ノアによる本部襲撃のあとすぐ、中央庁と教団の幹部が招集され、今後の体制について連日評議が行われた。
 科学班は約半数の研究員を失い、その他の班も含め被害は甚大。
 本部はしばらく機能を失ったように静かだった──


 が。



「はい神田くんこれ、あこやちゃんのお見舞いのお花ね」
「……なぜ俺に渡す」
「あこやちゃんもどうせなら神田くんの顔が見たいだろうしさー、あれからお見舞い行けてないんでしょ? 寂しがってると思うなー」

 ニヤニヤしているコムイの後ろでモヤシやウサギ野郎やマリたちがうんうん肯いている。
 コムイの垂れる理論には一片たりとも納得できなかったが、あこや風に寛大に解釈してやると「俺たちをからかうことで日常を取り戻そうとしている」ということになるのだろう。男どもはともかく、そのまた後ろでリナリーがひょこひょこしているのを見ると、反論するのも馬鹿らしく思えてきた。

 あの襲撃では多くの団員が死傷した。
 エクソシストの中で最も重傷だったのは、第五研究室への応援に駆けつけてからレベル4との対峙の時間がかなり長かったあこやだ。意識は戻っているがしばらく面会謝絶の絶対安静、今日ようやく一部に面会の許可が下りたという。

 ……考えるのも面倒になってきたのでコムイの差し出している花束を引っ手繰った。

「やった! きっと神田くんがお見舞いしてくれた方があこやちゃんの怪我も早く治るよ!」
「ンなわけねぇだろうが下らんこと言ってんじゃねェよ」
「いや、何にしても神田……」

 愉快そうにこの光景を眺めている男連中の中で一人、やや神妙な表情になっていたマリが口を挟んだ。

「……多くが、命を落としたから。また眠れなくなっているんじゃないだろうか」
「あっ、あこやちゃんがしてほしいって言うなら添い寝してきてもいいよ!?」

 コムイを殴り飛ばして病室を出た。

 別に顔が見たいとか添い寝がどうとかの問題ではない。ただここにいて揶揄の標的になるよりは、あこやの病室に避難した方が静かなのは確実だったからだ。


レゾンデートル


いま君の動脈が温か
いということ 花束




 あこやはカゲマサが死んで以降、教団の誰が死んでも涙を見せなくなった。

 それが例えどれだけ仲の良かった探索部隊でも、よく喋っていたエクソシストでも、まるでカゲマサを喪った以上の痛みなどないとでも言うように。
 ただ小さく死を悼む祈りの言葉を口にして、遺体が残っていれば目や口を閉じてやり、残っていなければ遺品を必ず拾って帰る。

 だからあの日、腕の中で涙を流す姿を見下ろして、何も言えなかった。
 ただ痛かった。

 戦いの邪魔にならないよう雑に縛りつけられた折れた左腕も、あばらを庇うような歩き方も、顔の右半分を染める赤い血も、体重の乗っていない右足も、柄の半ばから消失した『薄氷』も、力の抜けた体も、その凄惨な状態で他人のために涙を流すさまも──
 目を逸らそうかと思うほど、痛々しかった。

 あこやの怪我は簡単には治らない。
 アクマの弾丸を受ければ一発で砕けてしまう脆弱な人間だ。
 カゲマサのように、遺体も残らない。

「神田はいま左手痛くない? わたしが痛いのを見て、自分も痛いような気がしない?」
「わたしも一緒だよ、神田が怪我をするたびにわたしも痛いの。お父さんも、マリも、婦長も、ティエドール元帥もそう、神田が痛い思いをするたびにわたしたちも痛くて悲しい……」




 病室の扉を開けると、あこやが「お」というような顔をした。
 いつも誰かといて常に笑っているような奴だが、二人でいるときはどこか老成した空気を湛えていることが多い。それでもたまに見せる子どもの頃の面影は嫌いではなかった。

「神田だ。お見舞い第一号おめでとう。なに、コムイに唆された?」

 見ていたように言うなこいつ。
 呆れ交じりにコムイから押しつけられた花束で顔を叩くと、けらけらと明るい笑い声を上げる。「神田は相変わらずリー兄妹に弱いね」うるせぇ余計なお世話だ。
 膝の上に置いた花を眺めて呑気に喜んでいる顔色は、けして良いとは言えなかったが、襲撃直後よりは血の気が戻ってきているようだった。

「……状態は」
「大体神田の見立て通りだったよ。左腕・肋骨の骨折と細かい打撲に裂傷、右足首は疲労骨折だったみたい。しばらくは車椅子生活だって」

 ベッド横の椅子に腰を下ろすと、あこやはすっかりいつも通りの笑顔を見せた。

「神田はもう全快って感じか。ラビやアレンたちは?」
「お前ほどじゃねぇよ」
「まあ、あそこで戦えたのわたしだけだったからねぇ。これで方舟の無能は帳消しになったかな」

 まだ気にしてんのかコイツと内心でごちる。
 見透かしたように口角を上げるその様子からは「当たり前じゃない」という声が聞こえてくるようだったが、実際には口を開かないまま、布団から出した右手をこちらに差し伸べて見つめてきた。

「…………」

 特に何も考えずその右手を握ると、ぎゅっと握り返される。

 握力、落ちたか。あの日から寝たきりなら筋力や心肺機能も弱くなっているだろう。
 復帰が大変だろうなとぼんやり考えていると、あこやは無言で握り合った手と手に視線をやっている。

「神田痛かった?」
「は?」
「わたしが珍しくボコボコなの見て痛かった?」

 伏せられた長い睫毛をなんとなしに眺めつつ、九年間傍らで見慣れたその女の、白々しいほど華奢な首筋へと視線を滑らせた。

 あこやは世辞抜きに強いエクソシストだ。
 レベル2までのアクマ相手なら大体無傷で切り抜けるし、江戸に至るまでの戦いでもレベル3にほぼ苦戦しなかった。元帥を除くエクソシストの中では筆頭戦力に数えられている。
 ここまでの怪我を負っているところを見たのは、久しぶりだった。

「なんとなく同じところが痛かったり、あこやが左手をあまり使わないように気遣いたくなったり、胸の辺りがもやもやしたりしなかったかな……それが、『自分も痛い』ということだよ」

 応えずにいると、彼女はふふと口元で笑う。
 肯定する代わりに口の中で舌打ちをした。

「……早く治せ」
「あはは、そんな簡単に治らないよ。神田じゃないんだし」

 その目元を注視してみたが、デイシャが死んだあとのような酷いクマはない。
 誰が死んでも泣かない代わりに、親しい人間が死んだときは眠らなくなった。誰にもそれを悟らせず任務に出ては、夜、気絶に似た睡眠を取る。見ていて鬱陶しいくらい痛々しいからそのときのこいつは嫌いだったが、今回は平気らしい。

 あのとき、きちんと泣いたからだろうか。
 腫れてもいないから泣き通しというわけでもなさそうだ。

 包帯や三角巾の目立つ痛ましい躰を眺めていると、ふと、九年前にアジア支部で瀕死のマリを見つけたときのことを思い出した。
 傷口に血が垂れて、そうしたらマリの怪我が治ったのだ。
 だからどうというわけでもなかったが、ただ当時のことを考えていると、ふとあこやが視線を上げて顔を覗き込んできた。
 小首を傾げて、ヘーゼルの双眸をくるりと煌めかせる。

「なに考えてる?」
「…………」
「だめだよ」
「…………」
「それは奥の手。もっと命の係った場面で、神田が心の底から救けなければと思う人しか救けちゃいけない、それくらい危険な手でしょ。バクもお父さんも、中央庁に報告すらしてないんだから」

 握りしめた右手は温かい。
 よくよく集中してみると、血の流れも感じられる気がする。


 ……生きている。


 すると彼女は「解ったならいいけど」と肩を竦めた。
 驚くことに何も喋っていないのだが、あこやとしては会話が成立したことになるらしい。よくもまあ、と呆れ半ばに感心していると、彼女は時計に目をやって眉を下げた。

「あんまり長い時間外出してたら婦長が怒らない?」

 こいつに限ってないだろうが「一人になりたいから出て行け」ということか、或いは純粋に怒られることを心配しているのか、それとも逆に一人は飽いたから話し相手がほしいのか。
 ……最後だろうな。
 何も考えていないようでいて、昔から笑顔の裏で色々と思い詰める奴だ。

「……戻るよりこっちの方が静かだ」
「あー、確かにね。じゃあ神田、食堂行ってジェリーに何か飲み物淹れてもらってきてよ。おやつでも食べよ」

 こてんと首を傾げて堂々とパシってくるあこやを見ているとなんだか力が抜けてきた。
 だらだら血を流しながら喪失に泣く姿が、ずっと頭の隅にちらついていたからかもしれない。

 握りしめていた右手に力を込める。
 最初は熱いくらいだと感じていた体温はいつの間にか混ざり合って、同じくらいの熱を持っていた。
 体温高いんだよな、こいつ。
 言ったら「神田が低いだけだから!」と騒いで手をさすってくるので黙っておいた。

「わたしホットミルクがいい」
「……冷めるぞ」
「神田が走れば問題ない! ダッシュダッシュ」
「ざけんな」

 ぺし、とその頬をはたきながら立ち上がる。
 正直なところもっとへこんでいるかと思っていたので拍子抜けしたことは否めなかった。あこやは歯を見せて笑うと「泣いてもどうしようもないもん」と、訊いてもいないのに疑問に答えてみせる。


 よく泣く奴だった。
 いまはそれ以上によく笑う。


 まるで自分が死んだあとも、笑顔だけを憶えていてほしいというように。


 無意識に過ぎったその考えにぎくりと肩を強張らせると、まさに彼女は『そのような』笑顔を向けてくる。

「よく食べてよく寝て一日も早く復帰して戦争に勝つ」
「…………」
「怪我治ったら鍛錬付き合ってね!」
「……ああ」

 努めて低い声で応えると、一旦病室をあとにして扉を閉めた。
 息を吐きながら戸に背を預け、意識せずとも勝手に頭が反芻してしまう笑顔を思い出して忌々しい気分になった。
 昔からよく泣く奴だった。いまはそれ以上によく笑う。まるで自分が死んだあとも笑顔だけを憶えていてほしいというように、そして実際教団の人間はあいつの笑顔を思い出すのだろう、教団に生まれて誰とでも仲がよくてエクソシストとしてしか生きられなかった哀れな少女の笑顔を想って、懐かしむのだろう。

 教団も世界もどうなろうと知ったことではないし、奴らのしたことを許したことは一瞬たりともない。
 それでも少なくとも、九年間罵倒しようが大ゲンカしようが傍らにあったこの笑顔が馴染む程度には絆されたのだと思う。

 腹立たしさに舌打ちを零して食堂へ向かった。
 例え俺より先に死んだって、けしてあいつの笑顔を思い出してなどやるものか。