憶えているのは、炎よりもなお深く、血よりも鮮やかな紅。
可視化するほどの霊力が爆発して、誓って至って普通の死神であるあたしには理解できないくらい意味不明な進化を遂げてしまった藍染の、得体の知れない霊圧とぶつかった。
紅鳳の名を呼んだ。教えてもらった二つ目の名前を。
お願い、力を貸して。でも空座町を消さないで。でも藍染を此れ以上進ませてはいけない。足を止めなければならない。
檻。
焔の檻。
すべてを灼き尽くす地獄の劫火。
市丸隊長の銀髪の隙間から薄く開いた目。乱菊さんの頬から零れた涙。藍染の底知れない闇色の双眼。簪でまとめていた髪が広がって、扇形の装飾をしたそれが焼けていく。
眞城。御免、大切にしていた簪が焼けちゃった。
でも多分この調子じゃあたしも長くは保たないだろうから。
あたしもすぐに往くから。
いっそ、全部夢であればいい。
空座町決戦なんてなかった。藍染の反乱なんてなかった。市丸隊長の嘘もなかった。眞城は死ななかった。〈崩玉〉なんて存在しなかった。
全部、ぜんぶ嘘ですって。全部ぜんぶ、ひとひらの胡蝶の見た、壮大で哀しい夢ですって、そうだったらよかったのに。
夢だったらよかったのにね。
藍染は笑っていた。劫火の檻に包まれながら笑って、そして右腕の一振りで焔を消し飛ばす。
耳も聴こえない、痛みも遠い霊圧の炎の中、
無力に項垂れたあの時とは違う、黒い死覇装の背中が藍染の前に立ちはだかったのを見た。
『必ず行きます』
紅胡蝶
凱歌が響いている。
なにもない荒野に吹きすさぶ、寂しい凱歌が。
「あとり。起きなよ、遅刻するよ」
肩をぽんぽんと叩かれて漸く目を開けると、同室の眞城が真央霊術院規定の袴をきちっと着た状態で立っていた。
遅刻するよ、其の言葉を聴いて慌てて起き上がり、とっくに陽が昇っていることに気づいて悲鳴を上げる。
「珍しいじゃーん、あとりが寝坊なんてさ」
「なんでもっと早く起こしてくれなかったの!?」
「起こしました、何度も。そんないい夢見てたの? なになに、檜佐木くんと結婚する夢?」
にやにやしている眞城の顔面に脱ぎ捨てた寝間着を勢いよく投げつけると、「つまんないやつ」と唇を尖らせて投げ返される。
「なんかすっごい壮大な夢!」
ばたばたと身支度を整えつつ、なんだかんだで待ってくれる眞城にそう話すと、彼女はこてりと首を傾げた。
どんな夢よ、と訊かれているのが解ったので、帯を締めながら唸る。
「あんま憶えてないけど、すごい化け物みたいなのと戦った気がする」
「化け物。虚じゃないの?」
「虚よりもっと凄いやつ。でもなんか可哀想だったな。誇大な理想を喚き散らしては、理解を得られないことに憤っているみたいで……誰も寄り添ってあげられなかったんだろうな」
「あんたホント心広いわね」
「あ、あとあたし十一番隊にいた」
「無理でしょ」
「無理だよね。でも意外と馴染んでた。更木隊長めちゃくちゃ怖かったけどけっこう優しくて、同僚も面白いのが多くてね。あとはなんか……色んな人と仲良くなってた気がする」
「ま、あんた意外とひょうきんなとこあるしね」
「ひょうきんって」
袴を着つけ終えると、荷物を持って部屋を出た。
髪の毛はまだ櫛しか通していないが、結ぶのはいつでもできる。とりあえず今は朝食を食べそびれないことが優先だった。
「おはよー檜佐木!」
「おう。珍しいな、遅かったじゃねぇか」
「寝坊した! そういえば檜佐木は副隊長になってたよ」
「なんの話だよ」
呆れ顔の檜佐木と朝の挨拶を交わして、同じ卓上に朝食のお盆を置く。いつからかはもう忘れたが、こうやって檜佐木と食べるのがお決まりになっていた。
あたしが見ていた長い長い夢の話をしながら手早く食事を終える。
お茶を飲みながら眞城は首を傾げた。
「檜佐木くんが副隊長かぁ。あたしは?」
「眞城は……あれ、眞城いなかったな。どこいったんだろ」
「護廷十三隊じゃなかったんじゃねぇの。隠密機動とか、鬼道衆とかか?」
「いやあたし鬼道下手くそだから無理。多分十一番隊の方がよっぽど性に合ってるよ」
からりと笑う眞城を、通りすがる院生たちがちらちら見ている。
ろうたけた美人の彼女はそこにいるだけで人の目をひく。かといって近づきがたいなんてことはなく、明るく、笑顔で、面倒見が良くて、たまに意地悪で可愛くて、鬼道と座学はちょっと成績が悪いが剣術と白打に秀でたところのある、将来有望の友人だ。
将来有望だった。
「でも夢でよかった。多分あれ死んだもん……死ぬつもりで戦ってた」
「なに云ってんだよ。澤村がそんな化け物と戦うなんて夢以外の何ものでもねぇだろ」
「ほんとそれよ。あとりって成績はいいけど戦闘向きじゃないもんね」
湯呑みのお茶を啜って一息つく。痛みも匂いも何もかも現実そのもののような夢だったから、くゆる湯気や熱いお茶に漸く目覚めた実感が湧いてきた。
本当、夢でよかった。
夢だったらよかったのに。
五〇年もの歳月見ていた、長い、長い夢であればよかったのに。
夢の中の檜佐木は今よりも少し大人びていた。左頬の69という素っ頓狂な刺青はそのままに、右眼から頬へ貫く三本の傷跡があり、逞しくなって、そして臆病で、優しくて、やっぱり格好いい。
あたしを見てこてりと首を傾げる表情は変わっていなかったな。
あたしを見てこてりと首を傾げる表情は、この頃と全然、変わっていないんだな。
「檜佐木……」
「なんだよ」
「っていうか檜佐木、死んじゃったのかも……」
「マジか。俺死んだのか」
あの化け物が尸魂界に侵攻してきたということは、現世で敵と戦っていた檜佐木をはじめとする隊長格が戦闘不能になり、あの山本総隊長でさえ止めることができなかったということだ。
だから生きては還らないつもりだった。
生きて還ることはないだろうと。
だったら、檜佐木が死んだ尸魂界に還るくらいなら、このまま夢が覚めなくてもいいと思った。
湯呑みを片手に苦笑いしていた檜佐木が、次の瞬間ぎょっとして立ち上がる。
「お、おいなんだよ泣くなよ! 夢の中で死んだくらいで!」
「わかんない……どうしよ死んでたら……ごめん檜佐木、夢の中とはいえ殺してしまって」
「駄目だわこの子、混乱して意味わかんなくなってる」
「だって眞城もいなかった。あたし、一人であの意味わかんない化け物と戦ってて、一緒にいた人も死んでしまって」
はぁ―――……と深い深い溜め息をついた眞城が、みっともなく泣くあたしの頬をバチンと両手で挟んで、顔を覗き込んできた。
「いい? あとり。まあ仮にあんたの夢の中であたしは既に死んでいて、檜佐木くんも死んだとしましょう」
「コラ待て眞城勝手に殺すな」
「夢の中の話よ」
慌てて首を突っ込んできた檜佐木の顔面に裏拳をお見舞いして黙らせると、眞城は改めて口を開いた。
「憶えていて、あとり」
顔面を押さえて悶絶する檜佐木がちょっと心配にはなったが、頑丈な男なのでそのうち復活する筈だ。
あとで労わってやろう。
目が、覚めたら。
「あたしの遺体は霊子となって、この世界を構成する欠かせない物質となって飛散する。だからあなたの吸う空気に、頬を撫でる風に、踏みしめる大地に、いつも過ごす建物に、あなたを形作る食べ物に、そしてあなたをあなた足らしめるその霊力に、あたしは融けている」
どこかで聴いたことのある話だった。
霊術院の座学で教わったのだったか、
四番隊の白い病室で聴いたのだったか、一番隊で上官に諭されたのだったか――
孤独なひとりの死神に、語ったのだったか。
「現世で死ぬように魂魄となって心を残すこともできないし、虚のように失った心を求めて食事を繰り返すこともない。だったら心は何処へ行く?」
ぜぇんぶ、嘘やで
「心は朋友に預けてゆくのよ」
あとりちゃん
「その意志だけは。砕けぬ刃と折れぬ心を抱いて戦った死神の志だけは、死なせてはならない」
あかんよ。あとりちゃん
「預かった志があった筈でしょ。だから、あとり。あんたは死んではいけないの」
世界のすべてに罅が入った。
硝子が粉々に砕けるような瀟洒な音がする。夥しい数の緋色の揚羽蝶が世界を夢まぼろしに消していく。懐かしい霊術院も。どこか幼い檜佐木も。今は亡き霊術院の級友たちも。先刻まで食べていた朝食の盆も。
死んだ筈の、眞城も。
「……迎えに来てくれたんだと思ったのに……」
「莫迦ね。千年早いわ」
ちょっと意地悪な笑みを浮かべた彼女の指先から、爪先から、緋色の蝶になって消えていく。
あとに残されたのはあたし一人だった。
荒れた岩肌や罅割れた大地にぽつりと佇む、あたしだけになった。
今にも泣きだしそうな曇天の下、見渡す限り何もない其のだだっ広い世界に腰を下ろす。体が重くて立っていられなかった。ここがいつもの紅鳳の世界だとしたら、どうやらあたしも紅鳳も無傷ではいかないどころか相当な危機らしい。
でも多分、死んではいまい。
死にそうなあたしの魂をぎりぎりのところで、紅鳳が此処へ引っ張ってきてくれたのだと思う。
ひらりと、どこからともなく緋色の蝶が揺らめいてくる。
指を伸ばすと静かに留まった。
「……行こっか」
死に場所を見つけたと思った。生きては還らないとも。
だけどどうやらあたしは今回もまた無事に死に損なったらしい。
帰ってこいと云われた。どれ程無様でも。血の中を這ってでも。名前を呼んでくれるはずだから、それを道標にして。
歩みを止めてはならないはずだった。
足が千切れたわけでもあるまいし。腕がもげても、腹に穴があいても、足があって生きてさえいれば歩いていける。
歩かないと、何にも追いつけはしない。
「一緒に帰ろう。紅鳳」
命ある限り立ち、刃の砕けぬ限り戦い、立ち上がれる限り歩くと決めた。
道さえなくとも。
凱歌が響いている。
なにもない荒野に吹きすさぶ寂しい凱歌が。
あなたたちがあたしを喚ぶ、あたたかい声が。
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