『澤村サン。あなたが僕をお嫌いなのは十分承知したうえでお願いします。あなたが最後の砦として空座町に待機することになったと、お聞きしました』

『今回の戦い、必ずあなたは藍染と交戦するものとして考えてください』

『総隊長をはじめとする殆どの隊長格が前線に出ます。あなたも会ったことのある平子さんたち――元護廷十三隊の隊長格も駆けつけます。僕と夜一さんも色々準備したうえで参戦します。黒崎さんも虚圏が落ち着き次第すぐに現世へ送られるでしょう。それでも、其れで終わってくれれば可愛い化け物で済むんです』

『僕らのうち誰かが到着するまで時間を稼いでください』

『決して一人で死なないでください』


『――必ず行きます』



 作戦が正式に決定したのち、そんな無線を頂いたことがある。
 藍染を斃すための準備に奔走する合間を縫っての通信だ。それ程、あたしの時間稼ぎが重要になってくるということだと受け取っていた。

「阿近さーん、どんなですか?」
「ちょっとばかし霊力のあるやつは起きはじめてるな。今、改めて眠らせに回ってるところだ」

 万が一のことがあってはいけないというので、技術開発局の阿近さんたち数名が本物の空座町の様子を見廻っている。住民たちは全て眠らされているが、やはりこれだけ人間がいると例外は出てくるものらしい。

「そうですか。じゃあ、可及的速やかに全員退避させてください」
「は?」

 うなじの後ろで一つに縛っていた髪を解く。その組紐を阿近さんに渡してから、先刻自室から持ってきた簪で改めて髪を纏めた。
 かつて喪った友人に貰った簪。
 お気に入りで、実習や訓練の時は外すようにしていたから、此れと共に出撃するのは初めてのことだった。

「藍染が来ます」

 大気がざわめいている。
 穿界門が開くのは空座町から少し離れたところになりそうだが、強烈な霊圧の塊が尸魂界に近づいてきているのを感じた。

「……解った。全員退避したのち、戦闘区域に結界を張る」
「はい。そしたら瀞霊廷に帰還してください。あとを頼みます」

 あたしの言葉がどういう意味をもつものか理解しているはずだが、阿近さんは顔色一つ変えずにきびすを返す。
 この人のそういう喰えないところが、昔から好きだった。
 思えば彼とも長い付き合いになったものだ。

 この人がいなければ、あたしは霊力の制御も儘ならない出来損ないとして、『脱隊』処分になっていたかもしれない。

「澤村」
「なんですか?」
「死ぬなよ」

 全くもう。
 こっちは此れを死に場所とさえ覚悟して来ているというのに、誰も彼もがそんなことを云う。
 死なずに藍染を止めることがどれ程難しいか。

「善処します」

 色のない霊圧が尸魂界に降り立つ。
 見知った藍染のそれの感触ではないが、隣にあるのは間違いなく市丸隊長の霊圧だ。現世での戦闘が一旦敗北に終わり、尸魂界の魂魄をも巻き込んで空座町で王鍵を造るべく、藍染たちが侵攻してきた証拠だった。


 懼れはない。
 未練もない。
 ただ一つ惜しむことがあるとすれば、あの温かな人たちがあたしの名を呼ぶその声を、二度と聴くことができないかもしれないという其れだけだった。


パラベラム




「ご無沙汰しております。藍染隊長」

 浦原店長からの無線で心が楽になったのも事実だった。
 空座町防衛戦で自分が最後の砦とされるよりは、誰かが来るまで死に物狂いで時間を稼ぐ方が、感じる責任は軽くて済む。
 護廷十三隊の隊長格を蹴散らしてきた今の藍染にとって、あたしなど取るに足らない虫けらだということは解っていたので、変に小細工せず普通に姿を現してみた。

「やはりきみが此処に配置されていたか。澤村三席」

 薄気味悪い笑みを口角に浮かべた藍染に、こちらもにこりと笑って返す。

「慧眼お見逸れしました。少しお会いしないうちに御髪が少し伸びました? 目元の印象も変わられたようですね」

 凄まじい霊圧だった。
 技術開発局の面々を瀞霊廷に帰還させたのは正解だった。下手な魂魄が近寄れば塵になるほどの濃度だ。これを空座町に入れれば、恐らく多数の人間が近寄るだけで潰される。
 此方も対抗して霊圧を上げ始めると、小さな地鳴りが起こった。
 市丸隊長の糸目が僅かに引き攣る。

「……しぶとい子やなァ……」
「お陰さまで」

 白々しい態度でそんなことを云う市丸隊長にもこてりと小首を傾げると、その隣で薄い笑みを浮かべていた藍染は一歩ずつゆっくりと近づいてきた。

「きみにとっては思い出深い場所なんじゃないのかい」
「こんな流魂街の外れが、ですか?」
「何年前だったかな。そう――、九番隊の。森十三席といったかな」

逃げるな。澤村


 脳裡に過ぎったその声に、小さく肯く。
 わかってる。逃げないよ。憧れてくれたあなたに愧じない背中を見せたい。

「賢しいきみなら見当はついているだろう。あの虚も私の実験体のうちの一体だった。きみのその霊圧が邪魔になりそうなのは早い段階で解っていたことだからね、現世への実習に出掛けたところを実験中の個体に襲わせた。途中までは上手くいったと思っていたんだが――」

 藍染の言葉を聴いてはいけない。完全催眠の能力を持つこの人の言葉がまやかしでないはずがない。
 総ては此方を挑発し、虫けらがみっともなく足掻く様を見たいがための、口先ばかりの出まかせだ。
 解っていても、眞城の虚ろな目だけは、蘇った。

「入隊後も全く前線に出てこないきみを引っ張り出すために色々苦心したものだが、結局は斬魄刀の始解を招く事態になった。あれは面白い誤算だった。一番隊に異動されたのは厄介だったからね、総隊長にきみを十一番隊へ派遣するよう進言したのは私だよ。どうかな、十一番隊での日々は楽しかったかい?」

 安い挑発だ。
 現世でもこの調子でみんなをからかったのだろうか。
 全ては私の掌の上だと、お前たちは私に操られてここまでやってきたのだと、さも神のような顔をしてそんなことを平然と嘯いたのだろうか。

「おかげでこうしてこの場所できみと対峙できた」
「…………」
「可哀想に。霊術院の入学時からその霊力を危険視され監視された。護廷入隊後も常にきみの霊圧は計測され続けた。少しでもおかしな挙動があれば即座に『蛆虫の巣』へ送られる可能性に怯えながら、よくも今までもったものだ」
「……そこまでよくご存知ですね」
「隊長格なら誰でも知っているさ。散々異端扱いをされた最期はこうして私に対する捨駒として配置される。一人、誰も救けに来ない、最も孤独な死に近い此の場所で」

 ゆっくりと瞬きをして、死神だった頃の柔和な微笑みの面影もない藍染を見つめた。
 成る程この物云い。カッとなりやすい日番谷隊長や、まだ脆いところのある黒崎には効果的だろう。怒りや動揺で我を忘れた刃で、斬れるものなど何も無い。
 だがあたしにとっては事実の羅列に過ぎなかった。

 危険な霊力を持っていた。自分で制御できない程の。それでも阿近さんに支えられ、眞城に出会い、檜佐木とともに研鑚を重ね、たくさんの死神の死を見送り、治す力を手に入れて、紅鳳と再び巡り合うことができた。


 傷も痛みも知らなかった小娘が今、こうして誰かを護るために刃を揮える。
 あたしは十分、生かされた。


 舞台を用意したのが仮に藍染であったとしても、選択に選択を積み重ねて今この場所に立っているのは、此の意志だ。


「隊士須らく護廷に死すべし。護廷に害すれば自ら死すべし――」

 歌うように口ずさみながら紅鳳を抜く。
 藍染は不快そうに眉を寄せた。


「可哀想だと思うなら、せめて心安らかにあたしに斃されてくださいね」
「――やはりきみは厄介な虫けらだ」


 予備動作は全くなかった。霊圧の知覚も追えなかった。
 気づいた時には袈裟に斬り伏せられて鮮血が舞っている。確かにこれは化け物という言葉が可愛らしいほどの『なにか』だ。

 流血しながらも平然と立ち上がると、興味を失くして立ち去ろうとしていた藍染たちが振り返る。

「どうかしましたか。あたしを斬る幻でも見ましたか」
「……斬魄刀か」

 斬られた傷から流れる血は緋色の蝶になって羽ばたいていった。

「あなたがあたしを舐めていてくれたので助かりました。あなたの鏡花水月が初見殺しであるように、あたしの紅鳳もそうなんですよ」
「…………」
「さて問題です。あたしはいつから、どこまで、始解していたでしょうか?」

 藍染の指先から放たれた霊圧の塊があたしの体を灼く。
 黒焦げになった体の端々から緋色の蝶になって消えていく。眉を顰めて舌打ちをした藍染の背後から縛道をかけた。

「縛道の一・塞。縛道の六十一・六条光牢」
「この程度で……」
「鎖条鎖縛・九曜縛――」

 もともと鬼道は得意だ。そのうえ霊圧の制御の必要がないこの局面、力任せに詠唱破棄で、至近距離から全身全霊叩き込む。
 斃す必要はない。
 ただ時間を稼ぐだけでいい。

「破道の八十八――飛竜撃賊震天雷炮!!」

 高位の縛道を三重にかけたうえで至近距離から破壊力の高い破道を続けざまに打ち込んだ。
 辺りの木々が残らず吹っ飛ぶ程の霊圧の塊が直撃したが、服に火傷程度でも負えば重畳――最悪、無傷。
 そういう化け物相手に時間を稼いでいる。
 慢心はしない。斃せるなどと驕らない。

「ひゃぁ。派手やな」

 市丸隊長の胡散臭い歓声を聴いて其方に意識をやった一瞬、眼前にまるきり尸魂界に現れたままの藍染が酷薄な笑みを浮かべて立っていた。
 頭で理解するより早く霊圧を解放した。
 あたしと藍染の霊力がぶつかり合い激しい爆発を起こす。衝撃で何度か地面に叩きつけられ、最後は転がって斃れ伏した。

「藍染隊長、あの子ボクが貰ってえぇですか」
「随分その子が気に入っているんだね」
「頭のえぇ子、嫌いやないんですわ」

 短いやり取りのあと、市丸隊長がひょこひょこと近づいてくる。
 一旦距離を取ってからもう一回と考えていたのにあてが外れた。体に力を入れるが紙一重で市丸隊長の瞬歩が早く、胸元を足蹴にされる。

「っ……」
「紅鳳の能力、あの時教えてくれへんかったね。あれからボク考えてんけど、もしかしてあとりちゃんにも本当のところは解らへんの? 厄介な斬魄刀でも使いこなせへんなら意味あらへんね」

 細い足に踏みつけられているだけなのに全然起き上がれない。
 むしろ起き上がらないようにされているような気がする。前髪の隙間から市丸隊長を睨むと、彼も銀髪の隙間から薄く目を開いてこちらを見下ろしていた。

「持ち主すら騙すような夢まぼろしを見せる斬魄刀、か」
「……あなたが今足の下にしているあたしも、もしかしたら幻かもしれないですね?」
「そんなん」

 市丸隊長が神鎗を抜く。

「殺せば解るわ」

 この人とこうして殺し合いを演じるのも何度目だろうかと呆れに似た嘲笑が浮かんだ瞬間、胸に刃を受けた。



 遠ざかる藍染と市丸隊長が空座町に足を踏み入れると、鬼道を受けてごっそり木々が消えた寂しい大地に転がる死体が、指先から緋色の揚羽蝶になって消えていく。
 その場に存在していた大地や木や草や景色の総てが緋色の蝶になる。世界を覆い尽くすほどの夥しい量のそれがやがて空へ消えていくと、藍染が現れるよりも前の、元通り穏やかな流魂街の森が姿を現した。

「……疲れた……」

 市丸隊長の神鎗に貫かれた死体が転がっていたその場所にぐったりと腰を下ろす。

 最初から全部、幻だ。
 さすがに鬼道を放つ時だけは実体で介入したが、あとは殆ど紅鳳の能力である。紅鳳の霊圧領域にぴったり重ねて結界を張ってあったので、彼らにとっては『澤村あとりを中心とした戦闘区域の結界から出て空座町へ入った』感覚にある筈だが、実際は『紅鳳の霊圧領域と定めた幻の範囲から出た』が正解だ。
 どこまで通用しているのかは解らないが――この際全く通用していないと仮定しても、知らぬふりをしてもらえる程度ということだ。

 いやはや、全く『化け物』という言葉が可愛く思える。
 藍染の攻撃の予備動作が見えない。移動も見えない。霊圧は死神のそれとも虚のそれとも違う桁外れな異質さだった。その脅威は十分感じるが、恐ろしいことに恐怖は感じない。
 あたしよりも強いものだと、正直勝てなくて当然だと、理解しているからかもしれない。

 藍染と一度でも対峙して、ひとまず此方は無傷で済んだのだから、一戦目としては上出来だろう。
 さて二度目の奇襲に向かうかと息を吸ったところで、ふっと緋色の着物を来た少女が瞬きのうちに姿を見せる。
 紅鳳だ。

「……あとりさま」
「解ってる。あなたの力を借りたい。あたしにはきっと過ぎた力で、制御もできないだろうし、危険かもしれない。勝てないと思う。勝てなくてもいい。だけど力を貸してほしい」

 始解時点での紅鳳の能力は想像を現実に変えること。
 夢まぼろしを見せること。
 嘘を真に変えること。
 五感支配で錯覚を起こす。霊子結合そのものを組み替える。毒素を撒いて幻を見せる。その実現可能性と対象への支配の方法によって消費する霊圧が著しく変動する。

 卍解によってはその全てを行使して、不可能を可能にもする。
 夢を見るように。

「鳳は、あとりさまに怪我をしてほしくないのです」
「解ってるよ」
「なのに……わたしの能力はあとりさまの怪我をなかったことにしてしまう。あなたを治して、また戦えるようにしてしまう」
「それはあたしがそう望んでいるからだ」

 市丸隊長の推察の通りだ。あたしにも解らない斬魄刀なのだ。願ってみなければどうなるか判らない、起こってみなければ把握しきれない。つくづく厄介な斬魄刀だと思う。
 多分、あたしは紅鳳の能力で、何度も死んで何度も蘇る。

「あたしが戦いたいと、護りたいと思えるようになったから」

 けれどなればこそ、彼女はあたしを愛してくれる。
 彼女を正しく使いこなせると信じて、あたしに尽くしてくれる。

「だからお願い。あたしと一緒に戦ってね。紅鳳」


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