「よう」

 と酒瓶片手にあたしの部屋を訪れた檜佐木は、何を云うでもなく隣に座った。
 縁側に二人並んで酒を口に運ぶ。今日の月はひときわ大きい。

 一緒にいるのに無言を決め込んでからはや一時間、檜佐木が持ってきた酒はあたしが以前飲みやすくて美味しいねと云った銘柄で、ああ気を遣わせているなあと申し訳なくなった。

 温もりが伝わる程の距離にいる彼の肩に頭を預けてみる。
 檜佐木はやはり、何も云わなかった。
 これが彼女とか恋人とかいう立場の女の子だったなら、檜佐木だって肩に手を回したり接吻をしたりして慰めるのかもしれない。……が、ちょっとあたしと檜佐木とでは想像できなかったので潔くその光景は振り払った。

 あたしは何も云わないし、檜佐木も何も云わない。それでいい。
 それでいいのだ。
 ここのところ二日に一遍はこうして檜佐木が寄り添ってくれるから、余計なことを考えながらも、正気を保っていられる。

「……そういや、阿散井の奴が心配してたぜ」
「そっか……そうよね」

 いい具合に酒が回ってうとうとし始めたあたしが囁くように返事をすると、檜佐木がちょっと笑いながら「お前、眠いんだろ」と頬を突いてくる。迫りくる眠気に抗えず、そのまま彼に体重を預けると、ひとつ小さく溜め息をついて檜佐木はあたしの体を抱え上げた。

 一旦畳の上に寝かされて、檜佐木の大きな羽織がばさりと降ってきた。背後でごそごそと布団を敷いている音がする。

 やがて意識が泥の中に引きずりこまれそうになった頃、再び優しく抱き上げられ、この間打ち直しに出したばかりのふかふかの布団に下ろされた。
 壊れ物を扱うようなその手つきが少しくすぐったくて、照れくさくて、多分あたしは少しだけ笑った。

「ゆっくり寝ろよ。明日は非番だったろ」
「ん……」
「……あんま思い詰めるな」

 薄く目を開けると、何か大事なものでも見るような目つきの檜佐木がそこにいて、乱れた前髪を指先で整えてくれている。



過日  現世にて行方不明となっていた東梢局十三番隊所属朽木ルキアの霊圧を捕捉 隠密機動からの報告を受けて中央四十六室は当該死神を重禍違反者として認定 六番隊々長朽木白哉・同副隊長阿散井恋次へ確保又は始末の指令を下す

両死神とともに現世へ帰還した朽木ルキアは六番隊牢へ拘置
のちに中央四十六室から下された裁定は以下の通り


第一級禍罪 朽木ルキアを極囚とし
これより二十五日の後に真央刑庭に於いて極刑に処す



一 西方郛外区に歪面反応




 十一番隊は相も変わらず脳筋部隊だが、以前に比べるとまともに書類に手をつけるようになった。
 教育の甲斐あって大半の隊士は領収書を切れるようになったし、一応報告書も声をかければ三日後には提出されるようになった。それでも期日を越えることは多いが、前のことを思えば驚くべき進歩だ。いくら褒めてもおっつかない。

 残業してどうにか片づくだろうかという目処でいた月末処理が、意外にも定時よりずっと早く終わってしまったあたしは、ちょっと途方に暮れていた。
 普段こんなことばかりしていると、不意に仕事が早く終わった時にやることがない。
 しばらく窓の外から見える空を眺めていたものの、がたりと文机を揺らしながら立ち上がる。抽斗の中から手拭を取り出し、組紐で髪を結い上げると、『只今外出中 用が有れば道場へ』という札をかけて隊首室を後にした。



「失礼致します!」

 一礼して道場へ入ると、稽古をしていた隊士たちがざわめく。
 珍しく袖を通した道着の襟を正して、壁に掛けてある木刀を握った。

 道場へ行った先で隊長や一角たちにつかまるならまだしも、明らかに稽古をする格好であたしが道場へ行くことはあまりない。平隊士三人を軽々と吹っ飛ばした隊長が目を丸くして「オウ、どうした」と声をかけてきた。

「隊長。お相手をお願いします」
「どうしたんだよあとり、珍しいじゃねーか!」

 一角がニヤニヤしている横をすり抜けて隊長のもとへ向かうと、みんながぞろぞろと道を開けていく。

 いつも通り死覇装の上半身を脱ぎ去った隊長が、木刀を肩に載せてポンポンと叩いた。
 その正面に立って一礼し木刀を正眼に構える。もとより隊長が拒否するわけがない。半歩ひいて構えると隊長は口角を釣り上げながら刀を肩から下ろし、「先に打ちこませてやる」と仁王立ちした。

 いつもこうやって先手を譲ってくれるが、先手を頂いて勝てたためしなどない。

 いつの間にか道場内は静まり返っている。
 副隊長を除けば実質的に隊のツートップが向かい合っている状況だ。緊迫した空気すら漂っていた。

「――参ります」

 だん! と一歩踏み込むが早いか木刀を袈裟に振り下ろす。隊長は腕でそれを受け止め刃を振るってきた。凄まじい剣圧に体をのけ反らせると、髪を結っていた組紐を早速持って行かれて髪の毛がバサリと広がる。
 木刀とは思えない音を立てながら繰り出される剣戟を躱し続けて、じりじりと道場の端へ追いやられていく。

 隊長の姿が消えた。
 僅かに聞えた鈴の音に振り返り咄嗟に木刀を掲げる。
 その木刀を小枝のように粉砕する隊長の剣圧。

 瞬歩で壁際へ退避し、壁に掛かっている木刀を引っ掴んで追ってきた隊長から逃げる。落ち着いて体勢を立て直し、高笑いとともに斬りかかってくる彼の斬撃を避け、いなし、剣戟を繰り出しては避けられ、受け止められ、考える前に体が動く、息をつく間もない応酬が続く。

「刀が軽ィ」
「っ……! ボロですから、ねっ!」
「違ェ。手前何を考えていやがる」

 不快そうに眉を寄せた隊長に腹部を蹴り飛ばされ、見学していた隊士の中に吹き飛ばされた。

 銀爾くんら数名を犠牲に転がったあたしがすぐさま体を起こすと目前に迫っていた隊長が頭上から木刀を振り下ろす。
 十字に受け止めると、掌から肘に至るまで容赦ない痺れが駆け抜けた。
 力で押し負ける前に思いきり床を蹴って両脚で隊長の腕に絡みつき、「おっ」と一瞬体幹を崩した彼の木刀から逃れ、その胸板を蹴って瞬歩で背後を取る。

 床を蹴り、壁を蹴り、天井を蹴って隊長の頭上から木刀で斬りかかるがその横っ腹を一薙ぎされ、またも隊士たちの中に突っ込んでいく。
 さすがに今度は受け身も取れず、殴打の衝撃で嘔吐した。

「何か他のこと考えながら俺に挑んで勝てるとでも思ってんのか」
「勝てるとは、元より――思ってませんが」
「気に食わねえな」
「っ、あ!」

 木刀を持っていない方の手で首を掴まれ、道場のど真ん中で床に引き倒される。
 本気ではなかろうが首を絞め上げられて息が詰まった。

「ゴチャゴチャ考えながら剣振る女に育てた覚えはねェ」
「た、たいちょ……ギブ、ギブギブ死ぬ死ぬ死にますッ」

 木刀を放り投げて床を叩く。ほどなくして隊長の手が緩むが暫らく立ち上がれなくなっていたあたしを、弓親が苦笑いしながら助け起こしてくれた。
 呆れたような顔の隊長があたしを見下ろして、「手前は時々どうでもいいこと悩みすぎなンだよ」と吐き捨てる。
 その一言に手合わせ終了の合図を読んだ一角が、「ほんじゃ隊長次俺で!」と勇んで飛びかかっていった。

「ふ、普通嘔吐中の隊士の首を絞めるか……吐瀉物が喉に詰まって窒息死するわ……」

 弓親に背中をさすられながら呪詛を吐くと、彼は「まあ隊長だしね」と苦笑いを零す。

 ――手前何を考えていやがる

 座りこんだまま息を落ち着けるあたしの傍へ、雑巾片手に銀爾くんが「片づけますよ」と駆け寄ってきた。自分の吐瀉物を他人に拭かせる趣味はないので、問答無用で雑巾を引っ手繰る。

「お見事でした。隊長相手にあそこまで粘れるのなんて澤村三席か斑目三席くらいですよ」
「あはは。情けなくなるからやめて頂戴……」

 粘ったといったって結局一撃も打ちこめないまま敗けたのだ。手も足も出なかったと云うに等しい圧倒的な敗けだった。
 道場の床を拭く脳裡に、十日前、面倒くさそうな顔で隊首会から帰ってきた隊長に告げられた言葉が蘇る。


『第一級重禍罪 朽木ルキアを極囚とし、これより二十五日の後に真央刑庭にて極刑に処す』


 これを聞かされて以降、焦りと不安、拭い去れない違和感に、どうしても胸が落ち着かないでいた。
 中央四十六室の決定は覆らない。恐らく身内の朽木隊長も減刑を請うことはないだろう。何かできることはないか。あるはずがない。極刑を回避する方法はないか。――四十六室の決定は絶対。

 無言で掃除を終えて外の水場で雑巾を洗っていると、弓親の足音が近づいてきた。

「例の極囚が心配?」

 あたしとルキアの仲がいいことは十一番隊の上位席官は大概知っている。
 手を止めて振り返ると、彼は肩を竦めてあたしの傍らに立った。

「隊長と一角もなんだかんだ心配してるんだよ。頭カラッポにしたいならまた挑んでおいでよ」
「……そんなに何回も隊長にぶちのめされてたら死んじゃうわ」
「ま、骨は拾ってあげる」

 なんとも無責任な部下の言葉に笑みが零れる。
 ルキアが行方不明になった時期から、一角や銀爾くん、弓親たち上位席官があたしを気遣うような態度を見せ始めたことには気づいていた。全く十一番隊はいつの間にこんなアットホームな部隊になったんだろうと思う。

「心配、というか。……気になることがあって」
「気になること?」

 首肯しながら、口は噤んだ。
「でも話してはくれないんだね、ハイハイ」弓親がひらりと手を振りながら背を向けて道場へ歩き出す。あたしも雑巾の水分を絞ってそのあとに続き、隊長と一角が激しくやり合っているさまを遠目に眺めた。

 気になることがある。
 でも根拠がない。確信が持てたとしても、これを誰に話せばいいかわからない。内容によっては誰か他隊で信頼のおける隊長に頼る事態になるかもしれなかった。
 考えすぎであればいい、と思う。


『――警戒令!』


 瀞霊廷に一気に緊張が奔った。
 隊長と一角も手合わせをやめて動きを止める。ざわついた隊士たちは警報の発する方角へ顔を向けて首を傾げた。

『西方郛外区に歪面反応! 三号から八号域に警戒令!!』
「……なに?」

 初めて聞く警戒令だ。

「あとり。何だありゃ」
「あたしも初めて聞く警報ですが……恐らく西流魂街方面に、正規でない穿界門を無理やり抉じ開けて何らかの侵入者が現れるものと思われます。実際に現れるは数百年ぶりのはずですが、旅禍と呼ばれるものかと」
「旅禍ねぇ」
「三号から八号域ということは十一番隊に出動指令はないでしょうが、一応守護配置の確認だけしておきましょう」
「面倒クセェ。任せる」
「仰ると思いました。……隊首会召集の可能性もありますから、ちゃんと出席してくださいね」

 しっしと手を振られた。――あたしは犬か。

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