数日の経過観察を経てあたしは退院した。
 復帰したその日の午前中いっぱいをかけて、檜佐木や看護師さんが上げてくれていた見舞客のリストを手に、お返しとして心ばかりのお礼を持って方々へ挨拶に向かった。市丸隊長はまた不器用な手つきであたしの頭を撫で、雛森さんは涙目で出迎えてくれて、朽木さんはぷんぷん怒りながら抱きしめてくれた。あたしの無事を願ってくれている人の多さに驚きながら、死ねない、と思った。

 執務室に顔を出すと、思っていたよりも溜まった書類の数は少なかった。不知火くんが泣きながら「澤村三席ぃぃ〜〜」と抱きついてきたので苦笑いしながら受け止める。

「御免ね、一週間以上も空けて。どう?」
「いや、みんな意外ときちんと報告書上げてくれましたし隊長と副隊長も無言で捺印してくれました……なんとかなりました……」
「あら、副隊長も。それは珍しい」

 ご機嫌が余程いい時でないとはんこは退屈だと云って押してくれない副隊長が、無言で捺印とは一体どういうことだろうか。
 不知火くんは若干疲れたような顔をしていたが、ちょっと笑う。

「隊長が、副隊長がいい子にしてればすぐ目を覚ます、って仰ったみたいなんです。そしたら……」

 わんわん泣きながら。と彼に差し出された書類は、虚退治の報告書だった。相変わらず雑な捺印だ。掠れた隊印、ずれた隊長印、汚い副隊長印。報告書に滲む涙の痕。
 つい微笑んでしまったあたしに気づいて、不知火くんも笑顔になる。

「そっか」
「目を覚ましちゃったから、今日からまた押してもらうのが大変かもしれませんね」
「そうね。また、忙しくなるね……」

 なんだか嬉しくなって、そのくしゃくしゃの書類を撫でた。

 隊首室に籠もって、これまでの未処理書類を仕分けしていく。
 定時近くになれば隊長が判子だけ押しに来てくれるはずだから、それまでにやりきらなければならない。合間合間に、あたしの様子を色々な人が見に来てくれた。乱菊さんには午前に挨拶へいったはずなのにまたお茶しに来たり、朽木さんが珍しく書類を持って来たり、意味もなく一角くんや弓親くんが様子を見に来た。
 退院といっても体力まで完全に回復したわけではないので、十六時を過ぎた辺りで眠気に抗えなくなった。文机に伏せって、ちょっとだけ、と目を閉じる。



「……オイ誰か起こせよ」
「嫌だよ。一角がやりなよ」
「起こさない方がいいんじゃないすか、病み上がりだし」
「とりあえず隊長を呼んできた方がエエかのう」

 こそこそと誰かの話し声が聞こえた。何の話をしているのだろう。あたしは薄っすらと浮上した意識の中で彼らの声を聴いていた。

「オイ、何やってんだ」
「あ、隊長、シー」
「寝ちゃってるんですよ。どうします?」
「起こす」

 あ、隊長だ。
 意識が急速に戻ってきた。肩を掴まれたので目を開けると、「何だ、起きてンじゃねぇか」と更木隊長の声がすると同時に、体をぐわりと抱え上げられる。

「ひいいっ! な、何ですか隊長」
「ウルセェ舌噛むぞ」

 横抱きにされたあたしは隊首室から連れ出された。隊長はどかどかと音を立てながら寮のある方へ向かっていき、後ろから一角くんたちがついてくる。

「誘拐だー」
「相変わらず口が減らねーな」

 問答無用で歩いていく隊長が建物の角を曲がった瞬間だ。

 隊舎の中に植わっている桜の木はあたしが寝ている間に満開になったらしい。薄桃色に染まった木々の下で、見知った顔の人たちが笑顔であたしを待っていた。
 木の下でシートを敷き、お弁当やお酒を携えて、みんなが手を振っている。

「……えっと、隊長、これ」
「快気祝いだ。やちるがやりてェってウルセェからな」

「あとりちゃん!」と副隊長がぶんぶん両手を振っていた。十一番隊の隊士が大勢いる。あたしの知り合いもたくさんいた。総隊長がいたのにはさすがに驚いた。
 更木隊長が上座に座り、あたしはその横へ、そして副隊長があたしの膝へ。

「それではっ、これからあとりちゃんが元気になったことをお祝いして、お食事会をしたいと思います! あとりちゃんどうぞ!」
「え、え? あの、この度は盛大な会を催していただき――うぎゃ」
「固ェ」

 立ち上がって挨拶しようとすると隊長にお尻を思いきり叩かれた。

「ええっと、ご心配おかけいたしました。乾杯っ」
「かんぱーい!」

 盃を持ってお酌をして回ろうとしていたら、隊長が頭を叩いて「いいから病人はジッとしてろ」と諌めてきた。すると代わる代わるみんなが乾杯にやってくる。檜佐木は東仙隊長と一緒に来てくれたから、あたしは初めて個人的に彼に挨拶をした。とても優しい雰囲気の、どこか悲しさを抱いた人だった。
 さっさと酔っ払っていた乱菊さんやイヅルくんも来てくれた。結局あたしは席を立つ暇もなく、みんなとお話をした。
 いい具合にみんなの酔いが回り始めた頃、こっそりと山本総隊長がこちらを訪れる。

「総隊長! 申し訳ございません、ご挨拶もせずに」
「固くならずともよい。十一番隊で頑張っておるようじゃの」
「はい、おかげさまで……まだまだ未熟者ですが」

 にっこりと笑った総隊長があたしの頭に手を置く。
 恐れ多くて硬直したあたしに、彼はほほほと声を上げて笑った。

「よい友を持ったの」
「……はい。十一番隊に来られてよかったと思います」
「そうか」

 総隊長は「老体には夜更かしは堪える」と朗らかに笑いながら辞去していく。せめて隊舎を出るまで見送ろうとしたあたしは東仙隊長や檜佐木に止められ、彼らが代わりに行ってくれた。

 総隊長があたしを候補に挙げてくれなければ、更木隊長があたしを選んでくれなければ、今ここにはいなかった。
 きっと相変わらず自分を赦せないまま負い目を抱いて卑屈に、檜佐木と他数人しかいない狭い世界で、ひっそりと生きていたのだろう。十一番隊に来てから、市丸隊長と甘味屋さんに行ったり、雛森さんとお話をしたり、乱菊さんを乱菊さんと呼べるようになったり、朽木さんと知り合ったり、一角くんや弓親くんや恋次くんと手合わせをしたりした。あたしの世界はずいぶんと広がり、美しく色づいた。

 どんちゃん騒ぎを遠くに眺めながら、更木隊長はお酒をちびちび飲んでいる。副隊長はすでに眠気のピークを迎えたのかあたしの膝で眠っていて、隊長羽織をかけられていた。
 病み上がりということであたしはずっとお茶を飲んでいる。
 動けないあたしを気遣って、恋次くんや雛森さんがご飯を運んできてくれていたので、それをのんびりと頂いた。

「……十一番隊に来られてよかった、かよ」

 ぽつりと零した隊長の顔をぱっと見る。

「はい」

 迷いなく肯くと、くくくと彼は喉の奥で笑った。

「お前が来てからまだ三ヶ月か」
「……もう三ヶ月、ですよ」

 空になった隊長の盃にお酒を注ぐ。すぐ傍でみんなが酔いつぶれたり大騒ぎしていたりするのに、あたしと隊長の周りだけやけに静かだった。人が寄ってこないというのもあるし、隊長がとても静かにお酒を飲んでいるからというのもあるだろう。お茶を注いだ湯呑に桜の花びらがひらりと浮かんだ。
 ざあっと風が吹いて花びらが散る。

 隊長があたしに片手を伸ばして髪に触れた。
 太い指先が不器用な手つきで髪を撫でるのがくすぐったくて思わず目を瞑ってしまうと、どうやら絡まっていたらしい花びらを掬って取り除いてくれる。

「済みません」
「つけたままでも良かったがな」
「はあ……?」

 そのまま数度髪を撫でられ、指を差し込まれて、撫でられる。
 更木隊長はこんなにも見た目が怖いのに、どうして時々驚くほどの色気を出してくるのだろう。ちょっと心臓に悪い。居心地が悪くてどきどきしながら体を固くしていると、その指先は耳を掠めて、頬を撫で下ろす。
 居た堪れなくなって口を開いた。

「……隊長のエッチ」
「…………」
「…………」

 いつしかの三番隊との合同演習のあとに行った宴会で、弓親くんが云った台詞だ。
 隊長が動きをピタリと止めて、ニヤァっと笑う。
 あ、嫌な予感がする。
 ざっと立ち上がろうとしたものの膝には副隊長が寝ていて、一瞬まごついたその瞬間、隊長の腕が伸びてきてあたしを引っ捕まえた。

「ぎゃー! 誰か助けてー!」
「ハーッハハハハ」

 まるで戦っている時のような高笑いを上げながら襲い掛かってくる隊長に捕まり、副隊長を起こさないように気をつけたせいでろくな抵抗もできやしない。
 そのまま首にがぶりと噛みつかれて引き攣った悲鳴を上げると、そこでようやく助け舟が入った。

「あーっ、ヤダぁ隊長があとりを襲ってるぅ」
「隊長やれやれ! いっぺん痛い目見た方がいいんスよ澤村は!」

 全然助け舟じゃなかった。

「弓親くんも一角くんも明日憶えてろ!!」
「「ギャハハハハ」」

 ちょっと十一番隊に入ったことを後悔したあたしだった。
 総隊長を送ってから戻ってきたあたしの良心・檜佐木に助けられるまで、あたしはギャーギャー騒ぎながら隊長たちにおちょくられていた。


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