3
「───入りますよ」
次の日の早朝。
控えめなノック音に続いて、静かに扉が開く音が響いた。
「あら、もう起きていたのですね。おはようございます」
「……お、おはようございます」
胡蝶さんは寝台に上体を起こし待っていた私に、少し意外そうに目を丸くした。けれど、すぐに穏やかな笑みを浮かべてくれる。
窓の外からは、どこか遠くで鳥がさえずる声が聞こえてくる。ひんやりとした朝の空気は、昨夜の重苦しい闇をすっかり洗い流してしまったかのように穏やかだ。
「よく眠れましたか?」
「は、はい……おかげさまで」
彼女は部屋の真ん中まで歩み寄ると、覗き込むようにして私の顔を見た。
本当のことを言えば、何度か目が覚めてしまった。けれど、あのままあそこで夜を越していたら、こうして温かい布団で眠ることさえ叶わなかったのだ。今こうしてここにいられることが、どんなに有難いか。
「その……本当にありがとうございました……」
「いいえ、眠れたのなら良かったです。朝の支度の用意ができています。まずはお着替えをしましょうか」
胡蝶さんはふわりと微笑むと、片手に持っていた包みを私に差し出す。
「こちらを。お嬢さんに差し上げます」
「わたしに……?」
彼女がその包みの紐を解くと、薄紅色の布が現れた。着物、だろうか。透き通るような生地に、牡丹花が散るように描かれている。
「きれい……」
思わず呟くと、胡蝶さんが嬉しそうに手渡してくれた。絹の滑らかな感触が指先を滑り、触れただけでそれがとても上等なものだと分かる。
こんな素敵なものを、私がいただいてしまってもいいのかな。でも、昨夜まで自分が着ていた服は、ここではあまりにも浮いてしまう。
「あ、ありがとうございます……」
有り難く受け取って立ち上がる。
そして胡蝶さんに促されるまま、それにおずおずと袖を通してみた。
「えっ、と……」
なんとか
帯はどうやって巻くのだろう。この紐はどこで結ぶのが正解?
現代の服とは構造がまるで違う布の塊を前に、私は途方に暮れて立ち尽くしてしまった。
「……すみません、着方がわからなくて」
情けなくて顔が熱くなる。昨夜の騒動と言い、今のこの体たらくと言い、私はこの世界の人たちの手を煩わせてばかりだ。
けれど、胡蝶さんはそんな私を責めるようなことは一切しなかった。
「ふふ、大丈夫ですよ。こちらへ来てください」
彼女は歌うような柔らかな声で呼びかけると、私の背後に静かに回った。しなやかな指先が私の肩や腰に触れ、もたついた布を魔法のように整えていく。
「最近は、こういった衣類に慣れていないお嬢さんも多いですから。…苦しくはないですか?」
そう言いながら、彼女は手際よく腰紐を結び、帯を巻いてくれた。包み込むような優しさがその手から伝わってくる。
「……あ、はい。大丈夫です。ありがとうございます……」
鏡などないけれど、整えられていくたびに、自分の背筋が自然と伸びていくのが分かった。
最後におはしょりを綺麗に直すと、胡蝶さんは私の前に回り込み、満足げに微笑んだ。
「よく似合っていますよ。昨夜の格好よりも、ずっと素敵です」
鏡のない部屋で、胡蝶さんの瞳に映る自分の姿だけが唯一の正解のように思えた。
自分でも信じられないけれど、この薄紅色の布に包まれていると、ようやくこの世界の住人として、ほんの少しだけ認められたような気がした。
「…あ、ありがとうございます…」
「大きさもぴったりですね」
「あの、いいのでしょうか…?こんな素敵なものを私に…」
「もちろん。お下がりのものしかなくて申し訳ないですが…」
「そ、そんな。それは全然……」
着物はとても高価なものだと、どこかで聞いたことがある。そんなものをお下がりだとしても私に与えてくれるなんて、胡蝶さんはとても優しい人なのだと思った。
「良かったです。着付けの方法も、焦らずにひとつずつ覚えていきましょうね」
そう言って胡蝶さんは微笑むと、私の後ろに周り、乱れた髪をまとめ上げると仕上げに簪をすっと差し込んでくれた。
なんだか、胡蝶さんの手が作り出すものはどこか儚く、そして強さを宿しているように思えた。
「昨夜の服は後ほど、こちらで預かって洗っておきますね。……さて、行きましょうか。まずは屋敷を案内します」
彼女に促され、私は初めて部屋の外へと一歩を踏み出した。
*
朝に見る屋敷の景色は、昨夜の闇の中で見たものとはまるで違っていた。
空から差し込む光は柔らかく庭を照らし出し、池に浮かぶ睡蓮の葉の間を、数匹の鯉が悠々と泳いでいる。
渡り廊下を進むと、その先からは人の声が幾重にもこだまして聞こえてきた。掛け声と足音が重なるそこは、少し広めの道場だろうか。
外から見た時にも大きなお屋敷だと思ったけれど、こうして歩いてみると思った以上に奥行きがあり、どこまでも広がっているように見える。
「こちらは食堂です。皆で食事をとる場所なので、朝夕はにぎやかになりますよ」
胡蝶さんが扉を指し示す。広間には木の机と椅子が並び、すでに湯気を立てる鍋や食器が整然と置かれていた。
「それから、こちらは
そう言って歩きながら、胡蝶さんは次々と部屋を指差して案内してくれる。
廊下を抜けると、また別の中庭が見える。花壇には草が綺麗に植えられ、白いワンピースの少女たちが水をやっていた。
「この屋敷は療養所でもあるんです。簡単な薬草ならここで栽培もしています」
「薬草……?」
「はい。私は薬学に少し、精通してまして」
「療養所って、ここでなにか治療をされているんですか…?もしかして、すべて胡蝶さんが…?」
「ええ。私がこの屋敷を預かっていますから。みんなに協力してもらって、なんとか成り立っているんですけどね」
胡蝶さんは振り返らずにそう答えた。
…ということは、彼女がこの屋敷の主なんだ。すごく若そうに見えるのに、すごいな。
それに、ここが療養所というのも驚きだ。ますます、ここがどういう場所なのか疑問が深まるばかりだ。
「すみません、きっとお忙しいのに私のために手を煩わせてしまって……」
「そんなこと、あなたが気にしなくていいのですよ」
もし、ここが病院のような場所であるのなら、すごく忙しいに違いない。そう思ってそう口にすると、振り返った胡蝶さんがふわりと笑みを浮かべる。
「でも……」
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。私は胡蝶しのぶと申します。お嬢さんのお名前は?」
「あ、えっと、私は……高月リサ、です」
少し緊張しながら私は自分の名を口にした。
胡蝶さんは「まあ」と小さく笑みを浮かべ、次の質問を重ねる。
「リサさん。素敵なお名前ですね。年はいくつですか?」
「…じゅ、十九歳です」
「あら、そうでしたか。私よりお姉さんだったのですね」
「え……?」
胡蝶さんが驚いたように言うから、私も驚いて一瞬足を止めてしまった。彼女は微笑みを崩さぬまま、静かに告げる。
「私は十八歳です」
その言葉に動揺が走った。
――十八歳?私よりも年下?そんなはずはない。この落ち着いた立ち居振る舞いも、人を包み込むような眼差しも、どう考えても自分より大人にしか見えない。
若そうに見えたけど、まさか自分より年下だったとは。ましてや、この大きな屋敷を取り仕切る主だなんて。
驚きと同時に、尊敬に似た感情が胸に広がっていく。
「次は屋敷の反対側を案内しますね」
胡蝶さんの背中を追いながら、その小さな体に秘められた強さを想像せずにはいられなかった。
「こちらは患者の部屋です。負傷した隊士がまずここで療養します」
胡蝶さんは足を止め、静かに扉の向こうを指し示した。私も促されるままに視線を向ける。
寝台に白い布団がいくつも並んだ部屋。そこで髪を二つくくりにした若い少女が、患者の包帯を取り換えたり、湯を用意したりしていた。
漂う薬草の匂いが鼻の奥をつんと刺す。
「……負傷した隊士」
「はい」
隊士、ってなんだろう。まさか、戦争でもしているのだろうか。
そう考えていると胡蝶さんは作業中の少女に近づき、彼女の肩に軽く手を置いた。
「アオイ」
「……あ、しのぶ様。おはようございます」
「朝からありがとう。様子はどうですか?」
「はい。あちらの方は骨もくっついて、だいぶ良くなってきています。そろそろ機能回復訓練に移っても良い頃だと思います。…あ、昨夜入って来た方も、意識を取り戻しました」
「あら、そう。良かったわ」
「……その方は?」
アオイと呼ばれた彼女が、私の方に目を向ける。どう答えればいいのかわからず、私はぎこちなく会釈をした。
「こちらはリサさん。昨夜から屋敷でお預かりしているの。少しのあいだ、ここで静養してもらうことになりました」
「そうだったんですね。どうぞ、よろしくお願いします」
アオイさんは丁寧に頭を下げ、私を見つめた。その自然な所作に、私の方が思わず慌てて深く頭を下げてしまう。
「は、はい。よろしくお願いします…」
「リサさんはまだここに慣れていないので、アオイがしばらく一緒に動いてあげてもらえますか?きっと心強いと思うわ」
「はい、もちろんです」
アオイさんの返事はハキハキとしていて、その声だけで周囲の空気が少し軽くなる。左右二つに結われた髪に、青い蝶の飾りが映える可愛らしい女の子だ。
胡蝶さんは満足そうに微笑むと、私の方へ視線を戻した。
「頼りになる子なんですよ。困ったことがあったら、遠慮せずに声をかけてくださいね。…さて、次は昨日言っていた湯浴みですね。案内するので、こちらへ」
「あっ、はい……」
アオイさんに会釈をして別れ、胡蝶さんのあとをついて渡り廊下を進む。さっき、一度案内してもらった湯殿へと向かった。
胡蝶さんが引き戸を静かに開けると、ふわりと白い湯気が流れ出てくる。
まず目に飛び込んできたのは、広々とした脱衣所。壁際には竹籠が並び、畳まれた手拭いが重ねて置かれている。
「今はまだ使う人が少ない時間帯なので、ゆっくり温まってくださいね。終わった頃にまた来ます。そのときに着付けのお手伝いもしますので、安心してください」
「は、はい。何から何までお手数をおかけしてしまって、本当にすみません…」
至れり尽くせりで、彼女の迷惑になっていないか心配だ。どうして見ず知らずの私に、こんなによくしてくれるのだろう。どんなに感謝しても足りない気がして、気づけば視線が下がってしまう。
そんな私の様子を、胡蝶さんはいつのまにか横目で見ていたらしい。脱衣所を出て、外気が入る廊下に出たところで彼女は振り返った。
「リサさん」
「……は、はい?」
「あなたはもっと、人に与えられることに慣れた方がいいです」
「与えられること……?」
突然言われた言葉に意味が分からず、ぽつりと聞き返すと胡蝶さんは小さく息をついて笑った。
「ええ。ここでは助け合いが当たり前なんです。誰かの手を借りることを"迷惑"だと思わなくていい。人に何かをしてもらうことは、弱さじゃなくて、信頼の証ですよ。…そう思っていてください」
信頼の証……。そう、なのかな。
彼女の言葉を、すぐには自分の中に落とし込むことはできなかった。けれど、私の凝り固まった考えを少しずつ、優しく解きほぐされていくような感覚がする。
「……はい。ありがとうございます」
「はい。それでいいです」
そう言うことしかできなかったけれど、胡蝶さんは満足そうに笑って去っていった。
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