目に鮮やかな緑の草原。
 美しく澄んだ青い空。
 数羽の鳥が羽ばたき、鴬の谷渡りの声が響く。
 その草原の只中に倒れ込むあたしの頬を撫でる風は緩やかで、まるでひたすらに世界を愛するかのよう。

 この世界は知っている。

 この数十年とんと見なくなっていた、紅鳳とあたしの交差する世界の夢。

 意識がはっきりとしはじめた。指先がぴくりと動く。脳から体へ、腕へ、脚へ、指先へ、神経が通う。感覚を取り戻す。掌に力を籠めて、うつ伏せだった体を起こした。
 草原に座りこんだあたしは、吹き抜ける風に目を閉じる。

 ここが紅鳳の住まう世界なら、どこかにいるはずだ。

 ここへ来るまでの記憶が蘇るが、ぽかりと穴が開いているはずの腹部に傷はない。

 檜佐木、泣きそうな声だったな。あれは意外と泣き虫だから、泣き顔をみんなに晒していやしないか心配だ。ついこの間のお墓参りで、俺よりもあとで死ねと云われたのに、さっそく約束が守れなかった。
 ……いや、あたしがここにいるということは、死んでいないということなのか。
 ひとまず紅鳳に会いに行こうと立ち上がる。夢を見る時はいつも草原の中に小さな屋敷が建っていたはずなのに、今日はそれがどこにも見えない。もしかしたらこれはただの走馬灯のようなもので、歩いても歩いても紅鳳はいないかもしれない。それでも、歩かなければ。どこかへ、行かなければ。
 進むと決めたのだから。

 立ち上がって、覚束ない足取りで歩き出す。
 見渡す限り草原が続いている。建物は何もない。障害物もない。樹が生えているのが見えたから、とりあえずそちらへ向かってみた。

 思えば、随分と遠くまで来た気がする。
 やることがなくて、霊力があった。だから真央霊術院に入学した。眞城と仲良くなった。檜佐木と出会った。あたしの霊圧が規格外であることを知った。紅鳳が夢に現れるようになった。だけど剣術は上手くならなかった。鬼道と歩法は向いていた。成績はよかった。檜佐木が血だらけで現世から帰ってきた。何気なく傍にいた彼の存在の大きさを思い知った。現世で眞城を失った。あたしの判断は英断とも蛮勇ともいわれた。戦いが恐ろしかった。ずっと四番隊で、息を潜めて、死んだように生きていた。森くんに庇われた。紅鳳はあたしを見棄てなかった。大事な名前を教えてくれた。逃げるな。お前は強い。御免な。前へ進むと決めた、あたしの足元で死体となった眞城たちを踏み躙って。そしていつも、いつも、檜佐木が隣にいてくれた。彼にとってあたしも、あたしにとっての彼のような存在でいたい。十一番隊へ異動になった。隊長はあたしを腰抜けと呼ばなかった。勝手に辞めてみろ。世界の果てまで追いかけて、俺がこの手で殺してやる。

 勝手に辞めてみろ。世界の果てまで追いかけて、俺がこの手で殺してやる。

「はは……本当に追いかけてきそうで笑えない」

 立ち止まる。もう随分と長いこと歩いている。
 今までを一つ一つ振り返りながら、いい加減疲れてきた足を叩いた。少しくらい痛くても、まだ歩ける。
 気を取り直して、再び歩き始めた。

 あたしたちは歩みを止めることは赦されない。
 その道が血に塗れていても、地面が見えないほどの死体に覆い尽くされていても、いずれ別たれるとしても、鎖されるとしても。



 なぜ、昇進の話を受けたのかを思い出していた。
 森くんに庇われ、虚を斃し、檜佐木の腕に抱かれて血塗れのあたしは綜合救護詰所へ帰ってきた。あの頃三席だった虎徹副隊長や卯ノ花隊長の必死の治療のおかげで、二日後には目を覚まし、その一週間後には退院した。
 彼の墓所は瀞霊廷外れの共同墓地だと聞いてお墓参りに向かった。
 真新しい墓石の前に立ち尽くしながら、あたしが強ければ、あたしが恐れず戦えていれば、あたしが斬魄刀を始解できていれば、森くんは死ななくて済んだのだろうと思った。きっとこうやって力及ばず、四番隊の到着も待てず、死んでいった人が多くいたのだろう。今まで人伝に聞くだけで知った気でいたその事実を急速に実感した。
 あたしは何のために死神になったのだろう。
 やることがなくて霊力があったから。真央霊術院の入試を受けたら受かったから。規格外の霊圧を制御できるようにならないといけなかったから。紅鳳の夢を見たから。

 違う。全部違う。
 一人の男の後ろ姿。

 69とかいうわけのわからない刺青をある日入れてきて、「これが俺の目指す強さなんだよ」と笑った一人の男の後ろ姿に、痺れるほど憧れた。目指す強さのあるあなたが羨ましかった。人に見えないところで血反吐を吐いて努力するあなたの隣にいて、胸を張っていられる人になりたかった。

 檜佐木。
 あたしはあなたみたいに強く在りたい。
 現世で血塗れになり、蟹沢さんを助けられなかった無力を嘆いていたことを知っている。夢に魘され、斬魄刀を握ることどころか、戦いの場に立つことすら本当は怖かったことを知っている。それでも目指す強さのために、少しでも近づけるように、震える指を握りしめ膝を叩き敢えて胸を張って斬魄刀を腰に縛り付けて涼しい顔をして、ついでになぜか知らないけど死覇装の袖も切って、必死に這い上がってきた。

 心の中に計り知れないほど大きな恐怖を抱きながら、それでも凛と立つあなたの隣にいて、恥ずかしくない人になりたかったの。



 何日経ったかわからない。
 草原には時間がない。ずっと青い空のまま。太陽は柔らかい光を放っていて、月は青白く沈黙している。何度か休憩を取りながら、それでも倒れ込みはしなかった。
 生きているのか死んでいるのかもいまいちわからなくなってきた。ここはあの夢の草原に見せかけた死後の世界だろうか。そういえばあたしは尸魂界で生まれたので、現世での死を体感していない。尸魂界で一度目の死を迎えた魂魄はどうなるのだろうか。ううん、よくわからないな。死んだ人の話なんて聞けないし。

 ふらふらになりながら、草原に座りこむ。
 脚が痺れて動かない。もう一歩も歩ける気がしない。歩みを止めてはならないとわかっていても、止まってしまう。

「……紅鳳」

 一人で、何もない草原を歩き続けて、頭がおかしくなりそうだった。

「紅鳳……どこにいるの」

 心細さのあまり涙が零れてくる。左目から。死んだ右目は何もできない。

「檜佐木……」彼の名を呼んでも意味がないことはわかっている。いくら檜佐木だってこんなところまで助けにきてくれない。

「檜佐木……、眞城、隊長、副隊長……。一角くん、弓親くん、恋次くん、射場さん、不知火くん……。乱菊さん。阿近さん。市丸隊長。雛森さん。イヅルくん。卯ノ花隊長。虎徹副隊長。総隊長……雀部副隊長……」

 泣きながら蹲る。心が折れてしまいそうだった。
 あたし、死ぬまでこのままなのかな。一人なのかな。そんなの嫌だなぁ。

「助けて……ひさぎ」

 血を吐くような思いでその言葉を絞り出した瞬間、風と鴬の鳴き声以外の音がなかったこの世界で、人の囁く声がした。
 顔を上げて耳を澄ます。

 多分、紅鳳の声だった。

 ……何をしているんだろう、あたしは。
 歩みを止めてはならないはずではなかったのか。手元の草を握りしめた。足は痛い。もう疲れた。だけど足が千切れたわけでもあるまいし。腕がもげても、腹に穴が開いても、足があって生きてさえいれば歩いて行けるのに、歩かないと、何にも追いつけはしないのに。
 唇を噛みしめて立ち上がる。ふらついたが、膝に手をついて体勢を立て直した。

 あたしは強くなどない。まだまだ檜佐木の隣に並べない。
 それでも死に損ないながら前には進んできた。そしてこれからもきっと、眞城たちを置き去りにして進んでいく。だからどうか、あたしを一生赦さないでいてほしい。
 誰も、何ものも、決して赦さないでほしい。
 そうすればあたしは歩みを止めないで生きていられる。その道が血に塗れていても、地面が見えないほどの死体に覆い尽くされていても、いずれ別たれるとしても、鎖されるとしても、あたしは歩いていける。

 逃げるな。お前は強い。
 森くんのくれた言葉は思ったよりもあたしの力になった。檜佐木が肩を抱いてくれる腕。隊長が頭を撫でてくれる手。副隊長がお昼寝に誘ってくれる笑顔。恋次くんの気遣ってくれる言葉。乱菊さんの微笑み。市丸隊長と食べた善哉。懐に忍ばせた白檀の香り――

「あとりさま」
「……!」

 耳元であたしを呼ぶ声がして、ばっと振り返る。
 艶やかな黒髪と紅い着物のよく似合う、白皙の美しい少女が立っていた。気づけばあたしは屋敷の中の、池の畔に立っている。

「紅鳳……」
「あとりさま」

 紅鳳は優しく微笑んであたしの隣に佇んでいた。

「あとりさま、わたしの名前を憶えていますか?」
「紅鳳、でしょう。何度も呼んだよ」
「いいえ」

 ふるふると首を横に振る紅鳳。黒髪がさらりと揺れる。
 もう一つの方かと思い当たって、しかし軽率に口に出してよいものでもなかったので、静かに肯いた。すると彼女は嬉しそうに、「それなら、よいのです」と笑った。

「あとりさまは、全然わたしの名前を呼んで下さらないから」
「……御免ね。だけど、あなたの名前はあたしにはまだ重い。あなたに頼りながら戦うには、あたしは未熟なの」

 そう云いながら、こんなものは云い訳だ、と思っていた。
 紅鳳はずっと前からあたしの傍にいてくれた。あたしが戦いを恐れるようになっても、ずっと見守っていてくれた。力を貸してくれた。その力を使いこなせるように鍛錬してこなかったのはあたしだ。

「いいえ。わたしは、あとりさまがお怪我をなさらなければそれでよいのです。だからこそ意地悪を致しました。御免なさい」
「意地悪……?」
「咄嗟につるりんさんを突き飛ばし、」
「待って……つるりんさんはやめて……」

 真剣な表情をしているのに笑いそうになる。
 笑う元気がまだあることに安堵しつつ、紅鳳の話の続きに耳を傾けた。

「――虚へ最後の一撃を放つ時、あとりさまはわたしをお選びにならなかった。わたしを呼んでくだされば、虚を斃すことも、あとりさまのお怪我を治すこともできたのに」
「……そうよね。咄嗟に思いつかなかったわ」
「少しだけ寂しいのです。わたしはあなたとともに戦いたい。あなたを守りたい。なのにあなたは一人で戦ってしまえるのです」

 ここにきてようやく、紅鳳の笑みが寂しさを帯びたものであることに気付いた。
 ああ、そうか。
 剣術が苦手だと倦厭した。鬼道と歩法を磨いた。それは確かに斬魄刀とともに戦う道でなく、一人で戦う道を選んだことと同義だ。
 あたしは紅鳳を抱きしめた。彼女をこうしてこの腕に抱くのは、もしかしたら初めてかもしれない。

「御免ね。……もっと強くなるね」
「お怪我はなさらないでください。悲しい想いをしないでください。あとりさまの心が涙を流す度に、わたしの心も割れてしまいそうな程痛むのです……」

 しずしずと涙を流す紅鳳の頭を撫でながら、今のままではだめなのか、と内心で息を吐く。鬼道と歩法を磨き回道を学び斬魄刀の解号と名を得た、実戦が苦手な代わりに机仕事を請け負った。だけどそれでは寂しいと紅鳳が云う。
 それは、あたしに、怪我をするなと云いながら戦えと云っているようなものだった。

 ひどく矛盾した彼女の愛情に、これからもきっと、あたしにとって死ぬほど辛い何かが降りかかるのだろうという予感を抱いた。
 力の化身たる斬魄刀が戦えと云っている。きっと、戦わなければならない日がくるのだ。

 あたしはまた、死に損なった。

――あとり。

 声が聞こえる。あたしを呼ぶ声が。
 紅鳳を解放した時に彼女の声が聞こえたのと同じように、あたしを呼ぶ檜佐木の声が聞こえる。

「あとりさま。また」
「……寂しい想いをさせて御免」
「いいえ、いいえ。あとりさまがわたしの名を憶えてくださっていただけで、鳳は満足でございます」

 ぎゅうっと強く彼女の小さな体を抱きしめたところで目を閉じた。
 泣き虫が呼んでるから、早く行かなきゃ。


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