序 その花の名を知らず



 瀞霊廷の空は今日も青い。
 相も変わらず十一番隊第三席におさまっているあたしが、回覧書類を届けに来た先でぼけっと空を仰いでいると、大体誰かがちょっかいをかけにくる。話しかけてもらえるというのは光栄なことだ。少なくとも嫌われてはいないということだから。
 愛の反対は無関心だと、現世で偉い人が云ったらしい。金言である。

 超戦闘部隊・十一番隊。
 そこで唯一の――そう、唯一の頭脳派系まともな死神としてあたしが名を馳せて、長い年月が経った。
 死線を彷徨ったあの日から、隊士たちは少しずつ書類仕事をしてくれるようになっていった。主に一角や弓親、そして我が右腕・銀爾くんの功績である。
 およそ十年をかけてようやく借金という名の未払い修繕費を返し終え、隊の備品も充実するようになってきたことで、書類特に任務を終えたあとの報告書の大事さに気づいたらしい。
 他隊にとっては遅すぎる自覚であるが、更木隊の長い歴史から見ると革新的な意識改革だった。ここまで本当に苦労した。よく禿げなかったなあと我ながら思う。


「澤村三席」


 背後から近づいてくる気配に振り向くと、ルキアが立っていた。
 仲良くなってからはあとりさんと呼んできていたというのに、珍しく席次を口にした彼女は、少しだけかしこまった表情をしている。

「ルキア。……そうか、今日が出発?」
「これから穿界門より現世へと出立致します。あとりさんにはどうしてもご挨拶したかったので」

 彼女は強くなった。恐らく実力的には十三番隊で席官入りしてもおかしくないだろうし、このまま成長が続けばいずれは隊長格になることも不可能ではない。だけれど、どこの義兄がそれを望まぬのやら、ルキアは平隊士として現世駐在任務へと赴くこととなったのだ。
 強くなりたい。そう望んだ彼女と稽古を交わしたことも数知れぬし、甘味屋さんや雑貨屋さんで色んな話をしたこともいい思い出だ。

 凛々しくなったな、と勝手ながら姉のような目線になってしまう。
 ルキアの大人びた少し堅苦しい口調は、いよいよその可憐な見た目にすら似合うようになってきた――そんな風格が出てきた。

「あとりさんは現世の駐在任務に就いたことがあるのですか?」
「それがないから、ルキアのお土産話、楽しみにしてるね」
「……不安は大きいのです。しかし、避けられる任務でもありませんから……精々経験を積んで、あとりさんのようになれるよう精進して参ります」

 そんなに自分を追い詰めなくとも――と内心で思いつつも、彼女がこのように頑なに自らを卑下する原因を知っている身としては、軽々しい口出しはできない。

 朽木隊長とルキアの義兄妹仲がいまいちうまくいっていないことは彼女から聞いている。
 朽木隊長がルキアを養子にとったのは亡くした愛妻によく似ていたからだというが、それならば彼の人は、愛した女性とよく似た顔の女の子を毎日毎日見てどんな気持ちでいるのだろう。
 顔のよく似たルキアを甘やかして彼自身を慰めているという風でもない。
 朽木隊長の真意がわからないなと、最近のあたしは訝しく思っている。

「帰ってきたらまた、美味しい甘味屋さんに連れていってくださいね」
「じゃあルキアが帰ってくるまでに、新しいお店を開拓しておく」
「楽しみにしています」
「気をつけてね」

 そんな凡庸な言葉しか出てこない。
 確かに長らく離れ離れになることは寂しいが、ルキアなら大丈夫だろうと思ったから、余計な言葉はいらなかった。

 書類を持っていない方の手で頭を撫でてあげると、ルキアは少しくすぐったそうに笑う。誰かに頭を撫でられた記憶がないから、あたしのこれがとても好きだと、恥ずかしそうに目を逸らしながら云ってくれたのは仲良くなってすぐのことだったな。
 あたしは割りと檜佐木を筆頭に隊長や副隊長など、頭を撫でたり鷲掴んだりどついたり小突いたりが多い人たちとの交流があるのだが、そういった人たちと触れ合うことのできる幸せというものを、その時感じたように思う。

「行って参ります」

 ルキアが深くお辞儀をする。背筋の伸びた美しい礼だ。
 行ってらっしゃい。そう返しながら手を振ると、ルキアが名残惜しげに手を振りながら遠ざかっていく。その背中が小さくなっても見守っていたら、やがて何度も何度も振り返り始めた。
 振り返っては手を振り、振り返っては手を振る。なんだかこっちまで寂しくなってきてしまった。

 そうして彼女が角を曲がるまでずっと眺めていた。


 この時は、現世へ旅立った彼女に何が起こるのか、そして尸魂界に何が起きるのか、当然知る由もなかった。




あたしたちは その花の名を知らず
枯れゆくその涯を顧みず
老いさらばえるその死を懼れず
終わらない夢を見ている






 十三番隊所属、現世にて駐在任務中の朽木ルキアの霊圧反応が途絶えた。
 生死は不明。行方不明扱いとし、今後隠密機動にその捜索を委託するものとする。





そうしていつか痛みを知り
刃を向けあう時が来たならば
あたしたちはそれを、運命と呼ぶだろうか。





「失礼致します。十一番隊第三席澤村あとりです。東仙隊長は御在室でしょうか」

 九番隊の隊首室前で声をかけると、障子を開けて顔を出したのは檜佐木だった。
 持ってきた書類を手渡すと「昼飯食いにいこうぜ」と誘われる。今日は仕事も落ち着いているので、二つ返事で了承した。

「今度、乱菊さんが飲み会やろうって。お前のとこにも声かかると思うからちゃんと来いよ」
「書類がとっとと終わったらね」
「終わらせろ」
「そんな無茶な」

 檜佐木と二人で食堂へ向かっていると、女性隊士からの視線をちらほら感じた。中にはわざわざ近寄ってきて「檜佐木副隊長、お疲れさまですっ」と可愛らしく挨拶していく隊士もいる始末。
 慣れているといえば慣れているが、毎回こんなむっつり助平野郎のどこがいいんだろうなと不思議になる。

「お前今失礼なこと考えたろ」
「滅相もない」

 何でわかるんだコイツ。
 お昼時の食堂は賑わっていたが、席が全くないというわけではない。定食を頼んでから空いていた二席に腰を下ろすと、少し離れたところから「あとりっ、しゅうへーい」と乱菊さんが手を振ってきた。今日も今日とてこぼれそうなお胸だ。
 乱菊さんと一緒にいたのは彼女の酒飲み仲間たちで、その中には数年前あたしと席次を並べることとなった一角や、七番隊に異動して副隊長へ上り詰めた射場さんがいた。手を振り返すと彼らも手を挙げてくれる。

 月日が流れるとともに、護廷十三隊も大きく変動した。

 一角が三席に昇進したのはその筆頭だが、それに伴い弓親が五席へ、銀爾くんは四席になった。射場さんについては先述の通りだが、他にも多くの仲間が異動・昇進し、そして死んだ。
 イヅルくんが三番隊の副隊長へ。雛森さんは念願叶って五番隊副隊長へ。恋次くんは先日六番隊副隊長昇進の辞令が出たところで、二週間後には任官式が執り行われる。十番隊の隊長が変わったことも大きな変化だろう。
 しかしその中にあっても、十三番隊の副隊長の席は空白のままだった。

「澤村。ついてる」
「う」

 急に檜佐木に頬をどつかれて呻く。指の背で唇を撫でられたと思ったら、お米がくっついていた。どうやら考えごとに耽っていて気づかなかったみたいだ。
 しょうがない人を見るような目をこちらに向けてくる檜佐木と視線がかち合う。端正な顔。右目を貫いて伸びる三本の傷跡。左頬の刺青。なんにも変らない、彼との距離。
 変わらないでいることの難しさ。

「云ってくれたら自分でとるのに」
「なんかお前相手だと考える前に動いちゃうよな」
「あーそれ彼女できないやつーできてもまた『私と澤村三席どっちが大事なんですか』って云われてフラれるやつー」
「抉るなよ傷を!」

 全力で頭を叩かれてちょっと笑った。楽しくじゃれ合うあたしたちの傍へ乱菊さんたちがやってきて、三倍ほど賑やかになるのもいつものこと。
 そうやって人がどんどん集まってくる。
 その人の輪の中に自分がいることを不思議に感じる。
 だけどその不思議すら幸せなことだと、今のあたしはよく知っている。

 食堂を出てそれぞれの隊へ帰る途中、檜佐木がふいにあたしの手を握りしめた。

 往来の真ん中で急にどうしたのだろうと訝しく思って振り返ると、もう片方の手で頭を押さえて阻まれる。
 檜佐木はいつもあたしの死角が多い右側を歩いてくれるから、振り返るのを止められると彼の姿が見えなかった。顔を見られたくない理由でもあるのかな。
 顔を見る気はないと伝えるように、振り返る力を緩めて前を向く。檜佐木はあたしの一歩後ろを黙ってついてきた。

 また何か悩んでいるのだろうか。頼りがいのある副隊長を一生懸命やっているこの相方は、時々悩まなくていいことを悩んだりどうしようもないことに心を痛めたりしてしまうから、適度にガス抜きをしてやらなければならない。

「澤村」
「なに、檜佐木」

 弱気な彼の声を聞いた瞬間、ふっと思い出した。

 そういえば、現世に任務へ赴いた檜佐木の救援に応えて出動したあたしが瀕死の重傷を負って一週間眠りこけたのは、桜のつぼみが膨らみ始める丁度今頃だった。
 昏睡状態から目を覚ましたらいつの間にか満開になっていたんだっけ。
 ちょうど九番隊の隊舎の近くまで来たところで、はらはらと散っていく桜が目に入る。

「時々怖くなるんだ」

 檜佐木も同じものを見ていたのだろうか。

「お前は何だかんだとすぐに無茶をするから、いつかあっさり俺を置いていくんじゃないかってさ」

 ――俺を置いて行かないでくれ。
 いつだったか、意識を失いかけているあたしの手を強く握った檜佐木が、泣きそうな声でそう叫んだことを思い出す。心配をかけている自覚はあったから茶化すこともできなかった。
 穏やかな気持ちで、桜の樹を見つめる。

「うん、でも、檜佐木が名前を呼んでくれるから大丈夫」
「……莫ァ迦」


 何があっても、死ぬような思いをしても、きっと死んでも――血の中を這い蹲ってでもここへ戻ってくると決めている。
 道に迷ったらあなたが名前を呼んでくれる。
 だからあたしはそれに応えて目を覚ます。


「だいじょうぶだよ。檜佐木」


様で何が悪い


第二部、花の名前



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