現世に降り立ったルキアを黒崎のもとへ向かわせると、あたしは日番谷隊長たちの方へ駆けた。
エスパーダの数は四。
一体は黒崎が単身交戦中でルキアが向かった。加えて現場の近隣には彼が特訓していた廃倉庫があり、そこに何人かの霊圧がある。残りの三体は一か所に集まっており、日番谷先遣隊及び浦原店長が戦闘態勢にあるようだった。
日番谷隊長の氷輪丸の霊圧を感じる。すでに卍解しているみたいだった。
地を蹴って瞬歩に移ろうとした瞬間――
ぞ、と背筋が粟立つ。考えるより先に振り返る。
振り下ろされた斬魄刀を辛うじて紅鳳の柄頭で受け止めた。
「アララ。……斬魄刀は持ってへんて聞いてんけどなァ」
紅鳳が、軋む。
互いの呼吸が交わる程も近くで、その人は笑った。
気味が悪いほどいつも通りの微笑みだった。
冷や汗が顎を伝う。
はらりと滑り落ちた彼の銀髪が額にかかる。
震える唇を開いた。
「生憎と……十刃の襲撃と聞いては、丸腰で出られませんから」
「失敗、失敗」
おかしそうに零した彼が斬魄刀――『神鎗』を退く。
距離を取って紅鳳を鞘から抜き正眼に構えると、改めてその人を見つめた。
「市丸……隊長……!」
治ったはずの右手首が、ちりちりと痛んだ。
この痛みを運命と呼び
「あかんてぇ」
「…………」
「『市丸隊長』やのうて『市丸ギン』やろ? 怒られるで、そないな呼び方してたら」
呆れるほど何も変わらない口調だった。その表情は、あたしの判断が正しければ相当ご機嫌なように見える。
云いたいことがたくさんあった。
訊きたいこともたくさん。
なのにいざ目の前にして刃を向け合うと、いまだに信じられない気持ちがいっぱいになって声が出ない。
その神鎗の切っ先があたしを向いている。
なのに敵意も殺意も感じられない。
この人なら気づかれるよりも先に背後から音もなく、あたしを刺し殺すことができる筈なのだ。
――あの時と、同じだ。
「どうしてですか……」
紅鳳を右手に握ったままだらりと下ろすと、彼は神鎗を鞘に収めながら首を傾げた。
「どうして、あの時――」
「シィ――……相変わらずお喋りなお口やね」
立てた人差し指を唇につけて、一歩ずつ、ゆっくりと近づいてくる。
後ずさることも忘れて立ち尽くしていると、彼の伸ばしたほっそりとした右手があたしの頬を撫で、顎にかかった。
首を絞められてもおかしくない位置まで接近してもなお、一片たりとも警戒心が湧かない。
どうやら『あの時』のことは口に出してはならないらしいと頭の中の冷静な部分は判断していて、この裏切り者を確保せねばと思う心とそれでもこの人に敵意を抱けない自分とがごちゃごちゃになったまま、見下ろしてくる市丸隊長の微笑に縋るように口を開く。
「乱菊さんのことはどうなさるおつもりなんですか」
「…………」
「あの人が、消えたあなたを追って死神になったことくらい解っているんでしょう? 解っていて気づかないふりをしているんでしょう。いつからですか。いつから……藍染の、側に」
彼は一呼吸おいて、ふと笑った。
「きみに出会う、ずぅっと前からや」
ああ、まただ。
この頭のいい人が乱菊さんのことに気づかないはずがないのに、話を振ると徹底的なまでに沈黙する。
胡散臭いとか得体が知れないとか云われてはいても、いつも笑顔で飄々として屈託のない懐き方をしてくる人だから、色々な隊士と気安く言葉を交わしているところを見かけた。なのに、乱菊さんだけ。
乱菊さんだけは徹底的に遠ざける。
その意味を考えながら、慎重に言葉を選んだ。
何も考えずに突撃してはならない。それでは反乱の時の日番谷隊長の二の舞になる。この人に相対する時は、言葉を尽くして遊び、思考の限り疑い、そうして『ほんとう』を見つけてあげないといけない。
不器用な人だから。
そうして少しずつこの人のことを知った気でいた。
少なくとも与えてくれた想いの数々は、ほんとうのものだと。
そう、思っていたけれど。
「嘘だったんですか」
「あとりちゃんのお茶美味しいわぁ」とほけほけした笑みを浮かべたあの日のことも、「お大事にしや」と遠慮なく気安く触れるようでどこか恐る恐る撫でてくれた掌も。
いつだって笑顔でいた。いつだってやさしく、不器用に頭を撫でて、すぐに生傷をこさえるあたしを「お大事に」と見舞ってくれた――
「全部、ぜんぶ嘘だったんですか」
「せやで。全部、嘘」
あっさりした答えとともに、市丸隊長の親指が唇を撫でてくる。
くしゃりと髪を乱すような頭の撫で方の残滓もない、どこかうんざりした手つき。
「ぜぇんぶ、嘘」
頭の中の冷静なところが、ぜんぶ嘘、と何度も反芻する。
全部嘘。
――全部。
「成る程……」
深紅の柄を握りしめると、応と答えるように紅鳳の鍔が鳴った。
あたしの唇を撫でる右手を斬り落とす勢いで振り抜くと、市丸隊長は軽やかに後退して笑う。
「きみかて嘘ばっかりやろ。斬魄刀の能力。なんで誰にも本当のこと云わへんの?」
「嘘なんてついていませんよ」
「嘘ばっかり。五感支配ならまだしも、『想像を現実に変える』なんて曖昧なチカラあるわけないやん。ボクの見立てでは、涅隊長の足殺地蔵と似た感じちゃうかなって思てんけど」
脇差程度の丈しかない神鎗と激しい剣戟を交わしながら、あたしは平然と嘯いた。
「ご明察です。紅鳳の能力は錯覚。――正確には錯覚を起こす毒を撒き散らして、虚実を実現させてしまう程、真実と思い込ませることです。その毒の効能、範囲は霊圧の消費量に比例する」
「やっぱり」
「嘘ですよ」
「は?」市丸隊長がきょとんとしたその横っ面に蹴りを叩き込む。
腕で防がれたものの、衝撃で体勢を崩すことはできた。
「嘘です。敵に本当の能力を話す莫迦がいますか?――破道の三十三・蒼火墜!」
「っ、と……やだァ、性格悪いわきみ」
「あなたに云われたくありません……!」
鬼道をひょいと避けた市丸隊長が、瞬きの間に懐に飛び込んでくる。
躱そうとしたけれど一瞬遅かった。
左肩から脇腹にかけて一太刀受ける。
鮮血が舞い、市丸隊長の白い陶器のような頬に紅が散った。
足を一歩踏みしめて後ろに倒れかけた体を根性で支えると、がくんと俯き、喉の奥底から苦しい声を絞り出す。
「あなたは最初から……、藍染の側だった」
「うん」
「『あの時』もあたしを殺そうとした、……あの去り際も、あたしの右手を斬り落とそうとした、そうですね」
「うん。正解」
「そして今日もあたしを殺しにやってきた。あたしを殺すか、斬魄刀を奪うために。そうですね」
彼は飄々と「うん」と肯いた。
「全部、嘘」
踏みしめた足元に血だまりができている。
赤い水面に映る自分の顔を見つめながら、膝から頽れた。
「そうなんですね……」
「せやからそう云うてるやん」
ぼたぼたと流れる血のわりに傷は浅く、意識ははっきりしている。
膝をついて肩で呼吸するあたしを見下ろした市丸隊長は無造作な手つきで首を掴んできた。呼吸が詰まる。右手に握っていた紅鳳が彼の手に渡り、鬼道で破壊された。
粉々になった緋色の刀を見下ろしながら口の端で笑う。
「済みません。其れも、嘘です」
「ん?」
「其れ、紅鳳じゃありません。阿近さんに作ってもらった、見た目だけ似せた偽物です。『厄介な斬魄刀』と認識されている得物を、莫迦正直に携えてくると思いましたか」
市丸隊長がニィっと笑う。
あたしも両目を見開いて口角を上げた。さぞかし、更木隊長とそっくりの笑みだろうと思う。
「騙されてくれました?」
「……ホンマ、きみ、悪い子や」
あの直後、あたしは背後の家屋に投げ飛ばされた。
一瞬意識が暗転した隙に反膜が下りてきたらしく、気づいた時には市丸隊長は夜空の亀裂に消えていこうとしていた。
全身が痛い。
投げ飛ばされた際にぶつけたのか額からは血が滲んでいた。ひとまず携帯している薬を塗って止血すると、距離の近い黒崎とルキアの霊圧を辿る。
戦闘の気配は各地、既に落ち着いていた。
日番谷隊長たちの方には浦原店長がいる。治療はあちらに任せればよいだろう。
ルキアがいたのは、黒崎が秘密の特訓をしていた隣町の廃倉庫だった。
あの時は未知の結界の前に接触を諦めたが、今回はそういうわけにもいかない。指先で触れてそれが鬼道とはまた別の何かであることを確認し、だが霊子で構成されているからには破壊も不可能ではないと霊圧を高め始めたところで、「お――い!」と声がかけられた。
「アンタ! 人んちの結界勝手に壊すなや!」
「失礼しました。此処に黒崎という少年と、死神が一人いませんか。二人を引き取りに来たんですが」
現れたのは金髪のオカッパだった。
死神に似た霊圧をしているが、内部には虚の気配もする。成る程『内なる虚』を抱えた黒崎が頼った相手らしい。
「……いま治療中や。自分の方こそ血塗れやないか」
「お気遣いなく」
「死神が斬魄刀も持たんと何してんねん。こないなド阿呆がおったなんて初耳や。何番隊の何サンや」
「諸事情で斬魄刀の携行を制限しています。初対面でド阿呆とは云ってくれる。――人に名を訊ねる時はまず自分からどうぞ」
市丸隊長に似た言葉のイントネーションに僅かに苛ついた。
金髪の青年は胡散臭そうな視線を寄越したものの、ややあって「平子真子や」と短く答える。
「平子真子……」
「何やねん文句あるんかエエ名前やろがい」
「聞き憶えのある名前だなと思っただけです。――十一番隊三席澤村あとりと申します」
「十一番隊ィィ?」
平子真子。
藍染惣右介の前任の、五番隊々長の名だ。
約一〇〇年前、浦原喜助と四楓院夜一が関わっていたとされる例の事件で行方不明になったとされている隊長の名でもある。当時同じように行方不明になった隊長・副隊長は全部で八名。
この目の前の平子真子を含めて、倉庫の中にある未知の霊圧も八名分。
「……虚化した死神を、元に戻すなんてことは……」
破面の出現はいわば虚の死神化だ。
ならば、死神が虚化することも当然有り得ると考えるべき。
おおよその事情の見当がついたところで、怪我を治療してもらったらしいルキアと、サングラスの男性に背負われた意識のない黒崎が倉庫から出てきた。
「姉さま……その怪我は!」
「大したことないから大丈夫。……ひとつお聞きしたいことがあります、平子さん」
さっさとどっか行けと云いたげな表情の彼を見上げる。
「あなた方は、藍染の敵ですね」
「……死神の味方とちゃうで」
「結構です。敵が共通の相手に喧嘩を売っていられるほど此方にも余裕はありません。――二人の治療、有難うございました」
「……頭下げんな。ボケ」
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