わたしたちが十三歳の年である。
 この少し前にコムイが室長に就任して、ジェリーがアジア支部から招聘され、神田が蕎麦と出会って感銘を受けていた。リナリーの心の病も少しずつ癒え、これまで本部に漂っていたどこか殺伐とした空気はとろりと融けて、まさに『ホーム』と称するに相応しい雰囲気が全体に蔓延し始めた頃のことだ。

 その日は昼から神田と一緒に時間無制限の耐久組手をしていて、へろへろになりながら二人で食堂へ向かっていた。
 談話室の前を通りかかったところ笑い声が聞こえたのでひょこっと覗いてみると、ジジやロブたち科学班が宴会をしている。

「あれー、なにやってんのこんなとこで」
「おう、あこやに神田! お前らもこっち来いよ〜」

 顔を真っ赤にしたジジに手招きされたので、神田と顔を見合わせてから談話室に入った。よく見るとテーブルの上にお酒やおつまみを広げて、ポーカーやチェスをやっているみたいだ。
 手札を持ったロブが見上げてくる。

「こんな時間までトレーニングしてたのか? ちゃんとご飯食べないとジェリーが怒るぞ」
「いまから食べに行くとこ」

 一方ずいぶん酔っ払った様子のジジが神田をつかまえて「神田ァお前は可愛い顔してんだからもっと愛想よくだなァ……」とくだを巻いていた。
 ジジはアジア支部から来ているので、本部で数少ない東洋人である神田を可愛がっており、なにかとわたしたちをセットで語りたがるところがある。神田はたまに本気で鬱陶しそうにしているが、いい感情を向けられていることは解っているようなので、あからさまに邪険にしようとはしなかった。

 だからだろう。


 普通なら決して隙を見せない神田が、酔っ払いのジジにいともたやすく唇を奪われたのは。


「きっ……しょくわりィことしてんじゃねェよこのクソオヤジ!!」
「ジジ───っ!!」
「なにやってんだジジ! 酔っ払うにも限度があるぞ!」

 勿論神田はすぐさまジジを投げ飛ばした。
 周りにいた科学班が顔を真っ蒼にしつつも「自業自得だ」「そりゃ投げられるわ」「死んだなありゃ」と駆け寄っていく。
 常々の残業で体力と根性を養っているせいか、ジジはそれでも無傷だった。

「か……神田……」

 腹を立てながら口元をこすっている神田の肩を、わなわなしながら掴む。
 目の前の光景は誠に衝撃であったが、それよりも気になっていることがあった。「なんでされた神田よりあこやの方が深刻な顔してんだよ」と科学班が笑い転げているが気にしてはいられない。

「どうしよう、神田に赤ちゃんできちゃう……」
「できるわけねェだろ!!」

 くわっと神田が牙を剥いた。

「えっ、だって最近流行りのロマンス・ノベルでは、ヒロインとヒーローがキスしたら、次の章ではすでに子どもが生まれて幸せに暮らしてるんだよ……。キスしたら赤ちゃんできるんだよ!?」
「人間の子どもは男と女の間にできンだろうが。男と口合わせただけで妊娠してたまるか」
「な、なんだ……びっくりした……」

 どきどきしている胸を押さえてほうっと息を吐く。
 なにやらわたしたちを見守る科学班が温かい目になっていた。目を回してしまったジジはロブが介抱している。

 ちなみにイギリス人のわたしの母は頬にキスをして愛情表現するタイプの人だった。
 本部で一緒に過ごしていた頃は絶対におやすみのキスがあったし、父が任務に出掛けたときは行ってらっしゃいとおかえりのキスも欠かさなかった。
 そんな母でもわたしの唇にはせず、「ここは世界で一番大事なひとのためにとっておくのよ」と微笑みながら教えたものだ。

 さすがにジジのいまのキスが愛情表現とかの類いではないことくらい判断できる。
 できるが──

「ハッ」
「今度はなんだ」
「ということはつまり、わたしと神田でキスしたら赤ちゃんができるということでは……?」
「できるわけねェだろ!!」

 再びすごい剣幕で怒られた。
 その勢いに押されておおっと仰け反ったわたしに深い溜め息をつくと、神田は「あのな……」と呆れたような顔になる。

「人間の子どもってのはまず母体の子宮で精子と卵子が受せ」
「「「神田ストップゥゥゥゥ!!」」」

 今度は飛びかかってきた科学班のみんなが神田を押しつぶした。

「神田!?」さすがに悲鳴を上げてびっくりしていると、わちゃわちゃと揉み合いながらみんなが「さすがにその辺はここでは」「そういう教育は婦長に任せよう」と大騒ぎしている。

 後年聞いたが、神田は男女の間に子どもができる仕組みを、アジア支部時代に理路整然と教えられていたらしい。そこに愛や欲求や羞恥が挟まれる余地もなく、神田は単に「そういう仕組み」と捉えていたそうだ。
 苛立ちがピークに達した神田が全員を投げ飛ばすという惨状でその日の宴会は幕を閉じた。


レゾンデートル


わらうようにねむる




 また別の日のことだ。
 神田と一緒に任務から帰ってきて腹ぺこで食堂へ向かっていると、談話室から笑い声が聞こえてきた。ひょこっと顔を覗かせてみると、ジジたちがまたお酒やおつまみを広げて宴会をしている。

「あー、また宴会してる!」
「おう、あこやに神田! いま帰りか、顔見せていけよ!」

 顔を真っ赤にしているジジに手招きされた。
 酔ったジジに嫌な記憶のある神田はちょっと身を引いていたが、わたしに引っ張られて結局談話室に入ることとなった。今度は安心安全な新入り班員・リーバーの近くに控えている。

「怪我してねーか?」
「大丈夫。神田と一緒だと動きやすくて色々やりやすいしね」
「ほー、相変わらずお前ら息ピッタリでいいこった。後ろ姿そっくりだもんな、兄妹でもねーのに」
「私服で髪の毛結んでたらよく『神田ー』って呼ばれる」

 西洋人からすると、東洋人は見分けがつかないらしい。
 わたしの顔立ちは日本人の父寄りなので、背格好や髪の長さ、身のこなしがよく似た神田とは頻繁に呼び間違えられる。団服を着ていればスカートかコートかで判断できるものの、適当な稽古着を身につけているともう散々だ。
 付き合いの長い団員はさすがに間違わないが、入って日の浅い人やあまり交流のない人だと難しいようだった。

 酔っ払いのジジがにこにこしながらわたしを観察して、「よしよし、怪我してねえな」と満足そうに頷いている。

「無傷のあこやにおじさんがおかえりのチューをしてやろう」
「ジジ懲りないねー」

 繰り返すが、母が頬にキスするタイプの人だったので、特に抵抗がない。

 苦笑いしながら頬を差し出そうとしたわたしの口を、神田が後ろから回してきた手で覆った。
 べりっと音がしそうなほど乱暴にジジから引き剥がされ、彼の胸板に後頭部をぶつける。

「……クソオヤジあこやに触ったらカゲマサに言いつけるからな……」

 まるで地獄の底から甦って這いずり回る亡者のような怨嗟の籠もった声だった。
 後ろから口を塞がれているわたしには見えなかったが、よほど怖い顔をしているのだろう、神田のキレるさまを見慣れているはずの科学班が冷や汗を掻いている。
 すっかり酔いの醒めたジジが降参のポーズをとった。

「す……すまんって神田……そんな怖い顔すんなって……」
「…………」
「ごめんって神田……」

 よっぽどジジにキスされたのが嫌だったらしい。
 ファーストキスなんて事故みたいなもんだとおじさん連中は笑っていたが、このときの神田のあまりの迫力に、その後しばらくこの話は科学班の間でタブーとなった。

*   *


「……っていうこともあったねぇ」
「あったなー!」

 談話室で宴会をしていたジジの隣に座って昔の思い出話をしていると、当時一緒に神田に吹っ飛ばされたり睨まれたりしていたロブが笑った。ちょっとだけ顔を出しに来たらしいジョニーは、初耳のそれにびっくりしながらもお腹を抱えている。

「お前ら俺がアジア支部に行ってる間になんか進展なかったのかよ?」
「進展するようなこと何もないよ。さすがにもう後ろ姿で神田と間違えられることがなくなった、ってくらい?」
「んだよ面白くねーな」

 あのとき宴会を眺めるだけだったわたしも、任務に支障が出ない程度にお酒を嗜むようになり、ジョニーやアレンとの交流を経てチェスやポーカーのルールも理解した。
 とはいえ今日は普通のババ抜きである。
 つまらなそうに舌打ちをしたジジが手札を置いて、わたしの頭をガッと両手で掴んだ。

「神田の奴からかったらボロ出したりしねーかな?」

「ジジが斬り刻まれる方が先だと思う……」と口に出すよりも先に、ジジの顔が近づいてくる。
 現在のわたしは男女がキスしたくらいでは妊娠しないことも、マウス・トゥ・マウスは普通愛し合う二人がするものだということも知っている。母のおかげでキスにそう抵抗はないけれども、両親が亡くなってからは誰かとすることもなくなった。

 ジジが本気じゃなさそうなのは見て解ったので呆れ顔で無視していると、わたしと彼の間を切り裂いてテーブルに刀が突き立った。

 六幻だ。

 ジジの顔から一気に血の気が引いていく。ほらもー言わんこっちゃねー、と遠い目になったわたしの口は背後から回された神田の手に塞がれた。
 いつだったかと同じように頭を引き寄せられ、その胸板に後頭部をぶつける。

「……懲りねぇオヤジだな……そんなに細切れにされてカゲマサの墓前に供えられてぇのか」
「ま……またまたー。カゲマサどうこうじゃなくてお前が嫌なんだろ?」

 この状態の神田に言い返すジジは勇者だと思う。
 案の定ブチ切れた神田はテーブルに突き立った六幻の柄に手をかけた。周りにいた科学班がささっと距離を取る。賢明な判断だ。わたしも距離を取りたい。
 しかしこんなところで六幻を振り回しては、せっかく引っ越してきた新しい本部の、ピカピカな談話室がしっちゃかめっちゃかになってしまう。さすがにそれは可哀想な気がするので、六幻を掴んだ神田の腕に手を添えた。

「もう神田、いつものジジの悪ふざけでしょう、そんなことに六幻使わないの」
「誰のせいだ!!」

 ものすごい剣幕で怒られた。
 このくらいは慣れたものなので、「はいはい」とあしらいつつ神田の体に凭れかかる。口を塞がれていた手を下ろさせると、喉を反らして神田を見上げた。
 任務帰りで多少埃っぽいが、怪我はしていないみたいだ。
 ババ抜きの手札を放り投げて神田の首の後ろに片手を回し、激怒している彼の顔を引き寄せた。

 勢いがつきすぎてごちんと額がぶつかる。

「おかえり、神田」
「…………」
「おかえり神田! 往生際が悪いな、毎度毎度何回言わせるつもり?」
「…………戻った」
「そろそろ一回で返事してくれてもいいのに。いまからご飯? わたしもデザート食べに行こうかなぁ」
「太るぞ」
「動いてるから大丈夫だもーん。じゃあねジジ」

 丸め込まれた神田の六幻をテーブルから引き抜いて渡し、背中を押しながら談話室をあとにする。
 無事に談話室壊滅を免れたことに胸を撫で下ろしていると、後ろからジジの「相変わらずの猛獣使いっぷりだな」という感心したような声が聴こえてきた。

 ──ばか。
 ジジのばかばか、命知らず。

 おかげで神田が振り返る。
 耐性のない科学班なら十人くらい軽く射殺せそうなくらい凶悪な目つきでジジを睨んだ。

「今度こいつに触ったら六幻の錆にするからな酔っ払いクソオヤジ」
「はいはい神田行こうわたしプリン食べたい今すぐジェリーのプリン食べたいお腹減ったなぁ、その六幻にかけた手を放して、ねっ、ね!」



「……あいつら本当、全然変わってねーのな……俺あいつらの結婚式見るまで死ねないと思ってんだけど……」
「ジジそれ頼むから思うだけにしといてくれ。今度こそ新しい本部が壊滅する」