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朝。 郭嘉の言った通り、ほとんど眠らずにいた気がするが、不思議と眠り足りない感じはしなかった。郭嘉と過ごす時間は、睡眠をとることよりも疲れがよくとれるのだ。
二人とも寝台からゆっくり起きだし、支度をはじめた。
「文若殿ぉ。」
郭嘉は荀ケに簪と布を差し出す。髪を結ってほしいのか。荀ケは差し出されたものを受け取り、郭嘉の後ろに膝をついた。櫛で髪を梳いてやる。象牙と髪が擦れる涼やかな音が耳に心地良い。郭嘉の焦げ茶色の癖毛は、窓から差す光を所々浴び、瑪瑙色に透き通っていた。髪を頭の上で綺麗にまとめ、布でくるんで簪を通す。郭嘉は、一本のおくれ毛もなくまとめられた髪をくずさぬように触りながら、
「おしゃれじゃないな。」
と言う。そうは言うものの、なかなか気に入ったようで、手鏡に笑いかけていた。
「あなたの言うおしゃれはだらしがないだけですからね。この方が素敵ですよ。」
「そうですね。文若殿みたいで、良い。」
振り向き、顔いっぱいに湛えた笑みを見せる郭嘉に、荀ケもつられて笑った。
「俺にも結わせてください。」
「きちんと結ってくださいね。」
荀ケは郭嘉に背を向ける。しばらく郭嘉が荀ケの髪を手で梳いたり撫でたりして遊ぶので、早くするように言う。
「すみません。綺麗だなと思って。俺と違って、真っ黒で真っ直ぐですよね。文若殿の御髪は。」
御髪、と荀ケは笑いながら復唱した。郭嘉は荀ケの髪を慣れない手つきで三つ編みにしている。
「何やってるんですか。」
「近頃の女性の流行りの髪型です。美丈夫はなんでも似合いますな。今日はこの髪で過ごしましょう。」
「…早く、いつも私がやっているように結ってください。そう時も無いんですから。」
荀ケの就く尚書令という職種は、帝のそばに侍り、帝への上奏などの文書を管理することを主とするものである。荀ケの元々の生真面目な性格もあったが、尚書令である以上、身だしなみにもよく気をつかった。それに、遅刻などできるはずがない。早々に支度を整えたいのなら、郭嘉にやらせるより、自分で結えば早いのだ。しかし、荀ケは郭嘉に結わせたかった。郭嘉に結われた髪で過ごす一日は、魅力的に思えたのだ。
郭嘉も、時が無いと言われたならば、櫛を器用に使ってきちんと髪を結った。手鏡を見て、荀ケはやはり笑みをこぼした。
荀ケが礼を言いながら振り向くと、郭嘉は胸のあたりを押さえていた。痛むのかと問いかけると、返事の代わりに、口を押さえて咳をする。水音混じりの、嫌な咳だった。咳とともに、何か喀いたらしく、郭嘉は手のひらを恐る恐る見た。荀ケは急いで立ち上がり、手首を引き寄せる。見ると、血のたくさん混じった赤い痰が白い手のひらを汚していた。郭嘉の顔を見る。気まずそうにそっぽを向かれた。荀ケは、みるみる血の気が引いていくのがわかった。
「やはり病が…。なぜ隠そうと。」
「大したことではないんです。文若殿は、大袈裟にとらえそうですから、言わない方が良いかと。」
「血を喀いておいて大したことがないわけがないでしょう。」
「のどに傷があるだけです。」
「苦しくないのですか?しばらく、休まなければいけないのでは?」
「大丈夫ですから。」
「安静にしていれば治るのでしょう?その体で馬など走らせては…。」
「だから、大丈夫だって…。」
「華佗殿から出征を控えるよう言われたのでしょう。私も、その方が良いかと。」
「大丈夫だと言ってるでしょう!」
郭嘉は大きい声を出した。荀ケは、ひるまなかった。のどに傷のある者が出せる声ではないな、と思った。室がしんとした。二人の間に、冷たい空気が居座った。沈黙はほんの数秒なのに、あまりに長い時のように感じられた。
「すみません。」
先に口を開いたのは郭嘉だった。大声をあげたことについては謝らなければいけないと思ったらしい。
「あなたは聡明だから、どうせ、隠したっていずればれるとは思ってました。それにしても、華佗殿も意外とおしゃべりですなあ。」
郭嘉は後ろ頭を掻いた。荀ケがせっかく綺麗に結った髪が乱れた。
「無責任ですよね。あなたを残して、もうすぐ死ぬかもしれないなんて。」
郭嘉は冗談を言うみたいに笑った。
なんてことを言うのだ、と荀ケは思った。
「奉孝。治ると華佗殿は言っていましたよ。だけど、無理をしては、治るものも治らないと…。」
荀ケの言葉に、郭嘉は相槌を一つもしなかった。何も聞こえていないかのように、ずっとうつむいていた。そして、室の出口に歩いていき、扉を開く。そこでやっと荀ケの方を見た。
「さて、そろそろ行かないと、遅刻しますよ。」
荀ケは室を出るしかなかった。郭嘉は病のことに関しては聞く耳を持つつもりはないのだ。
酒癖のことなど聞かなくても良いから、病のことは、言うことを聞いてほしかった。