あたしが東流魂街第一区の『生まれ』だと聞くと、大概の人は「へえ、いいね」と答えた。
 羨望と妬みとともに。
 死んで尸魂界に飛ばされ、ランダムに住む区域を振り分けられた人がいる。身寄りもなく、誰かと家族に似た共同体をつくる人がいる。荒廃した区域に振り分けられ、生死の境を死に物狂いで生き抜いてきた人がいる。貴族として生まれ、その宿命を背負う人がいる。
 そんな人たちの中で、尸魂界の生まれ、しかも流魂街の中でもことさら平和な第一区出身とくれば、誰もが望む平穏な人生を歩む人だと妬み嫉みを頂くことも当然だった。

 ただちょっと辟易気味。
 自分の不幸を物差しにして他人の不幸を測ることは容易い。そうして自分の不幸に甘んじ、人生を嘆くことはさぞ甘美なのだろう。

 檜佐木は何も、云わなかったのだ。

 あたしが檜佐木を檜佐木として認識したのは、真央霊術院一回生、「へえ、いいね」の一言に飽いてきた六月も中頃のこと。



「あー……」

 梅雨時の空はどんよりとしていて、いつ雨が降り出してもおかしくなかった。
 幸いにも朝の登校時に傘を持参していたので、傘置き場から赤いそれを取り出す。持ち手の部分に名前が彫ってあるそれは、実家の近所の傘屋さんで買ったものだ。小さい頃から顔見知りのおじさんが特別に彫ってくれた特別な傘。

 傘を差して校舎を出ようとしたところで、玄関先に一人、見知った顔の生徒が立っていることに気がついた。

 檜佐木修兵だ。同じ学級なので一応顔見知りの間柄である。

 ぼんやりと鞄を脇に挟んで佇んでいる様子を見るに、傘を忘れたようだ。

「檜佐木くん」
「あ? おう、澤村か」
「傘、忘れたの? 男子寮前まで送ろうか」

 いいのか、と普段切れ長の目を丸くした彼にこくりと肯く。檜佐木は当時から目つきが悪く、育ちの過酷さも相まってか険しい顔つきをしていることが多かったため、同学級の生徒からは倦厭されがちだった。本人も自分から積極的に喋る方ではなかったので、一人でいることが多かったようだ。

「いいよ。どうぞ」
「悪いな、傘持つわ」

 断るより先に傘を取られ、意固地になってもしようがないのでそのまま歩き出す。
 彼は持ち手に彫られたあたしの名前を見て、いいなこれ、と呟いた。

「近所の傘屋さんのおじさんが彫ってくれたの」
「へえ。俺も頼めばやってくれるかな」
「やってもらえるように頼んでみようか?」
「まじか、頼めるか。澤村ってどの辺に住んでたんだ?」

 僅かに気まずくなりながら「東流魂街の第一区」と答える。檜佐木の過酷な生い立ちについてはそれなりに風の噂で聞いたことがあったから、なんの苦労もなくこの年まで生きてきた自分が少し後ろめたかった。
 しとしとと降りしきる雨が傘に弾かれ、骨の先から雫が垂れる。
 肩に当たったそれが跳ねて顔に掛かったので指で拭った。

「ああ、澤村はこっち生まれなんだっけ。聞いたことある」

 たいして親しいわけではない檜佐木の耳に入るまで噂になるようなことなのか。苦笑いしながら「うん、まあ」と肯く。
 彼は持ち手の名前を眺めながら、「夏休みに入ったら行ってみっかな」と唇を尖らせた。

 檜佐木は一度も、第一区の生まれなのかそれはいいな、といった類の言葉は口にしなかった。
 ただ傘の持ち手に彫ってある名前がいいなと、そんな感想ばかり零す彼に、その時のあたしは無性に安心したのだ。

「あ、ここまででいいわ。有難うな」

 女子寮の前までやってきたところで、檜佐木はあたしに傘を突き返す。
 彼の薄い肩が片方だけ濡れているのが見えて、慌てて袖を引いて引き止めた。鞄の中から手拭を出して押しつける。

「風邪ひくよ」
「……明日返す」
「うん。気をつけて」
「また明日」

 肩をぽんぽんと拭いてから、手拭を懐に突っ込んで走り出した檜佐木の後ろ姿を眺めた。
 莫迦だな、なんのために手拭を渡したと思っているの。
 男子寮の方へ彼が消えていったところで、雫が顔に跳ねてからあと、一度も濡れなかったことに気がついた。

 檜佐木が主席へと上り詰めるまでに、文字通り血を吐くような鍛錬を経たことは、きっとあたししか知らないのだと思う。こいつは意地っ張りで格好つけだから、努力する姿を誰にも見せようとしなかった。

 あたしは檜佐木に引っ張られて鍛錬に付き合ったり一緒に勉強をしたりとしているうちに、次席とは云わないまでも、彼と肩を並べて歩くことを周りに認められるようになった。
 帰る家を持たない檜佐木を実家に連れ帰って夏休みを過ごしたり、彼が刺青を入れてきたことに驚いたり、卒業前にして護廷十三隊入りが確定したことに喜んだり、一回生の魂葬の実習に引率して顔に大怪我を負って帰ってきたことに泣いたり、あたしが死にかけて檜佐木が泣いたり――実に、濃い関係となった。




 檜佐木が徐々に人気になってゆく様を傍らで眺めつつ、「檜佐木さんと付き合っているんですか」と訊ねてくる女性隊士にきっぱりと否定しつつ、あたしと奴の腐れ縁は長く続いている。
 恋愛の相手というよりは、相方のような、空気のような、相棒のような関係だ。

「あんた、修兵と付き合わないの?」

 ある晴れた日の午後のこと、十番隊へ書類を提出にきた折りに乱菊さんとすれ違って、あたしはそんなことを訊かれた。

「さあ……。どうなんでしょうね。今のところあたしも檜佐木副隊長もそんなつもりはありませんけど」
「今のところ、ってことは、いつかはそうなるかもしれないってこと?」
「人の心の移り変わりなんて、誰にも想像できないじゃないですか」
「檜佐木のことは好き?」
「好きですよ。そして檜佐木副隊長はあたしのこと大好きですよ。いやー両想いですね相思相愛だなぁ」

「お前は変なこと口走ってんじゃねェよ!!」

 すっぱぁぁぁん、といい音を立てて背後から頭を引っ叩かれた。
 檜佐木の霊圧が近付いてきていることは知っていたので、調子に乗ってぺらぺら舌を回していたのだが、案の定見事に突っ込みにきた。単純な奴め。
 あたしの頭を叩いた書類を差し出してきたところを見ると、もともと十一番隊に用があったようだ。

「痛いです檜佐木副隊長」
「うるせー。乱菊さんに変なこと云うんじゃねェ」

 書類の題目をパラリと見る。十一番隊の隊士が九番隊の隊舎でドンパチして詰所を破壊した件の破損申告と修理費の請求だった。頭が痛い。
 しれっと書類を確認し始めたあたしに、檜佐木が後ろから首を絞めてきた。

「痛い痛い痛い」
「乱菊さん! こいつ違いますから。なんかこう腐れ縁というかもう兄妹っつーか手のかかる妹みたいなモンで!」
「莫迦云わないでください、あたしが姉です」
「十一番隊行きたくないっつって夜中に泣きながら転がり込んできたのは誰だ、え?」
「俺に副隊長なんて務まるわけがねェっつって酔っ払って半ベソ掻きながら転がり込んできた挙句、追加で酒を飲んであたしのお気に入りのグラスを落として割ったうえあたしの膝ですやすや寝入っちゃったのは誰でしたっけねぇ」
「ぐ」

 頭の中で予算をやりくりしながら、十一番隊の財政難に思いを馳せてぐったりしてしまう。

「ハイハイ、今のところ、ね」

 乱菊さんは呆れたように肩を竦めた。檜佐木の視線がその豊満なお胸と妖艶な口元を行き来しているのに気づいて不快になる。おいこらもっと隠せそういう下心は。
 ひたすらに憧れの人を追いかけてここまでやってきた檜佐木は、ずっと硬派でストイックなイメージを保ってきていた。だというのに、乱菊さんに会うと途端にこうだ。
 こんな情けない姿、女性隊士に見られたら一発で幻滅されると思う。いやむしろ幻滅されてしまえ。

 昼食をとりに行くのだという乱菊さんと別れると、その背中をでれでれと見送った檜佐木が、ふとあたしを見下ろした。

「お前、痩せたか?」
「まあちょっとはね」
「昼、食いに行こうぜ」
「書類あるから」

 周囲の霊圧を探る。先程昼休みに入って、多くの隊士が食堂や町に繰り出しているせいか、ここに近づいてくる者はない。
 ぱちり、ひとつ瞬きをして体重を檜佐木に預ける。
 昔はふざけて突進しただけでよろめくこともあったのに、今ではしっかりと受け止められてしまう。大きくなったなぁと何故か母親のようなことを考えてしまった。

「……大丈夫かよ」
「うん。ちょっとだけ。ちょっとだけね」

 首に回されたままだった剥き出しの腕が、するりと下りて肩を抱く。
 その腕に指先で触れて、僅かに顎を引いて縋りつくと、檜佐木は何も云わずにもう片方の手も回してぐりぐりと頭を撫でてきた。
 こんなところ女性隊士に見られたら騒がれるだろうなあ……。

 甘やかしてほしい時に惜しみなく甘やかしてくれる檜佐木は、それはそれは素敵な恋人になるのだと思う。
 檜佐木の体温は安心する。隣にあると呼吸が楽になるし、辛いことがあれば檜佐木に頼りたくなる。確か初めて檜佐木に抱きしめられたのは――いや、あたしが最初に抱きしめたのかな――彼が一回生の現世実習に出かけて、ひどい傷を負って帰ってきた時のことだったっけ。
 下手に恋人同士になるよりも、今のままこうしてお互いさばり合う方が、あたしたちに似合っている。
 恋人同士として甘い時間を過ごしたり睦言を交わし合ったりするよりも、云わなくても云いたいことがわかる阿吽の間柄が、どうしようもなく自然なのだった。

 檜佐木の大きな掌が額から蟀谷、頬へと撫で下ろしてから、腰の辺りで止まる。両腕で後ろから一度ぎゅっと抱きすくめられた瞬間はさすがにどきりとしたものの、いつまでもこんなことをしているわけにはいかず、ぺちぺちと腕を叩いた。

「御免。もういけます」
「ああ」
「またね」

 余韻は残さず、するりとお互い離れてゆく。
 あたしが角を曲がるまで檜佐木がその場で見つめてくれることはわかっていたから、足早に、右手をひらりと振りながら歩いた。


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