月末は忙しい。
何故かというと、月次会計と行事、及び現世の駐在任務に就く隊士の報告書の〆切がいっぺんにあり、さらには諸々の庶務事項の報告書やら来月度の計画書も提出しなければならないからだ。
更木隊は今までこれらを踏み倒してきている。
予算と駐在任務の報告書だけは、なんとか射場四席と不知火七席が体裁のみ整えて出してくれていた。しかしそれ以外はからっきしなのである。
一番隊に所属していた時は山本総隊長や雀部副隊長は文句を云っていたものの、それによる処分は考えていないようで、若干「まあ更木隊長なら仕方ないか」といった感じの諦めが見え隠れしていた。
あたしは十一番隊で初めて迎える月末に疲労困憊していた。
「領収書がないと予算は切れません」
「何でだよ! 必要経費だっつってんだろ!」
「そのくらい何とかしろよ三席殿よォ」
「何を云われても、領収書の提出がない限り経費とは認めません。来月からはきっちりお店の方に領収書を貰ってきてください」
「チッ……調子乗ってんじゃねぇぞクソアマ」
クソはこっちの台詞だ。
「草鹿副隊長、このお菓子は必要経費として認められません」
「えー何でー!?」
「何でもなにも、お菓子は自腹で払ってもらわないと十一番隊の財政が破綻します。何ですかこの金平糖百袋ってふざけてるんですか」
「金平糖おいしいよ?」
「そうじゃなくてですね、とにかく経費は落としません」
「あとりちゃんのケチー!」
誰がケチだこの金平糖幼女め!
「隊長、今月の虚討伐件数ですが」
「あ? 知るか」
「知るかではなく……業務報告ができないのですけど……」
「隊士に訊けば答えんだろ」
「いちいち本人に訊いて回れるわけないじゃないですか! 何人いると思ってるんですか!」
「適当に報告しとけよ」
この脳筋眼帯鈴野郎っ!!
「あとりちゃん、元気ないー」
隊首室で少しだけ休憩しているあたしを、草鹿副隊長がつんつんと突いてくる。
全く提出されない領収書、集まらない現世からの報告、〆切が迫るばかりで全く進まない仕事にあたしは爆発寸前であった。
「ね、遊ぼ!」
「済みません、あたしはお仕事がありますので一角くんと遊んでください」
「あとりちゃん前もそう云ってたよ! 遊ぼ!」
「済みません、あたしはお仕事がありますので一角くんと遊んでください」
草鹿副隊長の邪気のない声に、いつもは感じない苛立ちを抱く。
隊長格にはそれぞれ特色があって、うちの二人は普段の行いよりも戦う姿で隊士を引き付けるタイプだ。向き不向き、分相応不相応があることは百も承知。だからこそあたしがここへ派遣された。
しかしあまりにも、隊士も隊長も協力してくれない。
隊士の報告や義務あっての提出書類だ。領収書も任務の報告も、隊士それぞれがしっかりやってくれないと、提出できるものも提出できない。
ちょっと余裕がなかったのだ。
こんなにも杜撰な態度を見せつけられて、ちょっと参っていた。
ぷくっと頬を膨らませた草鹿副隊長が、硯に手を伸ばしたことに気づけなかった。
「あとりちゃん、つまんないー!」
「あっ」
ばしゃっ、と、嫌な音が響く。
彼女の引っくり返した硯から墨が零れて、あたしの広げていた書きかけの月次会計報告書に見事にかかった。その傍らに置いてあった月次行事報告書にも飛び散っていて、とても提出できるものではない。
あたしの手や死覇装にもかかっていたが、問題はそれよりも書類だった。
副隊長はあたしの死覇装の袖をぐいぐいと引っ張りながら駄々をこねる。
「ねー、鬼ごっこしよ! つるりんと剣ちゃんも誘って!」
数枚の領収書と適当な任務報告書を睨みつけながら、領収書のない報告を切り捨てて罵声を浴びせられながら、やっとこ八割を書き上げた報告書だった。
たった数枚しかなかったその領収書の不備も訂正しまくって、ようやくここまで書いた。
あんまりな事態に、唇が戦慄く。
「……いい加減にしてください」
「え?」
怒鳴りつけたい衝動を何とか押し殺して、副隊長の襟首を引っ掴んで隊首室の外に放り投げた。
「ひゃー!」と高い悲鳴を上げながらも欄干に着地した彼女の桃色の頭を睨みつけて、障子をピシャリと閉める。項垂れて、大きな溜め息をついて、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。
「あ――……書き直し……」
自分で思ったより情けない声が漏れて、涙が浮かんだ。
泣いてもどうしようもないことは十二分に解っている。時間の無駄だ。こんなことするくらいなら一刻も早く書き直すべきだ。
寝不足でぼんやりした頭が痛い。垂れてきた髪の毛が鬱陶しくて、乱暴に掻き回しながら文机に向かっていった。
とりあえず月次会計報告書を再び睨みつけ、五割ほど書き直し終えた時には、月はとっくに中天に昇っていた。
不知火くんがある程度手伝ってくれていたのだが、彼には任せていた書類がひと段落したところで帰ってもらった。泊まり覚悟で筆を持ち、悴む指先を火鉢に当てながら、数字の辻褄を合わせていく。
途中でどうしようもなくなってちょっと泣きたかったが、一人で泣いても現状は変わらないなと思うと涙も引っ込んだ。
草鹿副隊長はあれから顔を見せなかったが、更木隊長はひょこりと顔を出して、いつも通り適当に判子を押して帰っていった。
一番隊から来たあたしを、特に文句を云うこともなくあからさまに見下すこともなく受け入れてくれた更木隊長は嫌いじゃない。見た目に反して存外親切な部分があることもわかっている。
だけど、この隊長に心から忠誠を誓ってついていけるかと訊かれたら、今はまだ肯けない。
更木隊長が隊首室に来た時、なにか言葉をかけてくれるんだろうかと、本来の仕事を少しでもしてくれるかもしれないと、期待した自分が死ぬほど恥ずかしかった。
眠たくて仕方なくて、障子窓を開けてから、床にころりと転がる。
「ああ……疲れた」
何のためにこんなに頑張っているのだったっけ、あたし。
引っ込んだはずの涙がじわりと膜を張ったから、慌てて目を閉じて、一眠りしようと体の力を抜いた。
ふと目を覚ますと、寝る前にはかけていなかったはずの羽織が一枚、労わるようにかけられていた。
所々ほつれや破れのある灰色の羽織。
こんなことをしてくれる心当たりは檜佐木くらいだったが、奴は格好に気を遣うたちなので、ほつれたものをそのまま着ることはないはずだ。大体ここは十一番隊々首室である、彼が一人で入れる部屋ではない。
静謐な夜、ひとつの強烈な霊圧が、道場の方に在ることに気づく。
寸法的には確かに――彼のものかもしれない。
寝る直前に開けた障子窓から吹き込む風はひどく冷たかった。ふるりと肩を震わせて、羽織を返しに行かねばと腕に掛ける。念のため抽斗から手拭を出した。
隊首室を出て廊下を進み、道場へ向かう。
刀を振る風切り音が聞こえてきた。平素にあっても強大な威圧を醸している霊圧が肌を撫でていく。いつも一緒にいる小さな彼女の霊圧は、今はない。
道場の入口からそっと中を見る。
思った通りに、更木隊長が一人、斬魄刀を手に素振りをしていた。
あたしが来たことにはどうせ気づいているだろうから声はかけず、じっとその大きな背中を見つめた。
着流しの上半身を下ろし、ただ真っ直ぐに仮想の敵を見据えて、戦いの中で培った見事な筋肉を無駄なく動かす。
斬魄刀が振り下ろされる度に、剣圧があたしの頬を刺した。
しばらくしてから、更木隊長が動きを止めた。
「……やちるがよォ、落ち込んでたぜ」
「…………済みません」
「なんでお前が謝る」
「落ち込ませたのは自分ですので」
「やちるが悪ィんだろ。書類に墨ぶちまけたって弓親が云ってたぜ」
斬魄刀を鞘に収めてこちらを振り向いた隊長に、無言で手拭を差し出す。
あたしが三席に就任してから最初にやった仕事は隊首室の掃除だった。その際に、書類を収納する本棚と、鍛錬して汗を掻きっぱなしにする隊士たちのために手拭を購入した。更木隊長に手拭を差し出すことも仕事の一部みたいになってしまっている。
「……昔ッから強い敵と戦うことしか頭になくてなァ」
チリン、と鈴が鳴った。
あたしは更木隊長が動く度に鳴るこの鈴の音が好きだった。
見た目に反してとても可愛い音がするし、更木隊長がどこにいるかすぐに判る。
あたしから手拭を受け取って汗を拭き始めた隊長を見上げる。隊士たちを相手にしている時よりも汗の量が多いみたいだ。
「学が無ェんだ。俺もやちるも」
「……隊長たちは、院生ではなかったのでしたね」
「あァ。やちるは読み書きも怪しい。俺もだがな」
だから、と接続すると同時に更木隊長の掌があたしの頭の上に乗る。
不器用なその手は檜佐木の華奢なそれよりも二回りほどは大きいだろうか、壊れ物を扱うような恐々した手つきで、あたしの髪をくしゃりと撫でた。
隊長がこんなことをするなんて思わなくて、吃驚したあたしは目を丸くして硬直する。
「候補の中から一人を十一番隊へ異動させるとジジイに云われてな。お前を選んだのは俺だ」
「え……」
「俺は字が書けねえが、お前の字はきれいなように見えた」
「……書くのも読むのも?」
「目を通せと云われても、目を通してもわからん」
「じゃ、じゃあ本当に判子を押してるだけなんですか」
知られざる秘密というか予想外だったというか、衝撃を受けて突っ立っているあたしの頭をぐわんぐわんと撫でまわす。
寝不足・寝起きの脳にこれは辛い。
「お前が作った書類なら見なくても問題ねえよ」
「そんな、そんなの、あたしの仕事を信用してるんだって云ってるって、とりますよ」
「だからどうした。いっぺんも不備で返ってきたことがねえだろうが」
「……、……」
絶句、である。
書類を見る気が一つもないわけじゃなくて、あたしの仕事を信じてくれている。本気で。どうせ丸投げしているだけなんだろうけど、隊長はそこまで深く考えてなんていないんだろうけど。
ぽろりと涙が零れた。
隊長はぎょっとして身を引きかけたが、あたしの頭を掴んだ手はそのままにしていた。
「……、隊長……」
「どうした」
「隊長。更木隊長……」
「何だってんだオメーは」
あたしのこの嬉しいような幸せなような、怖いほど浮ついた気持ちは、言葉にはならないだろう。背筋からぞくぞくと這い上がってきたその感情が、涙になって両目から溢れてきた。
両手で顔を覆って俯くと、隊長は居心地悪げに頭を掻いたようだった。
「勘弁しろ。俺ァ泣いてる奴の相手は嫌いだ」
「済みませ、……っ」
「いつまでも泣いてっと叩っ斬るぞ」
「な、泣き止みます」
「それでいい」
満足げに鼻を鳴らした隊長に、へらりと笑みを向ける。
いつも刀を握っている拳がたなごころを開いて頭を撫でてくれた、この不器用な手つきは、きっとこの先心折れそうになったあたしを何度でも励ましてくれるのだろう。
ずるい人だ、本当に。
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