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──とても綺麗な女の人だと思った。
白く透き通るような肌に、艶やかな黒髪。小柄で華奢な体つきなのに、まっすぐに立つ姿は揺るぎない強さを帯びている。
蝶が舞うような模様の羽織が、電球の明かりの下でひらりと揺れた。
「……冨岡さん」
その彼女は、玄関先で立ち尽くす私と彼を見下ろすように立っていた。告げられる言葉は丁寧なのに、刺々しく感じるのはなぜだろう。
「随分と遅い時間に、よく尋ねて来られましたね」
「…胡蝶」
冨岡さんと呼ばれた彼は短く名を返すだけで、余計な説明は一切しなかった。
対する彼女――胡蝶と呼ばれた女性は、にっこりと甘い笑みを浮かべている。
「野良猫拾ってくるあの子たちの方が、まだマシです」
その言葉は礼儀正しい形を取っているはずなのに、なぜだろう。黒い含みを感じるのは。
「…冨岡さん。例えここがそういう場所であろうが、誰彼構わず面倒を見れるわけではありませんよ」
突き放すような言葉。けれどそれが私に向けられたものではなく、隣に立つ冨岡さんという人への皮肉なのだとなんとなく分かった。
街灯もまばらな暗い夜道を歩き、手を引かれるがまま冨岡さんに連れて来られたこの大きなお屋敷。立派な門を潜った先に、待ち構えるように彼女は立っていたのだが。
「それに、そういうことをするなら責任はちゃんと自分でお持ちになってください。寄る
畳みかけるような厳しい言葉に、私はただ怯えたように彼女を見つめることしかできなかった。
冨岡さんはしばらくの間、何か言葉を探すように沈黙していたが、やがてぽつりと短く口を開く。
「……女のことは、女に任せた方がいいと思った」
その声は変わらず平坦で、説明にもならない説明。
胡蝶さんは深く、重いため息をつくと、扇のようにしなやかな指先で自分の袖を軽く払う。
「本当に……。冨岡さんは言葉が足りませんね」
淡い笑みを浮かべながらも、声音には苛立ちが混じる。私は縮こまりながら、そんな二人のやり取りを聞いていた。
…ここは一体、どこだろう。学校?いや、冨岡さんも胡蝶さんも同じ学ランのような服を着ているが、学生には見えない。
制服というより、どこか戦う人の服に見える。肩のあたりが張っていて、生地は分厚く、簡単には破けそうにない。
「どこで、拾ってこられたんですか?」
「……見回りの途中だ。道端で、泣いていた」
ちらり、と冨岡さんを見上げてみた。腰に差された刀はまるで、物語の中から抜け出した武士みたいだ。
「帰る家は?」
ふと冨岡さんが振り返り、胡蝶さんに聞かせるように改めてこちらに問いかけた。
私は視線を逸らしながら、小さく首を振る。
「行く当ては?」
「……ありません」
また短い言葉。今度も首を横に振るしかなかった。そんなやり取りに胡蝶さんはわずかに眉を寄せて、私をじっと見つめる。
そして、「お嬢さんは、どちらから来られたのですか?」と、声を落として丁寧に問うた。彼女の言葉は丁寧だが、問いは直接的で逃げ場がない。
「……死んだ、はずなんです」
「え?」
「大きな、トラックに轢かれて……」
「……とらっく?」
絞り出すようにしてそう答えるのが、私には精一杯だった。
言葉にした瞬間、頭のどこかで封じ込めていた光景が、ふいにばらばらと崩れ落ちてくる。
「事故に遭って……、死んだからここに来たんです」
そう、私は死んだ。…死んだはずなのだ。
あの衝撃をまともに受けて、無事でいられるはずがない。私の命は、あそこで確かに終わったはずだった。
けれど、それならどうして、今こうして冷たい夜風を感じているのだろう。どうしてお腹が空き、誰かの手の温もりに救われ、こんなにも生々しい現実の中に立っているのか。
「死んだ」という確信と、「生きている」という感覚。その矛盾が、私の心を激しくかき乱す。
「とらっく…?それは、自動車かなにかの類いですか?」
胡蝶さんは困惑したように首をかしげた。その反応を見て、私はますます自分の立っている場所が分からなくなる。
「ここは……死んだ後の世界じゃないんですか?」
自分でも信じられないような問い。けれど、今の私にはそう聞く以外に道はなかった。
「内臓、飛び出て……助からなかったんです。私は轢かれて、死んだはずで……それで……」
胡蝶さんは驚いたように目を見開き、それから隣の冨岡さんと顔を見合わせた。冨岡さんは何も言わず、ただ私をじっと見つめている。
その沈黙が、何よりも確かな答えを私に突きつけていた。
私は……どこか、別の世界へ来てしまったのかもしれない。自分の生きていた場所から、途方もなく遠いところへ。
「私にはもう、居場所がないんです……」
…ああ、失敗したかもしれない。胡蝶さんも、冨岡さんも、ただ黙ってこちらを見ている。
どうして初対面の人たちにこんな、行き場のない絶望をぶつけてしまったんだろう。凄惨な話をして、その上「行く場所がない」なんて泣き言まで。
「あの、ごめんなさ───」
「もう大丈夫だ。言わなくていい」
咄嗟に取り繕った隣で、冨岡さんの落ち着いた声がその思考を遮った。
見上げると、彼は相変わらず無表情のまま、しかしどこか真剣にこちらを見ていた。その沈黙が、逆に言葉以上のものを伝えてくる。
ふと正面に立つ胡蝶さんと目が合った。彼女は微笑んでいるように見えたけれど、その瞳の奥に宿る色は痛ましさ。どこか悲しげに、じっと私を見つめている。
「とても寂しい思いを、されたんですね……」
ぽつり、とかけられた言葉は驚くほど柔らかくて。胸の奥の一番触れられたくない場所にすっと指先を伸ばすように届く。
…寂しい。これがそうなのだろうか。それとも、私が日々感じてきたことは、別の名前がついているのだろうか。
居場所のなさも、誰かを探していた気持ちも――全部その一言でまとめられてしまうようで。
「……寂しいって、なんでしょう……」
なぜか、そう問いかけていた。顔を上げる勇気は出ず、俯いたまま服の裾を両手できゅっと握る。
けれど誰もその質問には答えてくれず、その場にしばらく静寂が落ちた。夜の風が、玄関の戸を揺らす音だけが続く。
やがて胡蝶さんは、吐息を混ぜるように小さく口を開いた。
「……わかりました。しばらく蝶屋敷で面倒をみましょう」
それは責任感からくる言葉かもしれない。
でも私には、その声音がどこまでも優しくて、救いのように聞こえた。
*
「任せる」とだけ言い残して、冨岡さんは夜の闇に溶けるように去っていった。
そのまま私は胡蝶さんに促され、長い廊下を歩き、ひとつの小さな部屋まで案内された。周囲の部屋はすでに寝静まっているのか、廊下に足音を響かせないよう、私も息を殺すようにして歩いた。
「この部屋が空いているので、好きに使ってくださいね」
胡蝶さんはそう言って、部屋の様子を優しく見渡した。
「私や他の子たちは別の棟の部屋にいますが、今夜はお嬢さんはここでゆっくり休んでください。…色々あって、お疲れでしょうから」
彼女の言葉を聞いて、私も部屋の中を見渡す。立派な門構えのお屋敷だったので、勝手にもっと華やかな場所を想像していたが、意外にもそこはこじんまりとしていた。
和室ではなく、高い脚のついたベッドと机、古びた棚が並んだ洋風の部屋。どこか病室のような、静かでひんやりとした空気が漂っている。
一歩足を踏み入れ、反射的に壁のあたりを探る。電気のスイッチを――と、いつもの癖で指が動きかけて、ふと止まった。
「明かりはこちらにありますよ」
見かねた胡蝶さんが指し示したのは、枕元に置かれた古い行灯。
けれど、それを指さされても使い方がさっぱり分からない。スイッチも紐も見当たらず、私はただ、その木枠の箱を前に立ち尽くしてしまう。
「失礼いたしますね」
みかねた胡蝶さんが、慣れた手つきで火を灯してくれた。
ゆらゆらと揺れる橙色の灯りは、部屋の隅々をぼんやりと照らし出し、それと同時にどこか懐かしい油の匂いが鼻をかすめた。
さっきの玄関先には電球があったのに、この部屋にはないらしい。指先一つで、昼間のような明るさが手に入った当たり前がここにはないようだ。
「…どうやらお嬢さんには、色々と教えなければなりませんね」
そう言って笑った彼女の顔は、さきほど玄関で見た時の鋭さとはまるで違っていて。柔らかく、温かくて――微笑んだときにできる小さなえくぼさえも、人を安心させる。
彼女は迷いのない足取りで押し入れに向かうと、そこからふかふかの布団を取り出した。重みのある布団を手際よく寝台の上に広げ、私のために慣れた仕草で形を整えてくれる。
「本当は今すぐにでも
「は、はい……」
緊張と申し訳なさで縮こまる。
そんな私を安心させるように、胡蝶さんはふっと優しく微笑むと、小脇に抱えていた籠の中から、丁寧に畳まれた真っさらな布を取り出してくれた。
「それから、これを」
手渡されたのは、深い藍色の浴衣。おそらく、寝巻きなのだろう。手に取ると、使い込まれた木綿の柔らかな感触が伝わってくる。
小柄な彼女の持ち物にしては、少しだけサイズが大きそうに見えた。
「明日には、あなたに合うものをご用意します。それまでの辛抱ですが…、どうか許してくださいね」
「……い、いえ、何から何まですみません」
「細かいことは明日、落ち着いてからお話しましょう」
布団の上に浴衣の帯をそっと置き、胡蝶さんは行灯の火を小さく絞って、部屋を出る準備を整えた。
淡い光に照らされた横顔は、やはりとても優しい人の顔に見えて。その静かな仕草を見ていると、熱い何かに胸がきゅっと締め付けられる。
「……あの、こ、胡蝶さん」
思わず名を読んでしまった。呼びかけた声は小さく、頼りない。彼女はすぐに振り返り、少し驚いたように丸い目を見開く。
「はい。どうなさいましたか?」
「…あの、その。…ありがとうございます…って伝えたくて……」
その言葉を口にするのは、この場所に辿り着いてから初めてのことだった。自分を助けてくれたはずの冨岡さんにさえ、余裕がなくて言いそびれてしまった。
けれど今、目の前の彼女にだけは、伝えておかなければいけないと思ったのだ。
胡蝶さんはしばらくの間、黙って私を見つめていたが、やがてふわりと微笑む。それはさっきまでの棘をすべて溶かしきったような、ただ穏やかな笑顔だった。
「…ここは『鬼殺隊』といって、物騒なことも多い場所ですが、人は皆優しい方ばかりなんですよ。冨岡さんだって……あの方なりに、あなたを心配しているんです」
カーテンの隙間から月の光が差し込み、木の床に反射して淡く揺れている。私はその光をぼんやりと見つめながら思う。
ここには、私の知らない優しさの形があるのかもしれない。この世界がどんな場所なのか、まだ何も知らない。けれど、さっきまで凍えきっていた心が、足元から少しずつ解けはじめているのを感じていた。
「今日はゆっくりお休みください」
胡蝶さんは私の沈黙を咎めることなく、そう言い残すと音もなく部屋を出ていった。
今日は、あまりに濃い一日だった。張り詰めていた心がようやく緩み、私はベッドに身を投げ出す。ふかふかの掛け布団に体を沈めると、まぶたは重く閉じていった。
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