瀞霊廷の空は今日も青い。

 息抜きがてら書類を届けにやってきた先の三番隊々舎で、あたしはつい足を止めて空を仰いでしまった。ずっと執務室に籠もっていたせいか自然光がひどく眩しく、目の奥がぎゅっと痛む。
 春の太陽は優しく、雲の切れ間から柔らかな光が漏れてきて綺麗だ。

 平和だ。
 平和が一番だ。
 じわじわとその感慨に染み入っていると、背後から頭を叩かれた。

「なァにボケっと突っ立ってんの、あとりちゃん」
「あ、市丸隊長。またおサボリですか? だめですよ、隊士を泣かせちゃ」
「ちゃうもん、仕事の合間の息抜きやもん。あとりちゃんのお茶が飲みたなったから十一番隊へ行くところやもん」
「はいはい、この書類差し上げますから隊首室にお戻りください」
「冷たァい」

 ぶー、と唇を尖らせた市丸隊長にくすくす笑うと、彼は糸目をほんの少しだけ緩めてあたしの頭に手を置いた。
 遠慮なく触れるようでいて、どこか恐る恐る。くしゃりと髪の毛を乱すように撫でてから、不器用な彼は軽薄に笑う。

「お大事にしや」



 帰りがけに通りかかった五番隊では、書類を抱えてよろよろと歩く雛森さんと会った。
 彼女は十一番隊の隊首室でお話をして以降、鬼道を磨くことを決めたらしい。二重詠唱や詠唱破棄のコツを聞きにくることもしばしばだ。これは頑張らないとあたしもすぐに追い抜かれるなと、戦々恐々としているところである。

「あとりさん!」
「こんにちは。少し手伝おうか?」
「いえ! 鍛錬代わりにしているんです。頑張ります!」

 明確な強さの目標は見つかったらしい。
 憧れへ向かって頑張る彼女の瞳はとても美しかった。



 そのあとで通りかかった六番隊の廊下では、朽木隊長とすれ違った。
 立ち止まって頭を下げる。隊長への挨拶としては普通のものだったが、彼はなぜだか数歩進んだ先で足を止めてあたしを振り返った。
 顔を上げると、目が合った。
 あの時助けられてから、朽木隊長と言葉を交わしたことは一度もない。恐らくあたしのことなど忘れているはずだった。
 案の定、何かを云うわけでもなく、朽木隊長はまた歩き出す。
 だけどそれでよかった。
 あたしが勝手に誓っているだけなのだ。朽木白哉という人が困ることがあろうものなら、いつか全力で助けに行こうと。
 あの人の視界にあたしなど入らなくていい。



 十番隊の隊舎前を通りかかったら、乱菊さんが手を振っていた。つい笑顔になってそちらへ寄っていくと「お菓子あるから寄っていきなさいよ」と招待された。
 恐れ多くも隊首室の応接間に通される。

「ケガはどう?」

 乱菊さんの淹れてくれたお茶を飲みながら、「もうばっちりです」とピースサインをした。「よかった」笑いながら、乱菊さんもお茶を飲む。
 十三番隊の志波三席が亡くなってから少し落ち込んでいた様子だったうえ、直後にあたしが死にかけたというので、一時心配なくらい沈んでいたと一角くんから聞いている。すっかりいつも通りになってくれてよかった。

「あんたは、あたしより先に死なないでね」
「……檜佐木とおんなじこと云わないでください」
「あら、被っちゃった。何て云われたの?」
「何でしたっけ……『俺が死んだあと墓を建てて、昇進して隊長か副隊長にでもなって、しわくちゃの婆さんになるまで死神やって、年齢とともに引退して、そんで色んな人に囲まれて惜しまれながら死ね』、だったと思います」
「そうね、それがいいわね」

 それがどれだけ難しいことだか、お互いよくわかっているはずだった。
 だけれど、それでも、願わずにはいられなかった。



 十番隊で書類を何枚か貰って十一番隊へ帰ると、「あ、澤村三席ちょうど良かった! 十三番隊から書類が届いてますから確認お願いします」と不知火くんが顔を出した。その後ろから、書類を胸に抱いたルキアが現れる。

「ルキア。御免ね、待った?」
「いえ、丁度今来たところです」

 顔を赤くした彼女が「ルキアと呼んでほしい」と申し出てくれたのは、あたしが昏睡状態から回復した二日後の快気祝いの宴の時だった。
 彼女も乱菊さんと同じく、志波副隊長の一件からしばらく落ち込んでいたうえあたしが瀕死になったと聞いて盛大に泣き腫らしたと浮竹隊長に聞いた。
 応接間へ案内して書類を預かり、お茶とお菓子を出す。今日のお菓子はかりんとう。

「このかりんとう……」
「美味しい?」
「はい、とっても」
「よかった」
「あとりさんが以前に出してくれたおはぎもとても美味しかったです。……海燕殿が、おはぎが好きで」
「そうだったの」

 海燕殿、という名前を出す瞬間、少しだけ痛みを堪えるような表情をする。
 だけどその目は強くなった。
 強くなる人の美しい目だ。



「澤村! 怪我した!!」
「四番隊へどうぞ」
「四番隊よりお前の方が腕がいいんだよ!」

 ドタドタと駆け込んできた一角くんと弓親くん、その後ろからは恋次くんだ。三人ともダラダラ血を流している。虚討伐の任務に出ていたはずだがまた無茶なことをしたようだ。
 溜め息をつきながら回道を施し、救急箱で治療していく。
 十一番隊の人みんなの怪我を治していられる程あたしも暇ではないのだけれど。

 血止めの薬は活躍しているようで、一角くんなんて斬魄刀に仕込むとか云って阿近さんのところへ持って行ったみたいだった。

「報告書は――」
「三日以内に上げてください、だろ。憶えてるっつーの」
「最近は一応他の隊士も上げるようになってきたでしょ? 一角がね、同行する平隊士にめちゃくちゃ云うんだよ、自分だって今まで全然書かなかったくせにね」
「弓親ウルセーぞ!!」
「それで最近、きちんと書類が上がるようになってきたんですか。有難うございます」
「…………」

 ピタリと一角くんと弓親くんの云い合いが止まった。
 恋次くんの腕の傷を治しながらそちらを見る。

「何だよ、最近ようやく気色悪ィ敬語がなくなったと思ったのによ」
「本当にね。ボクらの方が席次は下なのにさ」

「…………」ぱちぱち瞬いて、そういえば、と思い当たった。
 恋次くんも「そういえばそっすね」と呟く。死神は見た目で年齢やキャリアを測れないことが多いので、相手の年齢や学年がはっきりするまで基本的に敬語を使うことにしている。加えて十一番隊という未知の領域に来ることで無意識に警戒でもしていたのかもしれない。

「……まあ、ぼちぼちってことで」

 包帯を取り出して恋次くんの腕に巻きながらそう呟くと、弓親くんが仕方ないなと云いたげに笑った。

「それもそうだね。死神の人生は長いんだし」



 回覧の書類を十二番隊へ持って行く。大体十二番隊の隊舎には誰もいなくて技術開発局にいるものだから、あたしは直接そこへ向かった。
 だいぶここへ来ることも多くなり、技局の人もあたしの顔を憶えてくれるようになっている。

「あっ、済みません、隊長と副隊長がいないので阿近さん呼んできますね」
「有難う、リンちゃん」

 いつも仲介してくれるリンちゃんがひょこひょこと研究室へ消えていき、暫らくしてから阿近さんが連れられて出てきた。仮眠中だったのか眠たげにしている。

「ああ、澤村か」
「お休み中失礼しました。書類をお持ちしました」
「右目は調子どうだ?」
「相変わらずです。完全に見えなくなったら義眼お願いしますね」
「……霊圧の方は?」
「そっちはだいぶ制御できるようになりました」
「そうか、残念だ」
「残念って何ですか」

 ちょっと笑いながら書類の確認を待つ間、リンちゃんがお茶をくれた。技局の人の大半は信用できないのだが、この子は素直でいい子なのでお茶を受け取る。……まあ、味は微妙だけど。

「問題ない。隊長に渡しておく」
「宜しくお願いします」
「…………」
「阿近さん?」

 じっと見つめられて首を傾げると、彼はふっと口元を緩めると、書類であたしの頭を叩いた。

「良い顔するようになったな」
「……はい」
「またな」

 真央霊術院時代、霊圧の制御もできずくさくさ悩んでいたあたしを、その技術で救って見守ってくれた阿近さん。付き合いの長さで言えば檜佐木の次。
 その人が、良い顔をするようになったと云ったのだ。きっと本当に良い顔をしているのだろう。



 瀞霊廷に、月が昇る。

 障子窓を開けると、高い位置に真ん丸の満月が浮かんでいた。僅かに吹きこむ風は温かみを帯びて、その心地よさに目を瞑る。

 今日も今日とて定時間際にやってきた更木隊長と草鹿副隊長は、書類の中身を確認もせずぺったぺったと判子を押して帰っていった。残業するあたしは、明日に処理する書類や他隊へ回すものの仕分けをしている。何人かはあたしが残業することを心配してくれていたが、もういい加減大丈夫だからと追い返した。

 深く息を吐き出すと、覚えのある霊圧がひとつ、隊首室へ向かって歩いてきていることに気がついた。隊首室の前で立ち止まったその人の陰が、月明かりを受けて障子に映っている。

「また残業してんのか、お前」

 声をかけて障子を開ける前に、檜佐木は遠慮なく隊首室へ入ってきた。仮にも隊首室なのだが、最近みんなは気軽に出入りしてくるようになっている。まあいるのが大体あたしだから気楽なんだろう。

「檜佐木? どうしたの」
「どうしたのじゃねえよ、病み上がりが残業すんな」
「いい加減病み上がりでもないと思うんだけど」

 あたしが退院してから、すでに一週間が過ぎていた。
 苦笑しながら書類をトントンと文机で叩いて隅を整える。檜佐木は溜め息を吐きながら横にしゃがみ込んできた。

「心配にもなるっつーの。お前一週間も寝てたんだぞ」
「あはは! ご心配おかけします」
「今から帰るところだろ? さっさと片づけろよ」

 灯りを消して隊首室を出て、檜佐木と二人並んで寮へ向かう。
 今日ね、朝に市丸隊長と会ってね、その帰りに雛森さんとも会ってね、朽木隊長ともすれ違ったの。それでね、乱菊さんにお呼ばれして十番隊でお茶してね、隊舎に帰ったらルキアが来てくれてね、一角くんたちがケガして帰ってきてね。夕方になったら十二番隊で阿近さんとお話したの。
 今日の出来事をぽつりぽつりと話すと、檜佐木は少しだけ微笑んでいちいち相槌を打ってくれた。

 十一番隊寮への入口で立ち止まる。
 檜佐木はぽんぽんと頭を撫でて、「まあ楽しそうでよかった。最初はどうなるかと思ってたけどな」と安心したように表情を緩めていた。そうだった。配属される前は、十一番隊は無理だ怖いと檜佐木に泣きついていたのだっけ。

「檜佐木」
「なんだよ、うおっ」

 どすっ、と檜佐木の胸の中に飛び込んだ。
 昔は少し突進したらよろめいていたくせに、しっかりと抱き留めてくれるその腕の中で、祈るように目を閉じる。

「ありがと」
「……おう」


 あたしたちは歩みを止めてはならない。
 その道が血に塗れていても、地面が見えないほどの死体に覆い尽くされていても、いずれ別たれるとしても、鎖されるとしても。これから先何があっても、死ぬような思いをしても、もしかして刃を向け合う時が来たとしても――歩みを止めることは赦されない。意志だけは、心だけは、志だけは死なせてはならないから。


 だからきっと生きて帰ってくる。

 例え血の中に這い蹲ってでも、この場所へ。



<了>


***

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