あとり、と呼んだのはいつぶりだっただろう。初めてかもしれない。咄嗟に口に出したそれは思ったよりも白々しく聞こえて、自分でもぞっとしたほどだった。
 彼女は俺のことを檜佐木と呼ぶし、俺は彼女を澤村と呼ぶ。長い間ともにいるくせに苗字呼びなのかと首を傾げられることもあるが、俺と澤村の性格的にその方が合っていたのだろう。名前で呼ぶのは少し気恥ずかしい。

「修兵、またここにいたの」
「乱菊さんこそ」

 かつて彼女が治療する側として勤めていた四番隊の綜合救護詰所の白い病室で、横たわる澤村を眺めながらぼんやりしていると、乱菊さんがやってきた。
 いつの間にか仲良くなっていた二人は、先日、休日を合わせて甘味屋や小間物屋に行ってきたという。眞城以来親しい友人をつくることに臆病になっていた――いや、むしろ生きることにさえ臆病になっていた澤村が、ようやく前へ進んだのだと思うと嬉しかった。

「……起きないわね。ばかあとり」
「もう一週間ッスね」

 九番隊の救援要請に応えていの一番に出動してくれた彼女が、虚の爪に貫かれて意識不明の重体に陥ってからすでに一週間。
 腹部の傷は問題がない程度に治療され、峠も越したと説明は受けていたが、意識だけは戻らなかった。霊術院時代の現世での一件の時も、森十五席の救援へ向かった一件の時も、一週間も眠ったままになったことなどなかったから、少し心配だった。

 多くの人が見舞いに訪れた。
 俺がかち合っただけでも乱菊さん、更木隊長、草鹿副隊長、斑目に綾瀬川、阿散井。聞いた話では市丸隊長や吉良、一・四番隊の隊士も山ほどと、雛森、十一番隊の隊士が数名と阿近さん、十三番隊の朽木に浮竹隊長。華奢な澤村がそろそろ見舞い品に埋もれそうだったので、鍵を拝借して彼女の家に持って帰ったのは二日前のこと。
 こいつは色んな要因から自己肯定が下手くそだが、こいつが思っているよりもずっと、周りの人はこいつを好きなのだ。

 乱菊さんがお見舞いの花を置いて病室を出て行くと、俺は布団の中から澤村の手を出して、小さな白いその手を握った。

「澤村、お前そろそろ起きないと十一番隊の書類がすごいことになるぞ」
「澤村、お前いつの間に市丸隊長やら朽木やらと仲良くなったんだよ」
「澤村、草鹿副隊長がわんわん泣いてたぞ、更木隊長も怒ってたし」
「阿近さんは、さっさと起きないと勝手に右目を義眼にするぞって心配してた」
「澤村、――――」
「澤村」

 彼女の手を握る力が強張っていく。

「――……あとり」

 彼女の名を呼ぶ自分の声は、思ったよりも白々しい。


「あとり」




 修兵、と呼ばなくなったのはいつからだっただろう。確か三回生の時までは修兵と呼んでいたような気がするのだけれど、いつからか檜佐木と呼ぶのが当たり前になってしまっていた。
 彼はあたしのことを澤村と呼ぶし、あたしは彼をもう長いこと檜佐木と呼ぶ。仲がいいのに名前では呼ばないのよねと首を傾げられたこともあった。

 そうだ、確か三回生も終わり頃の冬のことだった。
 檜佐木は成績優秀で、若干見た目が怖いが基本的に懐の深いいい奴だったから、好意を抱く女の子は多かった。女をとっかえひっかえなんてことはなかったし、多分あたしを彼女だと勘違いして尻込みする女の子も多かったのだと思う、檜佐木には長い間彼女ができなかった。それでも勇気を出して告白してきた女の子と、檜佐木は付き合い始めたのだ。
 可愛い子だった。剣術も鬼道もいまいち苦手だったみたいだけれど、おおらかで一生懸命でとてもいい子だった。
 ある日教室の前を通りかかったあたしは聞いてしまった。檜佐木くんはいつまで経ってもあたしの名前を呼んでくれないし、あたしも檜佐木くんの名前を呼べないの。呼べるのはあの子だけ。澤村さんだけなの。心臓が潰れるような思いで、その日から、初めて会った時のように檜佐木と呼び直すようにした。彼女と檜佐木はその後暫らくして別れた。

――あとり。

 あなたがあたしを呼ぶ声は、こんなにも温かい。

 あたしは口を開いた。名前を呼んではいけないと思っていた。あたしは檜佐木の彼女じゃないし檜佐木はあたしの彼氏じゃない。あんなにもいい奴なのに彼女ができないのは多分あたしのせいだ。
 だけど檜佐木の隣は心地よかった。憧れだった。

 彼女になりたいとも一緒に生きたいとも思わないけれど、あなたが背中を預けてくれるような片割れにはなりたいと思ったの。

――あとり。

 震える唇を一度閉じ、もう一度開く。金魚が餌を探すみたいに、ぱくり、ぱくり、何度も開いては閉じる。

 あの可愛い女の子が嘆くのを聞いた日から、あたしがあなたを呼ぶ声はだけど、驚くほど白々しい。

――あとり。

 だけど。



「修、兵」

 勇気を出して声に出してみた瞬間、視界に広がっていたのは白い天井だった。次の瞬間檜佐木の顔が間近にやってきて吃驚した。

「澤村!?」
「ちょ、近い檜佐木、近い」
「目が覚めたのか、どっか痛いところねェか!? 卯ノ花隊長呼んでくっから寝るんじゃねえぞ!!」

 やかましい音を立てながら檜佐木が病室を飛び出していく。布団から出ていた左手はなんだか痛くて、だけど暖かくて、長い間握っていてくれたことがわかった。
 随分長いこと寝ていたみたいで、筋肉が固まっている。まず顔の神経を起こすことから始めて、肩、腕、指先、上半身をゆっくりと動かした。深く息を吸いながら身を捩り、太腿、脹脛、足首、指先と関節を叩き起こす。なんだろう、かつてない程痛い。

 檜佐木に呼ばれてやってきた卯ノ花隊長によると、あたしは一週間眠り続けていたというのだから納得だった。
 診察は問題なし。二日ほど経過を見て退院の流れとなるようだった。

 更木隊長に知らせて参りますね、と卯ノ花隊長が病室を出て行くと、檜佐木と二人きりになった。

「……心配したぞコラ」
「ご心配おかけしました。この度も無事に死に損ないました」

 ――バン!! と、凄まじい音が響く。びくりと肩を震わせると、檜佐木が壁を殴りつけたその体勢のまま「ふざけんな」と唸った。

「死に損なっただと!? どんだけ心配したと思ってんだ!!」
「……、……」
「どれだけの人数がお前を心配して、早く目を覚ましてくれって毎日声かけていったと思ってんだよ! 俺だけじゃねえぞ、お前が思ってるより多いぞ。何なら見舞客リストアップして上から読み上げてやろうかテメエ!!」
「す、済みません檜佐木さま……」

 思わずさま付けしてしまった。
 檜佐木は俯いたまま肩を震わせる。泣いているのだろうかと手を伸ばすと、その手を掴まれ、そのまま腕の中に閉じ込められた。

「お前が思ってるよりみんな、お前のこと好きなんだぞ」
「……そう」
「お前が思ってるより、お前いい奴なんだから……死に損なったとか云うな。生きろよ。血の中に這い蹲ってでも生きて帰ってこい、ここに」

 ここってどこ。檜佐木の腕の中かなぁ。
 あたしは少しだけ笑ってしまった。檜佐木の体温は心地いい。ああ生きて帰ってきたなと、初めて思った。
 生きて帰ってくることが、できた。

「じゃあその時は、また名前を呼んでね」
「いくらでも呼んでやるよ。ホントに手のかかる相方だな……危なっかしくてうかうか放置もできやしねェ」

 相方か。最高の呼び名だ。
 檜佐木がずっと名前を呼んでくれていたから、紅鳳の世界から帰ってこられたし、意識の淵でも間違わなかった。あなたがあたしを呼ぶ声はこんなにも温かい。あたしがあなたを呼ぶ声もいつか、白々しさを越えて温もりを帯びる時が来るだろうか――……

 …………。
 ……。

「……っ、檜佐木、ちょ、放して」
「何だよ急に。ムカつくから暫らく放してやんねーぞコラ」
「みんなニヤニヤしながらこっち見てるから可及的速やかに放して!!」

「可及的」の辺りでばっとあたしを解放した檜佐木が振り返り、あたしは頭を抱えてドアの方を見遣る。卯ノ花隊長がにこにこしているのを筆頭に、真顔の更木隊長ににやにやしている草鹿副隊長、一角くん弓親くん射場さん恋次くん、極めつけにめちゃくちゃ楽しそうな顔をしている乱菊さんと阿近さんがいた。

「い、い、い、いつから!?」
「『お前が思ってるよりみんな、お前のこと好きなんだぞ』からだな」
「あ゛あ゛あ゛ああぁぁ」

 面白いこと大好きの阿近さんがいやらしい笑みを浮かべて檜佐木の声まねをする。意外と似ているのがむかつく。羞恥の悲鳴を上げながら檜佐木がベッドを殴りつけた。
 今度は一角くんと乱菊さんが見つめ合う。

「『死に損なったとか云うな。生きろよ。血の中に這い蹲ってでも生きて帰ってこい、ここに』」
「『じゃあその時は、また名前を呼んでね』」
「クセー!! 檜佐木おめえクセーよ!!」
「うううううるせえええぇぇテメェ阿散井殺す!!」
「俺ッスか!?」

 一気に賑やかになった病室をよそに、卯ノ花隊長が傍へ寄ってきた。
 あたしの頭を撫でて微笑む。

「貴女は一生赦されぬと思っていても、周りの人は疾うの昔に貴女を赦しているのですよ」
「卯ノ花隊長……」
「貴女ももっと、自分を赦す努力を……しなければなりませんね」

 その優しい言葉は痛いほど残酷で、思わず左目が潤んだ。震えながら肯くと、優しい表情の卯ノ花隊長の後ろで、「なんだ澤村泣いてんのか」「どっか痛いのか澤村」「お腹空いたのかしら」「あとりちゃん金平糖食べるー!?」とみんなが大騒ぎし始める。

 あなたたちがあたしを呼ぶ声はこんなにも温かい。

 あたしがあなたたちを呼ぶ声もいつか、白々しさを越えて温もりを帯びる時が来ればいい。


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