アレンたちの怪我は順調に治りつつあるらしい。
 とはいえ医療班を預かる婦長からすれば、病室で大人しく療養しておいてほしい疲労レベルだというのに、エクソシストたちは隙を見て抜け出しては修錬場で暴れ回っているそうだ。
 わたしも早く体を動かしたいな、と、固定された腕や足首を見下ろしながら考える。

 あまり長く平穏に浸っていたら、戦場に戻ったときに勘が鈍りそうだ。
 大怪我を負った経験が少ないから尚更。

「……暇だな〜〜」

 たまにリナリーが差し入れてくれる書庫の本を読み進めているのだが、読書も続くと飽いてくる。
 面会は最低限にと婦長が制限しているせいで、神田やリナリーくらいしか話し相手もいない。

 ぼんやりと病室の天井を見上げていると、荒々しい足音が近付いてきた。
 これは神田だな。しかもかなりイライラしているときの。
 またティエドール元帥にちょっかいかけられたのかな。いい加減神田もいちいち爆発するのやめればいいのに。

 入口に視線を向けて待っていると、案の定、怒り心頭といった様子の神田が顔を真っ赤にして扉を開け放つ。その左耳が腫れ上がっていることに気付き、いやこれ元帥じゃないなと自分の推理を打ち消した。元帥はこんな形で神田に手を上げることはない。
 その手には車椅子が引き摺られている。

「……どしたの、その耳」
「うるせえ!」
「神田にそんなことできるのはリナか婦長くらいか……さてはまた病室抜け出して婦長に怒られたな?」

 ぐっと黙り込んだ。図星だ。
 返事の代わりに乱暴な仕草で膝のシーツを引っぺがし、両手を伸ばしてくる。若干荒い手つきでベッドから車椅子へと移動させられた。
 左腕に振動が響いて鈍く痛む。
 顔には出さなかったはずだが、神田は動きを止めて「痛むか」と訊ねてきた。

「べつに」
「痛ェならそう言え」
「神田が『痛いの痛いのとんでいけ〜』ってやってくれたら治るかも。ほらぁ昔みたいに」
「コムイの野郎のとこまで飛んでいけいますぐに……!」
「そりゃコムイが可哀想だからやめてあげなよ……」

 成る程、さしずめコムイに「あこやちゃんのこと迎えに行ってあげなよ! きっと神田くんが行った方があこやちゃん喜ぶよ!」云々、とにかく面倒な絡み方をされたのだろう。
 あまりに多くの犠牲が出た本部襲撃のあと、コムイはわざと神田やわたしをからかうことで日常を取り戻したふりをしようとする。最初のうちは神田も寛大な心でからかわれていたようだが、そろそろ限界だと思うぞ、コムイ。


レゾンデートル


いま君の動脈が温か
いということ 墓碑




 イライラしている神田の同伴のもと、久しぶりに医療班フロアの外に出た。
 わたしが病室でぼけっとしている間に、先日の襲撃による惨状は粗方片付いてしまったらしい。所々に残る罅割れや損壊の痕がやたらと空虚だ。
 それでも団員の行き交う様子は、一見日常を取り戻したかのようでもある。──というか、本当に取り戻しつつあるのだろう。どいつもこいつも仕事中毒だから。

「どこ行くの?」
「科学班」
「なんで?」
「……リナのイノセンスの調査結果が出た」

 リナリーのイノセンス、『黒い靴』。
 見舞ってくれた彼女本人から聴くに、シンクロ率低下のせいで発動できなくなっていた『黒い靴』は、一旦ヘブラスカの体内に戻されていたらしい。本部に滞在していたルベリエはレベル4の侵攻を受けて、彼女がもう一度イノセンスとシンクロすれば勝機が見えるとリナリーをヘブラスカの間に連れてきた。
 生まれて初めてイノセンスを心の底から望んだと、リナリーはどこか切なそうに教えてくれた。

「ずっとあの靴は重くて苦しかった……。でもね、みんなを護る力を持たない自分は、それと同じくらい歯痒くて怖かった。そしたらイノセンスが、まるで『飲んで』って言うみたいに手の中で溶けたの」

 飲み下したイノセンスは一度体内を通り、リナリーの両足首から血液となって噴き出した。

 その血を黒い靴に変えて、彼女はエクソシストとして戦うことを択んだ。

「リナ、強かったけど……寄生型になったってことなのかな……」
「…………」

 寄生型イノセンスは体に大きな負荷がかかり、ゆえに短命であると考えられている。
 いつだって戦争が嫌いで、でも教団にいる家族のために戦うのだと笑っていた、優しくて可愛いリナリー。
 自らイノセンスを望みエクソシストとなることに、一体どれほどの覚悟が必要だっただろう。


 あの子の覚悟がなければレベル4は撃破できなかったかもしれない。
 でも、安易に喜ぶことはできない。


 神田に押されて科学班に到着すると、すでにみんな揃っていた。
 アレンとラビとマリ、ついでにブックマンの耳が神田と同じように腫れ上がっていたのは、まあ、同じ理由なんだろう。
 エクソシスト陣に、現在中央庁へ出張中のクロス元帥を除いた元帥三名、コムイとリーバー、それからリンク監査官が勢揃いしている。

「お、来たねあこやちゃん!」
「お待たせー」

 それから告げられたコムイとリーバーの見解によると、リナリーのそれは寄生型への変化ではないという。
 イノセンスの反応は彼女の両足首にリング状になって残った結晶から出ている。これはもとはリナリーの血液だったものだが、現在は全く別の金属物質に変化した。
 ラビが顎に手を当てる。

「なるほど“血”か。適合者の体の一部……」
「これは装備型の進化型だ。適合者の血液と引き換えに、そこからイノセンス自体が武器を生成するタイプ」

 命名は『結晶型』。
 全ての装備型適合者に起こり得る進化だという。

「神さまは僕らを強くしたいってことか」
「仕方ありません」

 ティエドール元帥の独白にマリが応えた。

「先日の襲撃……江戸からの帰還直後で隙があったとはいえ、元帥がいなければ本部は壊滅でした。これは弱気になって言うのではありませんが、……私には伯爵が、我々などいつでも殺せると、そう言っているように感じました」

 アクマの進化に合わせるように、イノセンスも強くなっていく。
 これだけの犠牲を払ってもなお神はわたしたちの進化を求める──


「神とは、人を救う存在ではなかったのだろうか……」


 イノセンスと適合者の結びつきの研究をしていた母や、装備型エクソシストとして教団で有数の実力者だった父が生きていれば、なんと言ったのだろう。
 そんなことを考えながら視線を落とすと、ぺしっと神田に頬を叩かれた。
 その様子を見たリーバーが「あこや?」と首を傾げる。

「どうした。怪我が痛むか?」
「いや、あー、ダイジョブ。続けて」
「……報告は終わりだろ。連れて帰るぞ」

 車椅子の持ち手を掴んで引いた神田を振り仰ぐ。

「えーもう? せっかく久しぶりに外に出れたのに。もうちょっと外の空気吸いたい」
「車椅子でどこ行くつもりだ。一人で階段も降りられねぇくせして」
「神田、抱っこ」
「窓から落とすぞ」

 抱っこなんてさせたら婦長からの雷が落ちそうだけど。
 神田の怪我がすぐ治るのは彼女も知っているが、いまのあの人にとっては怪我が治ろうと治るまいとエクソシストは全員等しく『怪我人』なのである。
 なおも「えー」と駄々をこねていると、神田は深い溜め息をついた。

「顔色が悪い」
「そう?」
「これ以上うだうだ言うならオトして抱えて帰る」

「神田そんな物騒な」苦笑しながらマリが止めてくれたが、神田はやるといったらやる男。
 それでも退かないわたしを見て、神田が為す術なしと項垂れる。いままで大人しく療養していたのだからたまの我が儘くらい聞いてくれてもいいのにと、ぷくっと頬を膨らませてみると、アレンが「あはは」と笑いながらつついてきた。

「いいじゃないですか神田。みんなで本部をぐるっと一周して、それで医療班に戻りましょう」
「寂しかったんよな〜あこや?」
「そだよ。一人であんなとこ閉じこもってたら治る怪我も治らんわ。さあ行け」

 ノリノリで車椅子のハンドルを奪ったのはラビで、「出発しんこーっ」と楽しげに走りだしたのを、マリが慌てて「こら待て」と襟首を引っ掴んで制止する。苦しそうなラビの声が耳もとに聞こえて思わずびっくりしてしまった。
 マリが深く溜め息をついている。

「全く……つい今しがた婦長に説教食らったのを忘れたのかお前は」
「うっ」
「このうえあこやを連れ回してみろ、今度こそどうされても文句は言えないぞ」
「ううっ」

 そういえばみんな揃って左耳引っ張られたんだっけ。痛いところを突かれて口ごもったラビと真っ青になったアレン、そっと顔を逸らす神田。
 マリはラビを遠ざけてから、わたしの前に片膝をついた。

「どこか行きたいところがあるんだな?」
「…………」

 マリ。もうエクソシストたちのなかでは一番の古株の、みんなのお兄さん。
 このなかでは誰よりも彼との時間が長かった。わたしのことも神田と同じくらいよく解ってくれている。
 無言でぎゅっと太い首に抱き着くと、苦笑いする気配があった。

「……神田」と、なぜだか彼に呼びかけたマリは、わたしを車椅子から持ち上げる。彼の腕に巻かれた包帯は気にかかったけれど、どうやら連れ出してくれるつもりらしい。

「三十分ほどで戻ると伝えておいてくれ」
「……なんで俺が……」
「誰が行くより説得力がある。あこやのことだから」

 盛大な舌打ちが返事だった。



 目の見えないマリはそれでも、バクの作ったヘッドホンで周囲の音を拾うことで、常人と変わらぬ生活を送っている。
 わたしを両腕で抱っこしたまま階段を下り、裏口から建物の外に出ると、本部の周りに鬱蒼と茂る森のなかをのんびりと歩いていった。整備された道々のうち一つを間違いなく辿り、やがて少し開けた鎮魂の広場に出る。
 歴代エクソシストの殉職者の名が刻まれた墓碑。
 そしてその周囲には、教団百年の歴史のなか命を落としていった先人たちの名を記したものも並ぶ。ただしここにあるのは“表”の死者だけだ。恐らく実際は、無茶な実験などによってもっと多くの犠牲者がいる。

 一番新しい墓碑の前で下ろしてもらうと、マリも隣に座り込んだ。

「……たった半年でずいぶん増えたよね……」
「そうだな」

 先日の襲撃で犠牲になった仲間たちは、あまりに数が多すぎたからか、部署別のアルファベット順で機械的に羅列されている。
 指先で凹凸をなぞった。
 よく知る名がいくつも並んでいた。聞いたことのある名も、知らない名も。

「……この人、誰だろ。アンドリュー・ナンセン」
「ああ、オセアニア支部長だな。ノアは彼の姿をとって侵入してきた。本人の遺体は地下水路で発見されたらしい」
「そう。……痛かっただろうね」

 ひとり、ふたり、と最初は数えていたけれど五十を超えたところでやめた。アクマの襲撃によって直接命を落としたのは科学班と探索部隊が多かったけれど、本部の建物の崩壊に際して破片の下敷きになったり直撃を受けたりした者もあり、医療班や生活班などからも数名犠牲者が出たらしかった。

「みんな痛かっただろうな。怖かっただろうな……」
「あこや」
「わたしがもっと強かったら、ここの名前はいくつかでも減ったかな」
「……喪ったものばかり数えるのはやめよう。辛くなるだけだ」

 名前の一つずつをなぞっていたわたしの指先を、マリのおおきな手が包み込む。

「守れたものもたくさんあったはずだ。そう思わなければ」

 うん。
 でもね、マリ。
 病室に一人でじっとしていたら声が聞こえてくるの。
 あの悪夢のような朝の、みんなの呻き声や、マービンの謝罪や、ジョニーの助けを求める声が。レベル4の笑い声や、破壊音や、「この本部から撤退する」と決めたコムイの声が。みんなの慟哭や、すすり泣く声や、痛みに喘ぐ声が。

 でもこれは、生き残ったからこそ見ることのできる悪夢だね。

 マリの手を握り返して項垂れた。
 柔らかく、温かい。生きている人間の手だった。

「主よ……」

 ──主なんて本当にいるのか?

「永遠の安息を彼らに与え、絶えざる光を照らしたまえ」


 ──神とは人を救う存在ではなかったのか?


「彼らの安らかに憩わんことを……」


 それでもわたしたちはイノセンスとともに戦うことしかできない。戦うことを課せられたわたしたちは、神に背き、疑えば咎を受けるからだ。わたしたちが戦わねば無辜の民の多くが死ぬからだ。
 ならば神とは一体なんなのだろう。