「そういえば神田、もうリナリーには会った?」

 隣に並んで朝食をとりながらそう訊ねると、神田は「なんだそれ」と目を細める。

「『なんだ』じゃなくて『誰だ』。リナリー・リーっていうチャイニーズの女の子で、わたしたちより二つ年下で、イノセンスに適合してるんで二年前に本部に来たの」
「知らねえ」
「って言ってもまだ任務にはつかないんだけどね。二年も経つのに全然仲良くなれなくてさぁ、言葉も通じないしなんか怖がられてるみたいだし……」

 わたしがぶつぶつ呟くのを聞き流している神田は、先日父とともに初任務に出掛け、その戦闘力の高さを探索部隊に見せつけて一時話題になった。
 とはいえぶっきら棒で無愛想、わたしとは激しい口論を交わしても他の人とはほとんど喋らない、挙句売られた喧嘩を三倍にして返す気性の荒さから、ものの見事に「やばいやつ」認定を受けつつある。
 多分マリ相手なら多少は穏やかに喋るのだろうが、彼はまだ長期任務から帰って来ていないのだ。

「よし、今日はリナリーのところ行こう。神田も来てね」
「はあ? 誰が行くか」
「いいじゃん、年が近いんだからとりあえず挨拶だけでも!」


レゾンデートル


双子  2




 リナリーはよく談話室で勉強をしている。
 わたしもそうだが、幼いときから教団で過ごしている子どもは、普通の環境なら受けるはずの教育を受けることができない。だから大人たちが代わる代わる教師を務めて、言葉や算数などの基本的な勉強をする時間が設けられていた。

 昨日別々の任務から帰還したばかりのわたしと神田は、今日は授業がない。
 面倒くさがる神田の手を引っ張って談話室を訪れると、イエーガー元帥とリナリーがテーブルについていた。

「イエーガー元帥、こんにちは」
「こんにちは、あこや、神田」
「ちょっとだけリナリーとお喋りしたいです」

 厳しいけど優しいイエーガー元帥なので、正直に申し出ると笑いながら「いいですよ」と肯いてくれた。
 相変わらずわたしのことが苦手らしいリナリーは、眉を下げて目をうるうるさせながらイエーガー元帥にしがみつく。やっぱりだめかとショックを受けつつも、引っ張ってきた神田の背中を押して紹介した。

「リナリー、こちら神田ユウ、この間正式に入団したんだよ。無愛想だけど極悪人ではないし、年が近いから仲良くしてやってね」
「オイなんだその言い方」

 彼女は初対面の神田を見上げて首を傾げる。
 神田もなんだか不思議そうな面持ちでリナリーを見下ろしていた。

 そういえばアジア支部の第六研究所にいた子どもはアルマと神田だけで、彼にとっては年下の女の子との出会いはこれが初めてになるのだ。
 ……さすがに自分よりも小さな子を罵倒したり暴力を振るったりはしないだろうけど。

「神田、リナリーは年下で女の子でわたしたちより弱いんだから意地悪したらだめだよ」
「ハッ。嫌われてるテメエに言われたくねぇよ」
「人が気にしていることを貴様……」

 いつも通りの憎まれ口を叩く神田だが、どこか戸惑っているようにも見える。
 一応ティエドール元帥と一緒にあちこち旅をしたのだから、自分よりも小さな人間の存在くらいは知っているはずだが、関わったことはないのかもしれない。「ほら握手」と手を差し出させようとすると頭を叩かれた。
 憮然とした表情で小さな女の子を見つめて、嘆息する。

「神田だ」
「…………カンダ」

 おお、リナリーが喋った。
 その発音のたどたどしさに目を細めると、神田は「チャイニーズつったな」とわたしを見る。話は聴いていたんだなと思いながら肯いた。

「英語は苦手か」
「……神田いまなんて言った?」
「お前は黙ってろ」

 訊いただけなのに……。
 扱いのひどさにさめざめと泣き真似しながらイエーガー元帥にひっつくと、苦笑しながら頭を撫でてくれた。「彼は中国語を喋れるんだね」元帥の感心したような声に、ようやく神田が中国語でリナリーに話しかけたのだと気がつく。

「中国語を喋れるの?」
「元帥との旅で一周したから大体は。ここの奴らは全員英語だろ」
「うん。だから、全然話もわからなくて怖かった……」


 ぽろっとリナリーの目から涙が零れた。
 ぎょっとして「なに泣かしてんの!?」と神田を叩くと倍の力で叩き返される。遠慮なく付き合える証ではあるが少々容赦なさすぎるのでは。
 ぽろぽろと真珠みたいな涙を零すリナリーを見下ろしながら、神田はどこか不愉快そうに顔を歪めた。

「……ちびでお前より弱いガキが、言葉も通じない英語圏で一人戦争に放り込まれて、呑気にお前と仲良くなんてするわけねぇだろ。バカかよ」
「だってわたし中国語解んないもん! 神田ばっかりリナリーと仲良くしてずるい」
「それ以前の問題だ。前から思ってた、お前はおかしい」
「はあ? なんでわたしの話になるの」

 突然矛先を向けられたことにむっとしながら言い返す。
 イエーガー元帥は泣いているリナリーを慰めながら、剣呑な空気を漂わせるわたしたちにも気を配り、困りきった様子で「やめなさい」と神田の肩に手を置いた。

「気色悪いんだよお前。こんな世界で、こんな場所で、家族のために戦う? 家族じゃねえだろ、赤の他人じゃねえか。誰も彼もがお前みたいにおめでたい理由で戦争に参加してると思ってんのかよ!」

 おめでたい。
 その言葉が喉を抉って、言い返す声が出てこなくなった。
 わたしはただ教団に馴染めないリナリーに年の近い神田を紹介したくて、そしたらたまたま神田が中国語を喋れたからリナリーとお話ができて、ただそれだけだったのに。

 なぜわたしの戦争をおめでたいだなんて断じられなければならないのだろう。

「頭おかしいんじゃねぇの……」

 アルマと神田は不幸な境遇だった。
 だから母を殺したアルマを赦してやれとは、父は決して言わなかった。けれど憎しみの連鎖を断ち切ることが悲劇を繰り返さないための近道だとわたしに説いた。だから、自分の立場を悪くする可能性を解っていて神田たちの逃亡に手を貸した。
 事情を知る自分も責任ある行動を求められる。わたしはわたしなりに細心の注意を払って神田と付き合っていたつもりだった。

 なのに──あんな。

 気づいたら神田に飛びかかって胸倉を掴み床に引き倒していた。
 近くにいた団員が吃驚して「あこや!?」と声を上げる。イエーガー元帥が立ち上がり、周りにいた探索部隊が慌てて止めに入ったが、わたしたちは子どもでもエクソシストだ。制止の腕を振り払い、掴み合ったまま怒鳴り合う。

「おまえにわたしのなにが解るの!!」
「テメエの都合なんか知るかよ! こんな所で! ヘラヘラ笑って!!」
「だって笑わないとやってられないじゃない! 毎日家族が死んでいくこんな所で!!」
「家族!? テメエの家族ごっこに付き合わされるこっちの身にもなれよ!!」

 ひゅっと息が止まった瞬間、横から物凄い力で殴打された。
 談話室の壁に叩きつけられて床に落っこちる。「あこや!!」悲鳴にも似た声が遠くに聞こえて、誰かに抱き起こされたのがわかった。「頭を打ってる」「医療班に連絡を」「カゲマサは!?」慌ただしく足音が行き交い、談話室は騒然となった。



 散々だ。

 リナリーとは相変わらず仲良くやれないし、神田とも掴み合いの大ゲンカ、談話室の壁が破損して室長に怒られ、頭を打ったせいで入院することになって婦長にも怒られ、翌日任務先から帰還してきた父にも叱られた。
 神田の方はわたしに引っかかれて負傷したが、例によってすぐ治ったらしい。
 むかつくなぁ、もうっ!

「……わたしは頭がおかしいんだって」
「神田がそう言ったのか?」
「こんなところでヘラヘラ笑って家族ごっこやってるって。気色悪いって」
「全くおまえたちは……」

「神田なんか嫌いだ」ぐすぐす泣きながら布団にくるまると、父は天井を仰いで溜め息をつく。

 わかっている。
 わかっているのだ。
 教団にいる人たちは大抵何かしらアクマや千年伯爵に恨み辛みをもつ。平穏な世界に生まれて、その幸せを突如奪われ、深い悲しみを克服して戦うことを決めて入団してきた人たちがほとんどだ。あるいはイノセンスとの適合が判明し、家族や故郷と離れてここにやってきた、入団せざるを得なかったエクソシスト。
 神田だってそう。
 エクソシストになるしかなかった。そうでしか生きられない。

 生まれたときから教団にいて、平和な家庭もそれを壊される絶望も知らない、戦争が当たり前の世界に生まれたわたしは、彼らにとっては悲しみを知らない幸福な子どもに見える。
 ただそれを面と向かって言ってくるような人がいなかっただけのこと。

「あこや……事情は人それぞれ千差万別だ。神田にはまだそれが解らないんだよ」
「わかってるよ。教団は、第六研究所は戦争に勝つために悲しい研究をしていた、神田は被害者だ、神田だって痛い思いや悲しい思いをたくさんしていまも傷ついてる、でもだからってわたしの戦争をおめでたいだなんて言われて黙っていられるほど……!」

 血がつながっていなくても、例え赤の他人でも、教団で生まれたわたしにとっては本部の多くの団員が家族で世界だ。
 彼らを喪う日常をおめでたいだなんて、例え神田にだって言わせたくない。

 いままで喪ってきたたくさんの探索部隊、エクソシスト、そして母の面影がちらつく。
 神田にとっては教団まるごと憎い相手でも、わたしにとってはかけがえのない家族だったのだから。

 あとからあとから流れる涙を枕に押しつけながら泣いていると、かぶっていた布団をべりっと引っぺがされた。

「神田。御覧」父の言葉に耳を疑う。
 いま、神田、と言わなかったか。
 嫌な予感がして恐る恐る振り返ると、左肩に父の手を乗せて、神田が仏頂面で立っていた。

「まず解ったと思うが、あこやの怪我はおまえほど簡単には治らない。私の腕が生えてこないようにね。ケンカ結構、ぶつかり合いも稽古も結構だ、だが無用な怪我を避ける力加減も学ぶこと」
「…………」
「おまえたちは生まれも育ちも違う個々の人間だ。それぞれに事情があり、感情があり、価値観も違う。あこやにリナリーの気持ちを解ってやれないように、おまえもあこやの気持ちは解ってやれないし、あこやにおまえの憎しみは理解できない」
「…………」
「おまえにあこやを家族と思えとは言わないよ。ただあこやにとっておまえは家族なのだ。それを根底から否定するとこういうことになる」

 神田は表情を変えずに父の説教を聞いている。
 その大人しい様子が逆に恐ろしい気がして、涙も引っ込んでしまった。

「理解できないものを理解しろとは言わない。ただ、そういうこともあるのだと、その事実を納得することは必要だよ。おまえたちは年も近く、同じエクソシストで、これから先、嫌でも一緒にいることになるのだから」

 最後にそう締めくくった父は神田の肩をぽんと叩き、静かに病室を出ていく。
 このタイミングでわたしたちを二人きりにする父の思いきりのよさを恨みながら、一歩も動かない神田をじっと見つめた。
 昨日は激昂して思わず掴みかかったが、さすがに一晩も経てば怒りは薄れている。ただ神田に言われたひどいことは思い出すとむかむかするし、この交わらない価値観について自分から譲る気もしなかった。

 ……でも、けんかしたままは嫌。

「神田」勇気を出してそう呼んでみると、彼は音もなく枕元まで歩み寄ってきた。
 わたしを昨日殴り飛ばしたその手を伸ばして、額に巻いてある包帯に指先で触れる。

「……治らないのか」
「縫ったもん。そんな簡単に治らないよ」
「お前は死んだら生き返らないんだな」
「うん、大体の人間はそうだけど。……え、神田って生き返るの?」
「実験中に死んだ」

「何回も」こともなげに言い放つ神田の表情にはなにものも浮かんではいない。ただの事実として、研究所の実験の一環で何度も致命傷を負って再生したことを話す。
 その様子があまりにも切なくて、引っ込んだ涙がぽろぽろ零れてきた。

「また泣く。痛いのか」
「い、痛い、なんか色々痛い……」

 呆れたような顔になった神田がわたしの頭を両手で抱えると、「痛いの、痛いの」と小さく呟く。
 最初はなにを言いだしたのかと驚いたが、よく考えるとアジア支部で教えたおまじないだ。

「……、……オヤジの頭にとんでいけ」
「……オヤジってティエドール元帥のことでしょ。だめだよ」
「だめじゃねぇ」
「いやいやいや……」

 ごめんね、はお互い言わなかった。
 どっちが悪いとかじゃない。わたしたちにとってはこの交わらない価値観が絶対だった。

 でもこの日、それを越えてでも一緒にいる方法を父から教わったのだ。