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「───入りますよ」
次の日の早朝。控えめなノック音に続いて、戸が静かに滑り開いた。差し込む朝の光に目を細めると、そこには昨日と同じ、凛とした微笑みを湛えた胡蝶さんの姿があった。
「あら、もう起きていたのですね。おはようございます」
「お、おはようございます胡蝶さん」
慌てて寝台の上で姿勢を正すと、彼女は手にした盆を机に置きながら、慈しむような視線をこちらに向けた。
「よく眠れましたか?」
「は、はい!おかげさまで」
元気よく答えた自分の声が、少し上擦る。嘘を吐いたわけではないけれど、本当のことを言えば、夜中に何度も目が覚めてしまった。
けれど、あのままあそこで夜を越していたら、こうして温かい布団で眠ることさえ叶わなかったのだ。今こうさせてもらえることが、どんなに有り難いか。
「眠れたのなら良かったです。朝の支度の用意ができています。まずはお着替えをしましょうか」
そう言って彼女が差し出したのは、昨日借りた浴衣とは違う、一揃いの着物だった。
「こちらを。お嬢さんに差し上げます」
「わたしに?」
驚いて受け取ると、その生地は驚くほど柔らかく、触れただけでそれがとても上等なものだと分かる。
「きれい……」
柔らかな薄紅色の生地に、大輪の牡丹の花が零れ落ちそうなほどに描かれている。添えられた帯は鮮やかな橙色で、見ているだけで心にぽっと火が灯るような、そんな温かな色合いだった。
「あの、こんなに綺麗なもの、私がいただいてもいいんですか……?」
「ええ。昨日のようなお姿では外を歩くのも一苦労でしょう?それに、お嬢さんにはきっと華やかな色が似合うと思いましたから」
自分の着ていた服がこの世界ではどれほど異質だったかを思い出し、耳の付け根が熱くなる。
戸惑いながらも寝台から降りると
紐はどこで結ぶのか、この長い帯はどうやって巻けばいいのか。着物の構造さえよく分からないまま、私は情けなく立ち尽くした。
「あの、すみません。やり方がわからなくて……」
「ふふ、構いませんよ。こちらへ」
私の不器用な手つきを見かねて、胡蝶さんが嫌な顔ひとつせず背後に回った。彼女の指先が着物に触れ、衣擦れの音が耳元でさらさらと優しく響く。
「最近はこういった衣類に慣れていないお嬢さんも多いですから。…少し失礼しますね。ぐっと締めますよ」
細い腕のどこにそんな力が、と思うほど、帯が腰のあたりを締め上げていく。けれど不思議と苦しさはなく、むしろ自分の背筋が自然と正されていった。
最後におはしょりを綺麗に直すと、胡蝶さんは私の前に回り込み、満足げに微笑んだ。
「うん。よく似合っていますよ」
「すみません、ありがとうございました。こんな素敵なものを私に…」
「いいえ、大きさもぴったりですね。お下がりのもので申し訳ないですが…」
「そんな!むしろ私がいただいてしまってもいいのかどうか……」
着物はとても高価なものだと、どこかで聞いたことがある。そんなものをお下がりだとしても私に与えてくれるなんて、胡蝶さんはやはりとても優しいのだと思う。
「もちろんですよ。着付けの方法も、焦らずにひとつずつ覚えていきましょうね」
そう言って胡蝶さんは微笑むと、私の後ろに周り、乱れた髪をまとめ上げると仕上げに簪をすっと差し込んでくれた。
「昨夜の服は後ほど、こちらで預かって洗っておきますね」
「何から何まで…。本当にすみません…」
深々と頭を下げると、挿してもらったばかりの簪がちりんと揺れた。
昨日から迷惑をかけてばかりだ。ただの大学生だった私は、お金も、帰る場所さえ失ってしまって。着るものひとつ自分ではどうにもできず、されるがままに優しさを受け取っている今の状態は、なんだかとても落ち着かない。
私、ここにいても大丈夫なのかな。こんなに良くしてもらって、邪魔になっていないだろうか。
お下がりだと言っていたけれど、この着物がどれほど大切にされてきたかは触れるだけで分かる。
せめて何か役に立てればいいのだけれど。
「お嬢さんは、まずは与えられることに慣れた方がいいですね」
「え……?」
思いがけない言葉に、私は思わず顔を上げた。
「与えられること…?」
「ええ。ここでは助け合いが当たり前なんです。誰かの手を借りることを"迷惑"だと思わなくていい。人に何かをしてもらうことは、弱さじゃなくて、信頼の証ですよ。…そう思っていてください」
胡蝶さんは人差し指をすっと立てて、諭すように茶目っ気たっぷりに笑ってみせた。
「信頼の、証……」
与えられるばかりの自分を責めるのではなく、まずはその手を受け入れること。それが、今の私にできる精一杯の誠実さなのかもしれない。
何も返せない今の私を、この人は「それでいい」と肯定してくれているのだ。
「……はい。ありがとうございます」
「はい。それでいいです」
私の返事に満足したように、胡蝶さんはもう一度深く頷いた。その笑顔を見ていると、漠然とした不安が少しずつ解けていく気がした。
「さて。それでは、これから屋敷の中を案内しますね。こちらへ」
彼女の羽織がひらりと揺れる。私は新しく纏った薄紅色の裾に気をつけながら、その背中を追って部屋を出た。
*
「こちらです。足元に気をつけてくださいね」
胡蝶さんの後をついて廊下に出ると、そこには昨夜の暗がりでは分からなかった、眩しいほどに手入れの行き届いた光景が広がっていた。磨き上げられた木の床が光を反射し、どこからか清々しい草の香りが鼻をくすぐる。
「ここは『蝶屋敷』と呼ばれているんです。怪我をした隊士たちの治療や、療養を主に行っている場所ですよ。言わば病院のようなものだと思ってください」
「病院……。あ、なるほど。だからあんなにたくさんの布団があったんですね」
さっき通ったときに見えた部屋の様子を思い出しながら頷くと、胡蝶さんは廊下の角を曲がり、一際大きな部屋の戸を開けて見せてくれた。
「ええ、ここは病室です。今は皆、任務や訓練に出ているので静かですが、時期によってはとても賑やかになります。それからこの廊下を進んだ先が、機能回復訓練を行う道場になります」
「道場……」
胡蝶さんの後を追いながら、私はその言葉を頭の中で繰り返した。
機能回復訓練。聞き慣れない言葉だけれど、たぶん私のいた世界で言うところの"リハビリ"みたいなものだろう。
「任務」や「隊士」という言葉も気になるけれど、冨岡さんや彼女が腰に差している刀は関係あるのだろうか。
――もしかして、どこかで戦争でもしている?どれほど凄惨な現場があるのかを想像して、私は思わず身震いした。平和な大学生活を送っていた私には、到底想像もつかないような過酷な世界が、この屋敷のすぐ外側に広がっているのかもしれない。
「案内を続ける前に、そういえば自己紹介がまだでしたね」
ふいに胡蝶さんが足を止め、私の方を向き直った。その丁寧な所作に、私も慌てて足を止める。
「私は胡蝶しのぶと申します。お嬢さんのお名前は?」
「あっ、私は高月リサと申します」
「リサさん。素敵なお名前ですね。ところで、お年はいくつですか?」
胡蝶さんの紫色の瞳が、私の顔をじっと見つめる。その整った顔立ちや、どこか悟ったような落ち着いた振る舞いに圧倒されながら、私は少し緊張して答えた。
「じゅ、十九歳……です」
「あら、そうでしたか。私よりお姉さんだったのですね」
「えっ!?」
衝撃に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
私よりお姉さん?私の方が年上?目の前の彼女はのこの完成された佇まいは、どう見ても私よりずっと大人びて見えたのに。
「わ、私てっきり年上の方だと思っていました。……すみません、失礼なことを」
「ふふ、いいんですよ。私は十八歳です」
十八歳。私よりひとつ下。驚きのあまり口を半開きにしている私を見て、胡蝶さんは可笑しそうに口元を隠して笑った。
十九の私が、十八の彼女に服を着せてもらい、屋敷の案内までしてもらっている。おそらくだけれど、胡蝶さんはこの屋敷を切り盛りしている「主人」なのだと思っていた。これほど大きな立派な屋敷で、何人もの人の面倒を見ている彼女。てっきり、人生経験を積んだ大人の女性なのだとばかり。
現代でいえば、まだ高校三年生くらいの年齢だ。自分のいた世界なら、友達とカフェに行ったり、クラブ活動に明け暮れたりしていてもおかしくない歳なのに。彼女の背負っているものの重さと、その若さのギャップに、大きな衝撃を受けた。
「すみません、年上がご迷惑を……」
「そんなことはありませんよ。年齢なんてただの数字です。さて、案内を続けましょうか」
胡蝶さんは事もなげにそう言って、また軽やかな足取りで歩き出した。
年齢なんて、ただの数字。それは彼女のためにある言葉なのでは。
驚きでふわふわした足取りのまま、私たちは裏手にある広い庭へと出た。そこには、見たこともないような種類の草花が、整然と植えられた畑が広がっている。
「ここでは治療に使う薬草を育てているんです」
「胡蝶さんは薬も作れるんですか?」
「はい。私は薬学に精通していまして。難しいものは栽培できませんが、簡単なものでしたらここで育てて自分たちで調合しています」
胡蝶さんが薬草の葉にそっと指を触れる。その手つきは、まるで宝物に触れるように繊細で、優しい。
さらに奥へ進むと、清潔に保たれた洗濯場や大きな窯から湯気が立ち上る台所が順番に現れた。
その台所の一角で、紺色の髪を二つに結んだ女の子が、テキパキと何かを煮炊きしているのが見えた。立ち上る湯気と香ばしい匂いの中で、その迷いのない手つきは職人のような頼もしさがある。
「アオイ」
胡蝶さんが声をかけると、彼女は手を止めてこちらを振り返った。
「……あ、しのぶ様。おはようございます」
「朝からありがとう。様子はどうですか?」
「はい。三番の病室の方ですが骨もくっついて、だいぶ良くなってきています。そろそろ機能回復訓練に移っても良い頃だと思います。……あ、昨夜入って来た方も、無事意識を取り戻しました」
「あら、そう。良かったわ」
報告を終えた彼女の視線が、ふと胡蝶さんの後ろに控える私に向けられた。
「……その方は?」
アオイと呼ばれた彼女が、不思議そうに私を見つめる。どう答えればいいのかわからず、私はぎこちなく会釈をするのが精一杯だった。
「こちらはリサさん。昨夜から屋敷でお預かりしているの。少しのあいだ、ここで静養してもらうことになりました」
「そうだったんですね。どうぞ、よろしくお願いします」
アオイさんは丁寧に頭を下げた。その自然で綺麗な所作に、私も思わず慌てて深く頭を下げてしまう。
「は、はい。よろしくお願いします」
「リサさんはまだここに慣れていないので、アオイ、しばらく一緒に動いてあげてもらえますか?きっと心強いと思うわ」
「はい、もちろんです」
二人の会話を隣で聞きながら、私は少しだけ胸を撫で下ろした。アオイさんのハキハキとした態度は、不安でいっぱいだった私の心を少しだけ軽くしてくれる。
「それから、リサさん」
胡蝶さんが、今度は私の方へ向き直って穏やかに言った。
「しばらくここで面倒をみる代わりに、この屋敷のことを少しだけお手伝いしていただけると助かるのですが、いかがでしょうか?」
「え…?」
お手伝い。いいかもしれない。その提案は、私にとって願ったり叶ったりだった。
昨夜からずっと、見ず知らずの私にこれほど良くしてくれているのに、何も返せないことが心苦しくて仕方がなかったから。されるがままの居候でいるより、何かひとつでもこの場所のために動けるほうが、ずっと心が楽になる。
「も、もちろんです。私にできることなら何でもやらせてください」
二つ返事で了承すると、胡蝶さんは満足そうに微笑んだ。
「助かります。アオイが色々と教えることになると思いますから、まずは無理のない範囲から始めていきましょうね」
「よろしくお願いします」ともう一度アオイさんに言うと、彼女は少しだけ表情を和らげて頷いてくれた。
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