中国語を喋れないわたしは彼女にとっては『教団側の人間』だ。強制的に連れてこられたあの子の孤独や帰りたい気持ちを解ってやれないわたしは、仲良くなりたくても近づくべきじゃない。
代わりにあの子は神田に懐いた。
教団は家ではない、そう強固に考える神田の傍の方が居心地がいいのだろう。中国語で会話する二人はまるで兄妹のように見えた。
ああ、と、その様子を見て納得した。
いままで本部の家族たちに対して感じていた名状しがたい疎外感。
『教団で生まれたわたし』と、『外の世界で生まれたみんな』。
いくらみんなを家族と言ったって、みんながわたしを育ててくれたって、その意味でいうとわたしはこのホームで孤独だった。
レゾンデートル
双子 3
神田と喋るようになってからリナリーには笑顔が零れるようになった。中国語の解説が入るので勉強も進み、英語の習得もかなり進んでいる。
リナリーには兄がいた。
十三歳も年上のコムイという人。
父と母はアクマに殺されたが兄は生きている、兄に会いたい、家に帰りたい、中国に帰りたい、神田との会話の端々にそういう話題が上がるのだそうだ。リナリーに近寄らないようにしているわたしのためかどうか知らないが、神田はたまにそういう話をしてくれる。
「はあ〜〜〜いいなぁ神田……わたしにも中国語教えてよ。わたしもリナリーと喋りたい」
「中国語以前の問題つったろうが」
「そうですねー、どうせ教団生まれですよーだっ」
「リナが任務に出るようになったらまた変わってくんだろ」
「神田だけリナって呼んでるのほんとずるい、わたしも呼びたい」
「俺に言うな」
ぽんぽんと言い合いながらノートに書き取りしているわたしたちを、神田の横に座っているリナリーが不思議そうな顔で見上げてきた。
近寄らないようにと言っても限界はある。勉強は子ども三人まとめて行うことが多くなった。
「リナそこ、スペル違ぇ」
「そう言う神田もそこ違うよ」
「チッッ」
じっと机について勉強するのが嫌いな神田は、この時間大体イライラしている。
神田のイライラにすっかり慣れているわたしは全く気にしないが、リナリーはいつもおろおろしていて可哀想だった。そのうちこういうものだと慣れるだろうけど。
「……ねえ神田、お姉ちゃんの名前なんていうの」
「あ? あこや」
「呼んだー?」
「呼んでねぇ」
「いや呼んだじゃん」
「スペルは?」
「は?……おいあこや、テメエ名前のスペル教えろ」
「はー? そのまんまじゃん、はい」
両側から話しかけられて神田も大変そうだな。
意外とリナリーの面倒を見るのも嫌いじゃなさそうな神田を見ながら笑っていると、リナリーは紙面に「あこや」と書いてちょっとだけ口元を和らげた。
「あこやお姉ちゃん」
「…………」
感動で泣くかと思った。
「カンダとあこやは、どっちの方がお姉ちゃんなの?」
「ぶふっ」
「…………」
リナリーのつたない英語につい噴き出して椅子から転げ落ちたわたしを神田は無言で蹴り飛ばす。
蹲ってお腹を抱えるわたしの背中をげしげしと足蹴にしながら、神田は必死に怒りを押し殺していた。
神田は確かにきれいな顔をしていて髪が長い。
後ろ姿でわたしと間違えられることも多いし、父の「市村景政」よりも性別のはっきりしない名前だからか、女の子と勘違いする団員も多かった。そういう場合神田は問答無用で睨みつけたり文句をつけたりするのだが、さすがにリナリー相手にそれはまずいと解っているらしい。
「カ、神田は男だよリナリー」
「えっ」
「…………」
こんなに怒鳴りつけたいのを一生懸命に堪えてる神田、初めて見た。
家族じゃない、って難しい。
物心ついた頃から団員とのあいさつは「おはよう」「いってきます」「ただいま」って当たり前にしていた。みんなもとりあえず、同じ建物に暮らす仲間として普通に返事をしてくれていた。改めて「家族じゃない」人との接し方が、わたしにはよくわからない。
例えば、神田には「おかえり」って言わないほうがいいんだろうか?
もしかしたら帰ってきたくないと思っているかもしれないのに。
教団で過ごすうえでは人間関係が円滑であるに越したことはないと、まだまだ獣じみていた神田にあいさつを教え込もうとしていた時期もあるけれど、かえって神田の傷を抉るようなことになっていたんじゃないだろうか。
小さな頭を抱えてあれこれ悩んでいたものの、最適解など出ないまま暫く。
その日、わたしは父やマリ以外の大人のエクソシストと任務に出ることになった。
昼食前に呼び出されて指令を受け、団服に着替えてから昼食をとり出発する手筈だ。いつも通りに父と神田と並んで食事を終えて、トレイを手に立ち上がる。
「このまま発つんだね、あこや。忘れ物はないかい」
「うん、大丈夫。行ってきます、お父さん」
いつもなら、隣でしれーっとしている神田の耳を引っ張って返事がくるまで「行ってきます」と繰り返すところだけれど。
先日のけんかで父は言った。
──理解できないものを理解しろとは言わない。ただ、そういうこともあるのだと、その事実を納得することは必要だ。
それは神田に対する諭しであったと同時に、わたしに対する注意でもあったのではないか。
神田が嫌がっているのだから、わたしも必要以上に家族扱いしてはいけない、と。
そんなことも考えていたから、わたしはこの日、初めて神田と言葉を交わさないまま出立したのだった。
「……? またけんかでもしたのか、お前たち」
「してねぇよ」
目を開けると、見慣れない天井が広がっていた。
本部の医療フロアではないようだ。恐らくどこかの病院なのだろうけれど、前後一切の記憶がない。ぴくりと動かしただけでも体が痛かった。筋肉が強張っているみたい。
夜中なのかひどく暗い。
けれど病室のカーテンから月の光が差し込んでいるおかげで、わたしの顔を覗き込んでくる人の瞳の蒼さはよく見えた。
「……かんだ?」
「起きたか」
「の、ど、いたい」
神田はぎゅっと眉間に皺を寄せると、枕元の水差しからコップに冷水を注いだ。
その間にわたしは指先から体を叩き起こす。手足の指、手首足首、肘、膝、肩、腰、首。少し動かすたびに筋肉は悲鳴を上げたけれど五体満足だった。
背中に手を差し込まれたので、上体をそっと起こす。
冷たい水が喉を通ったことでようやく頭がはっきりしてきた。
「どのくらい寝てた……?」
「一週間」
「あらまぁ……」
そうだ、思い出した。
あんまり一緒になったことのないエクソシストとの任務で、アクマがレベル2に進化したことで後れを取ったのだ。本部に救援要請をしたはいいが探索部隊が全滅、わたしがイノセンスを持って退避しようとしたところで、記憶がふつりと途切れている。
訊きたいことは色々あった。
何から訊けばいいのかわからないほど。
「……神田こんなとこで何してんの?」
「別の任務帰りに寄っただけだ。マリが見舞いに行くっつって」
「で、そのマリは……?」
「ホテル。あいつ俺に押し付けて自分はとっとと帰りやがった」
「ふふ」
神田に怪我人の看病を押し付けられるのはマリと父くらいだろうな。
彼はわたしの手からコップを取り上げ、ゆっくりと体を寝かせてくれた。なんだろう、びっくりするほど甲斐甲斐しい。もしかしてわたし、思わず神田が優しくなるほど危ない状態だったのかな。
「……生きてる……」
「テメェだけな」
「……やっぱりそうかぁ」
はらりと眦から零れた涙が、蟀谷を伝って耳にかかる。
神田は不機嫌そうな顔でわたしの涙を拭うと、「痛むのか」とぶっきら棒に訊ねてきた。
「痛くないよ。大丈夫」
「じゃあなんで泣く」
「悲しいから。みんないい人だったの。護れなかった……」
次から次へと溢れる涙を、神田は困ったように指先で拭い続ける。
神田にとってはきっとどうでもいいことなのだろう。特定の何人か以外は全て敵と見做しているような状態の彼だ。わたしが泣いている意味が解らないはずだし、彼からしたら不愉快かもしれない。
「神田あのね」
「……んだよ」
「わたし色々考えてたの。神田にとって教団はきっと憎い存在なのよね。わたしにとってはみんな家族だけど、教団はそれだけじゃない、本当はよくないこともたくさんしてる。神田の気持ちを変えることはできないし、すべきじゃない」
「…………」
「でもね、わたしにとっては神田は大切な家族だからね」
「…………」
「嫌かもしれないけど、やっぱりわたし神田におはようって言いたいし、行ってきますも、行ってらっしゃいも、おかえりもただいまも言いたい。一緒にいただきますとごちそうさまって言って、おやすみって言ってから眠りにつきたいよ」
神田の表情は動かなかった。
ただ“そんなもんか”と受け止めているように、鏡のような蒼い双眸でわたしを見下ろしている。
涙を拭ってくれていた手に指先を伸ばすと、神田の手は怯えるように動きを止めた。
「じゃないといつか後悔する……」
「…………」
「神田が突然帰ってこなくなったとき、わたしきっと、最後に神田と交わした言葉はなんだっただろうって、思い出せなくて後悔するから」
神田は暫く逡巡するように気配を消したあと、わたしの手を握り返す。
相変わらず不機嫌そうな顔で、ちらりとも微笑みはしなかったけれど、どこか柔らかいものを感じさせる瞳をしていた。
「……俺はそうそう死なねぇぞ」
「わかってるよ。それでも」
「……好きにしろ」
「ん。好きにする」
──そうして開き直ったわたしVS相変わらずの神田という、あいさつ合戦の日々がまた始まるわけである。
神田とギャーギャーやり合うわたしにリナリーが心を開き始めるのはすぐだった。
すたこらと歩く神田の横でわいわい騒ぐわたし。それを追いかける小さな足音が聞こえて振り返れば、リナリーが一生懸命走ってくる。
以前に比べてその表情が明るくなったことが嬉しくて笑うと、神田も首だけちょこっと振り返って、ほんの少し、さりげなーく、歩くペースを落とすのだ。
そんなふうにしてわたしたちは双子だった。
そんなふうにして、わたしたちは三きょうだいにもなった。