
「うわ、何で解るの。……書類受け取ります」
「目が赤い。……回覧書類と、先日の隊舎破損の修理の請求書」
「お世話かけます」

 回覧書類をぺらりと捲り、請求書に不備がないか確認する。檜佐木が持ってくるのだから不備などないだろうが、一応だ。
 確認が終わってからお茶でも飲んでいくかと勧めると、「これから現世で任務なんだ」と断られた。
 現世への派遣任務は基本的に席官以下の仕事で、副隊長が出ることは滅多にない。珍しいねと首を傾げると檜佐木は苦笑した。

「たまにはやらないと、書類ばかりじゃ鈍るからな。副隊長が戦う姿を見るのは隊士たちにもいい経験にもなるだろうって、東仙隊長が」
「成る程。気をつけて」
「ああ」

 ……わざわざ任務前に顔を見に来たのだろうか。
 手を振りながら遠ざかっていく檜佐木の後ろ姿を、何となく、いつまでも見送っていた。

 檜佐木が現世へ任務に行くことに、あまりいい思い出がない。
 真央霊術院六回生の頃、一回生の魂葬実習の引率として出掛けて行って大怪我をして帰ってきたからだ。檜佐木の右頬の三本の傷跡はその時のものである。
 あの時は、心臓が止まるかと思ったなぁ。



 その報せを受けた時、あたしは寮で本を読んでいた。
 あたしの方の一件が起きる前のことだった。眞城が血相を変えて駆け込んできて、ようやくことの次第を知ったのだ。

「あとり! 檜佐木くんが行った魂葬の実習に巨大虚が出たって……!」
「……え?」
「青鹿くんと蟹沢さんが瀕死の重傷、檜佐木くんも怪我したみたい! 早く!!」

 読んでいた本を投げ出して、草履を履いている手間も惜しんで下駄を引っかけると、あたしは寮を飛び出した。
 魂葬の実習に虚なんて滅多に出るものじゃない。しかもただの虚ならまだしも、出現率の低い巨大虚など。引率の六回生は探知機を持っているのだから、その気配を感知すれば速やかに門を開いてこちらへ帰ってくるはずだ。
 それがなぜ重傷など。

 檜佐木は現時点で護廷十三隊入りが確定している、数十年来の秀才だ。一緒に行った青鹿くんと蟹沢さんだって成績優秀者。その二人が咄嗟とはいえ判断を誤るとは考えにくい。
 何か問題があったのだ。或いはその巨大虚に何か特殊な能力があり対応が後手に回ったか。

 最悪だ。
 檜佐木は強い。だけど巨大虚を相手に一回生を守り抜きながら勝てるほど実戦経験がない。
 考えうる限り最も悪い可能性を想定する。六回生全滅。血だらけの檜佐木。……頭を振って、その最悪を振り払う。

 寮の廊下はその話題で持ちきりで、あたしと檜佐木の仲がいいことを知っている同級生たちが気遣わしげに視線を向けてくる。
 人にぶつかりながら転げるように建物を出ると、習得しかけの瞬歩を何度も繰り返して霊術院にある救護詰所へ向かった。
 すると、ちょうど診療室へ入っていく途中の檜佐木を見つけて、気づいたら叫んでいた。

「檜佐木ッ!!」
「うおっ、澤村……」

 勢い余ってその胸に飛び込むと、左手で顔を抑えていた檜佐木は右手一本であたしを受け止めた。弾みでぱたぱたっとあたしの顔に血が飛び散り、「悪ィ」と謝りながら彼が右手で拭おうとする。しかしその指先もべっとりと血に濡れていた。
 最悪の想像をしながらここまで走ってきていたあたしは、案外けろりとした様子の檜佐木に安堵すると同時に、血の滲む包帯、そこを抑える指の隙間から零れる血に、涙が堪えられなくなった。

「何、その怪我、なんで……青鹿くんと蟹沢さんは……」
「二人は今治療を受けてるとこだ。どうなるかは解らん。俺は大した怪我じゃねえからそんな泣くな」
「〜〜〜っ……」

 泣くなと云いながら血に濡れた指であたしの頬を拭った檜佐木は、今にも泣き出してしまいそうな程苦しそうな表情で無理やり笑う。

「あー悪り、血がついた」

 早く離れないと檜佐木の治療の邪魔になる。解っていても、手が震えて檜佐木の制服を掴んだまま離せない。まるで石になってしまったみたいに云うことを聞いてくれなかった。
 霊術院に勤めている四番隊の隊士は、手合わせをしては怪我をこさえるあたしたちをいつも診てくれる人だった。苦笑しながら手招きをする。

「仕方ないな。檜佐木くん、そのまま入っていいよ」
「スンマセン。……ほら澤村」

 どうやら血がつくとかどうとか最早開き直ったらしく、檜佐木は血塗れの右手であたしの頭を撫でて肩を叩き、治療室へ連れて入った。覚束ない足取りでついていき、隊士の差し出してくれた椅子に二人で座る。
 自分の傷が痛いはずなのに、檜佐木はずっと泣いているあたしの肩を抱いて慰めてくれていた。

「檜佐木……」
「大丈夫だっつの。クソ、お前がそんな泣いてっと俺が痛がる暇ないじゃねえか」

 あたしはこの時最低なことを考えた。
 檜佐木が無事でよかった。
 檜佐木の怪我がこの程度で済んでよかった。
 瀕死の重傷を負った青鹿くんのことも、助からなかった蟹沢さんのことも、一片たりとも慮ることができなかった。ただ目の前にいる相方が生きている途方もない奇跡に感謝さえした。

 檜佐木の怪我の治療が終わると、隊士は出て行った。
 あたしは椅子に腰かけたまま檜佐木の肩に顔を埋め、彼はあたしの頭を撫でる。檜佐木の血が髪で乾いてぱりぱりになってきていた。

 何も云わなかった。
 ただ抱き合っていた。

 やがて檜佐木はおもむろにあたしの身体を抱き上げて、血だらけの制服の膝の上に座らせた。血濡れの両手でしっかりと抱きしめられて、あたしも両手を彼の首に回して抱き着く。
 くしゃりとあたしの髪の毛へ指を差し入れて、檜佐木が蟀谷に頬を寄せてきた。

「澤村。もう泣き止めよ」
「御免……無理……」
「いやみんな見てっからさー、そろそろ……」
「尚更無理……顔がやばい……」

 檜佐木の苦笑が響いてくる。檜佐木を心配した生徒のみんなが扉の傍に集まってこちらを見ているのは解っていたが、余計に顔を上げづらくなってしまった。
 最初は心配そうだったみんなの視線が段々と面白がるものになってきているのも解っているので、もう泣き顔を晒すのも嫌だし恥ずかしいしで訳が分からなかった。

 思えばあの時から、あたしたちはお互いに触れ合うことに遠慮しなくなったような気がする。次にあたしが現世へ行った時に瀕死の重傷を負った際は、檜佐木があたしをきつく抱きしめてくれたのだったっけ。

 あとから聞いた話によると、この件であたしと檜佐木は確実にくっついたと周囲は思っていたらしい。
 眞城には「あとりを抱きしめてる時の檜佐木くんの顔といったらもう恥ずかしいったらなかったわ〜」とも云われたが、そんな事実は一切なかった。



 ――ガアン!!

 物思いに耽りながらまたうとうとしていたところ、滅多と鳴らない緊急警報にあたしは意識を引きずり上げた。
 護廷十三隊中に鳴り響くその警報に、さっと緊張が走る。

『緊急警報! 緊急警報! 現世任務中の九番隊第七席より救援要請あり! 手空きの席官は救援へ向かってください!!』

 ――待って。
 現世任務中の、九番隊第七席より?
 あたしは弾かれたように立ち上がると、傍らに置いていた斬魄刀を取って隊首室を出た。

『繰り返します。現世任務中の九番隊第七席より救援要請あり! 巨大虚が一体出現、平隊士数名が死亡・席官負傷、檜佐木副隊長が一人で応戦しています。手空きの席官は救援へ向かってください!!』

 隊長の指示を仰ぐべきだ。出るにしても許可が要る。だけどそんなことをしている暇はない。更木隊長なら恐らく笑って「おう行ってこい」と云ってくれるはずだと信じて、あたしは奔った。
 地獄蝶を飼育している詰所へ向かって一羽引っ掴むように連れて、穿界門へと向かった。

「十一番隊第三席澤村あとり、九番隊の救援へ向かいます!!」


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