空座町に入った藍染は、町の中で目覚めた幾人かを塵へと変えながら、黒崎の知り合いの少年少女と悪趣味な追いかけっこを繰り広げているようだった。
穿界門で先回りしてきた乱菊さんが彼らの間に割り込み、市丸隊長が彼女を連れて遠ざかったところで、あたしは再び藍染の前に立つ。
彼に驚いた様子は微塵もなかった。
しかし少なくともあたしは戦闘不能になったと思っていたらしく、ゆっくりと一つ瞬きをする。
「困ったね……どこまでがきみの幻なんだい?」
本心から解らずにいるのかも判らない問いだ。
そんなもの、あたしの方が聴きたい。あたしが紅鳳に命じたのはただ一つ。
藍染の足を止め、可能な限り、あたしの霊圧の続く限り、肉体のある限り、命ある限り、時間を稼ぐこと。
どこからどこまでが紅鳳の幻なのか、あたしでさえ解らない。
もしかしたら全部、ひとひらの胡蝶の見た、恐ろしく壮大で趣味の悪い夢なのかも。
日番谷先遣隊として現世に降り立った時に教室で見た憶えのある少年少女を背に庇いながら、あたしは藍染に向けてにこりと笑った。
「ぜんぶ嘘です」
陰翳礼讃
「あ、あんた……前にあのハゲとオカッパと一緒にいた……!」
ただの人間にこの藍染の霊圧は辛かろうと意図的に両者の間に入り込み、あたしの霊圧で目の前の人の其れを遮断してやると、幾らか呼吸に余裕ができたらしい少年が声を上げた。
振り返ると、確かに一角が破面と戦った時に居合わせていた男の子だ。あの二人はあのまま彼の家に転がり込んだはずである。
「なにケイゴ知り合い!?」
「知り合いって程じゃねーけど……おいあんたも逃げろよ、やべーぞそいつ!!」
人のいい子だ。
内心苦笑しながら、右手で無造作に持っていた紅鳳の柄を鳴らした。
「想葬――」
両手で柄を取り大上段に振り下ろす。
剣先から放たれた炎の渦が藍染を包んだ。当然あれにとっては微風が吹いた程度の筈なので、空かさず掌を突き出す。
「破道の九十一・千手皎天汰炮」
霊子の砲撃が炎の中心を容赦なく叩き潰した。爆炎の中で揺らめいた陰に舌打ちを漏らして、紅鳳を振るう。
ひたすらに頑丈で、藍染の動きを止める檻。そう、ちょうど破道の九十の黒棺のような、それでいて内部で霊圧が爆発を起こして藍染を木端微塵にできるような。
地面からせり上がった黒い監獄が藍染を捉える。中で激しい爆発が起こり、地響きで視界が揺れた。
先程から、鬼道を放っても藍染は避ける素振りすらしない。九十番台の破道ですら今の彼にとっては回避する必要がないということだろう。
とすると時間稼ぎに一番効果的なのはとにかく動きを止めることだった。
『必ず行きます』
――必ず来る。誰かしら。
「す……すっげぇ……」
「ぼけっとしてないで逃げなさい。あんなの大した足止めにならないから、できるだけ遠くへ一刻も早く」
血相を変えて走りだした彼らの足音を背に、身を守るように霊圧を爆発的に上げた。黒い檻から逃れた藍染の一撃を間一髪、紅鳳の一振りで造り出した『頑丈な盾』で相殺する。
瞬きよりも早く接近してきた藍染に腕を掴まれた。
「使いこなせない武器は使うべきではない」
「…………」
「二つ以上の幻は同時に表せない。鬼道を放つ時は実体が介入する。連続して幻を出せる回数に制限がある。厄介ではあるが欠点も多い」
ふと笑いが零れる。
くつくつと肩で笑うあたしを、藍染はその不気味な目で睥睨した。
「あたしがいつ、二つ以上の幻は同時に表せないと云いました?」
「―――」
「云ったじゃないですか。『ぜんぶ嘘です』って」
腕を掴まれたその身体が、緋色の蝶になって消えていく。
鬱陶しそうな顔になった藍染が薙ぎ払うように放った霊圧が背後の建物もろとも蝶を消し飛ばした。
背後から藍染の腹部を刺し貫く。
此の程度では死なないことくらい承知している。目に見えない速度で背後をとられた。藍染の手にした鏡花水月で胸を貫かれる。その体が蝶になる。――空かさず正面から斬りかかったあたしの上半身が吹き飛ばされるが、その死体も蝶になる。
どうやらこのだまくらかし合いが紅鳳の真骨頂らしい。
いつもいつも完全催眠で他人を手玉に取っていた藍染だ。使い手にさえわけが解らない程の幻の応酬はさすがに初めてのようだった。
眉を顰めた藍染が視線をずらす。
伸ばされた指先にあるのは、大通りを一直線に逃げるあの少年たち。
「――――!」
思わず体の方が動いた。
普通の死神であれば跡形もなく消し飛んでいたレベルの霊圧の塊を受けて吹っ飛ぶ。逃げる彼らの横まで一気に弾かれて、あたしが転がってきたのに気づいた少年たちは足を止めた。
しまった。
――紅鳳を手放した。
「無様だな。鼠を庇って折角の能力を解くか」
「――無様で何が悪い……」
瓦礫を蹴飛ばして立ち上がる。
「あなたがどれ程虚言を吐いたとしても此処にいるのはあたしの選択だ。全てあたしの意志だ。誰も彼もがそうして自らの意志で立ち向かった、あなたの思うままになったんじゃない、過去に対する最善策などそれこそ誰にでもほざけるわ」
「虚言とは心外だな。事実きみは此処で私に殺される」
「あたしには――自分が神になったつもりでいるあなたの方が余程無様に見える!!」
少年たちを振り返ることが致命傷になるのは解っていた。
けれど、黒崎や茶渡くんの友人だ、根が優しい。あたしを見捨てられないことは解る。
「お、お姉さん」
「逃げて! 早く!!」
怒鳴りつけてでも足を止めさせてはならない。
そう思ったのとほぼ同時に、右肩から左の腰にかけて裂傷を負っていた。
鬼道のために両手を突きだしたはずだった。霊圧の調整や詠唱破棄の段階も済んでいた。
さすがに何が起きたのかわけがわからなかった。
「中々面白い見せ物だったよ。だが飽きた」
「っそ……」
目で追えない速さだと解っていたのに。
隙を見せたら終わりだと、後手に回れば、傷を負えばそこであたしの敗けだと承知していたのに。
膝をついたあたしの横を無傷の藍染が悠然と通り過ぎていく。
『必ず行きます』
――まだか。
まだか、浦原喜助……!
幸いなのは少年たちが脱兎のごとく逃げだしたことだった。あの子たちが死んだら、きっと黒崎は嘆くだろう。できればそのまま、藍染が遊んでくれているうちに空座町を出て、流魂街に至って、結界内に異変を感じた技局に保護されてくれたらいい……
「只今、戻りました。藍染隊長」
乱菊さんとともに遠ざかったはずのその人が、帰ってきた。
血塗れのあたしを一瞥すると、「アララ」と肩を竦めながら藍染の横に並ぶ。
「まだ生きとったんですか、この子」
「存外しぶとくてね」
「あんまり遊んでやると調子乗りますよ」
「彼女は?」
「殺しました」
市丸隊長の出現にまた足を止めていた少年たちは、再び弾かれたように走りだした。
起き上がると傷口から血が零れ落ちる。少し先に転がっている紅鳳に手を伸ばすと、刃が蝶になって消えていく。まさか斬魄刀まで幻のうちとは思わずに目を丸くしていると、背後からぎゅっと抱きすくめられた。
赤い着物の袂が視界に入る。
小さな掌が傷口を撫でると、血が蝶になり、傷が蝶になる。
目を向けた先では藍染が斬魄刀の切っ先を逃げる彼らへ向けていた。
「死体を町の外の見え易いところに吊るしてから、王鍵の創生に執りかかる」
「ええやないですか。それやったらあの子ら殺すんはボクがやります」
市丸隊長の左手が鏡花水月の峰にかかる。
殺させるか、と紅鳳を振ろうとした瞬間のことだった。
此方に背を向けている藍染のちょうど胸の真ん中から、神鎗の刃が貫通して覗いた。
「鏡花水月の能力から逃れる唯一の方法は、完全催眠の発動前から刀に触れておくこと……」
ゆっくりと振り返る市丸隊長の右手には、すでに脇差の長さに戻った神鎗がある。
藍染が蹈鞴を踏み胸元を片手で押さえた。
「その一言を聞き出すのに――何十年かかったことやら」
ぜぇんぶ、嘘
その一言で、十分だった。
邪魔をしてはいけない。
されど藍染を動かしてはいけない。
どうか此れがあの人の思惑に反する動きでないようにと祈りながら、藍染の両手と腰を拘束する位置で六条光牢を繰り出した。
なにも変わらない笑みのまま市丸隊長がこてりと首を傾げる。
「ボクの卍解の能力、昔お伝えしましたね。すんません、あれ、嘘云いました。……刀が伸び縮みする時一瞬だけ塵になり、刃の内側に細胞を溶かし崩す猛毒があります――」
市丸隊長の卍解が発動した。
胸を貫通した刀を脇差に戻す刹那の間に、藍染の心臓へと置き去りにされた『神殺鎗』の刃の欠片が、藍染の体の細胞を溶かし、崩す――
その胸にあいた大きな孔から、市丸隊長が何かを奪ったのが見えた。
六条光牢が破られる。奪われたものへ手を伸ばした藍染と息もつかない一瞬の攻防ののち、市丸隊長は瞬歩で姿を消した。
それを待って、空座町を破壊しない程度の霊圧を乗せた鬼道を叩き込む。
「破道の九十・黒棺!!」
――此れで終わるか。
此れで終わってくれるなら、可愛い化け物だったと笑えるんだけれど。
なんだか嫌な予感はひしひしとしているが、とりあえず市丸隊長のあとを追った。
「……遅いです。危うく死ぬところでした」
「文句云わんといて」
市丸隊長が藍染から奪ったのは、彼と融合していた〈崩玉〉だったらしい。それであんな得体の知れない霊圧になっていたのかと納得のいく思いだった。
こんな小さな玉に、世界の均衡を崩すほどの力があるのか。
幾ら首を傾げてみても、この玉と自分を融合させようと考える藍染の気が知れなかった。
ほんの少し息の荒い市丸隊長が、どこか呆れたような声音で訊ねてくる。
「えらいタイミングよかったやん。どこまで解ってたん?」
「全然、なんにも。『ぜんぶ嘘』だと仰ったので、あらゆる言動が嘘で、どれかが本当だった可能性を考えました。あなたが最後まで敵の可能性も考えていましたけど……、とりあえず乱菊さんが大事なのは解りましたから、もういいです」
「…………」
「彼女は?」「殺しました」というやり取りには肝が冷えたが、よくよく集中してみると霊圧は微かに感じられる。
藍染にとってはあたしや乱菊さんなど最早虫けら同然なので、そこまで深くは探らなかったか、気づいていてあえて知らないふりをしたか、もしくは本当に気づかなかったのだろう。
「其れ貸してください。卍解で滅します」
「……そんなんできるん」
「できます。あれだけの能力を持った物質ですから、多分――、死にますけど」
文句云いたげな表情になった市丸隊長にちょっと笑いながら、一旦発動を解いておいた紅鳳を鞘から抜いた。
あたしの役目は時間稼ぎだが、こんな厄介な代物、滅しておくに越したことはない。
「……息荒いで」
「紅鳳は始解しっぱなし、高位の鬼道飛ばしっぱなしで、息が上がらない人がいたら化け物ですよ。普通の死神ならもう死んでますって。そっちこそ文句云わないでください」
藍染を置いてきたところで爆発が起きた。
浦原店長の言葉を借りればやはり『其れで終わってくれれば可愛い化け物で済む』だろう。何をどう用心しても足りない。なら今のうちにやれることをやるしかない。
市丸隊長の手の中の崩玉が激しく振動している。
此れは振動というよりは共鳴かもしれない。――藍染の中に、戻りたがっている。
「あとりちゃん」
「今度こそ邪魔しないでください。――卍か」
「あかんてもーこの子メンドイ」
乱雑な手つきで口を塞がれた。
また、もう、この人、いつもいつもあたしの邪魔ばっかり! 面倒はどっちだこんの大嘘つき! 盛大な苛立ちを込めてげしげし脚を蹴りつける。
楽しそうに笑った市丸隊長の背後に、先刻とはまた姿を変えた藍染が現れた。
三対の翅を持つ異様な姿に一瞬、理解が遅れる。
反射的に霊圧を上げても追いつかない。気づいた時には建物を巻き込んで吹き飛ばされていた。
市丸隊長の掌中の崩玉が、藍染の胸に収縮していく。
その右手から伸びた鏡花水月が市丸隊長を斬り捨てる。彼の脇腹を貫いて、崩玉を握っていた右腕を千切る。蹴り飛ばされた市丸隊長が瓦礫の上に倒れる。
乱菊さんが駆けつけてきて彼の上に覆いかぶさった。
コンクリートの破片の上に横たわった体勢のまま市丸隊長に手を伸ばす。届かない。
届くわけがない、それでも。
だって、まだ、なにも。
なにも話せていないし、一発ぶん殴るって決めたのに殴れていないし、乱菊さんとだってどうせまともに喋っていないだろうし、誰も彼も欺いたまま、まだ彼は裏切り者のままだ。
裏切り者のまま。
裏切り者の汚名を被ったまま、死んでしまう。
死んで
「市丸隊長……!」
銀髪の隙間から薄く開いた眼が覗く。
微笑んでいるようにも見えた。
あかんよ
――だめだ
だめだ。
今ここで心折れたら、今ここで退いたら、今ここであの人の命を救うために動いたら。
市丸隊長が一番大切な人を何十年と欺いて、黙して、遠ざけて、斬り伏せてまで、そうまでしても守りたかったほんとうのものを――
すべて、嘘にしてしまう。
あかんよ。あとりちゃん
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