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  「海ですか。」
 荀ケの声が上ずった。
「ああ。行こう。」
 曹操が、突然思い立ったように、海に行こうと言い出したのだ。仕事は大丈夫なのかと心配する荀ケを、曹操はほとんど強制的に連れて行った。決して気軽に行けるような距離ではない。長旅の末、やっと到着し、馬から下りると、膝がわなないているように感じる。それでも、青く広がる海に、疲れをすっかり忘れた。慣れない砂浜を二人でゆっくり歩く。見渡しても、自分たち以外には誰もいない。それほど暑い日ではなかったが、日が高く昇っていて、潮風とちょうど良い。汗の滲んだ曹操の横顔が、光を受け、きらめいていた。水平線を見つめる曹操の切れ長の目は、ますます鋭く細められていたが、戦場にいるときの厳しい目つきとはだいぶ違っていた。
 荀ケは戦を好まなかったが、曹操の戦ぶりを見るのは好きだった。曹操はほかの武将たちと比べて小柄だったが、戦場では人一倍体躯が立派に見えた。颯爽と戦場を駆け、次々に敵をなぎ倒して行く様を初めて見たときは、感服のあまり頬を染めた。激しく憧憬した。自分も、この人と共に剣を振るえたら、などと思った。
 曹操の横顔を見ながら、そんなことを思い出していると、こら、とたしなめられる。
「私ばかり見ていないで、海を見ろよ。」
「これは、失礼いたしました。」
 今度は曹操が荀ケに顔を向けたまま、
「綺麗だな。」
 と言う。自分に言われているようで、なんだか気恥ずかしく、海の遠くの方を見つめて、
「そうですね。」
 と答えた。
 海は果てしなかった。潮騒が、止むことなく鳴り続ける。轟々と鳴るのに、やかましくはない。意識が波音に支配され、そちらへと引きずりこまれていくような感覚だ。心地良い。
「この海は主公と似ています。」
 荀ケが言うと、曹操は目を瞬かせ、すぐに声をあげて笑った。
「私が海に似ているのではなく、海が私に似ていると申すか。なかなか、変なことを言う。」
 変かもしれない。でも、本当にそう思ったのだ。
「なぜ海に来ようと?」
「愚問だな、私の子房よ。……かつて、高祖と張良はよく海辺で肩を並べて語らったとか。」
「それは、知りませんでした。お恥ずかしい。」
「ああ。嘘だからな。」
 たまにこういう真実みのある冗談を言う。どう反応するべきかわからず、いつも苦笑して誤魔化した。
 曹操は波の方へ歩いて行くと、波を手で掻き、荀ケにかけて面白そうに笑った。
「男女は恋仲になると海水をかけ合うらしい。お前もそのくらい知っているだろう。」
「……主公に水をかけるわけには。」
「いや、そこか。私たちは男と女でも恋仲でも無いだろうが。お前は、本当に、よくわからぬ。」
 またおかしそうに笑う。前に、面白みのないところが面白い、と曹操に言われたことがある。荀ケにはよくわからなかったが。
「かけてくれ。」
「は。」
「それとも、主君の命が聞けぬと申すか。」
「いえ……それでは、主公、失礼を。」
 こんなことに、主君としての権力を使わないでいただきたい、と思いながらも、荀ケは曹操に潮水をかける。海水を浴びた曹操は、満足したのか、嬉しそうな声で笑い、波際から離れる。荀ケも、その後ろを追いながら声を漏らして笑った。
「土産を持って帰ろう。」
 曹操は担いできた荷物の中を探り、器を取り出した。黒くて、一段しかない食盒だったが、繊細な細工が施されていて、品が良い。
「これは、私だ。」
 蓋を開けながら言う。中身は空だった。この人は何を言っているのだ、と荀ケは思った。
「私にはなかなか上等な器がある。」
 当たり前のように、自分のことを上等だと言う。曹操のそういうところも好きだった。荀ケは三回も頷いた。
「しかし、まだ空っぽなのだ。」
 曹操は、海砂に埋もれかけていた小さな貝殻を器に入れた。
「空の私には、お前の才が必要だ。与えて欲しい。綺麗な貝殻でなくとも良いから。」
 手が差し伸べられる。触れられずとも、何もかもを鷲掴みにされている気がして、身体が固まる。主君自らが差し伸べてくれたその手を取ることすら、忘れた。
「気障かな。」
 笑いながら、荀ケの肩を叩いた。
 この人の器は、空などではない。荀ケにとっては空の食盒などではなく、目前に広がる、輝かしい大海なのに。自分など、飲み込まれて溺れてしまいたいほどの。その曹操がこうしてへりくだり、自分を必要としてくれているのだ。
「私の、何もかもを、お使いください。」
 足元の貝殻や石をいそいそと集め、食盒に納めた。



「父上、失礼いたします。曹丞相より、お見舞いの品が届いております。」
 息子の嬉しそうな声で、我に返る。
「どうかなさいましたか。」
「昔のことを、思い出していた。」
「そうですか。お顔の色が悪うございます。お見舞いをご覧になるのは、休まれた後でも……。」
「いや、今見よう。」
 そう言って受け取った賜り物の軽さに、荀ケは息を呑む。